東大受験生 武藤さん
「鈴宮高校一年、武藤はるか」
一年生。
東大受験まで、残された時間は二年半ほどしかない。
長いように感じるかもしれないが、決して長くはない。
東大を目指す者の中には、小学四年生から中学受験のために塾へ通い、そのころから勉強を積み重ねてきた者もいる。
そうした受験生たちが十年近くかけて身につけた学力へ、武藤さんはわずか二年半で追いつかなければならないのだ。
「たわし先生」
「その呼び方はやめてくれ」
「どうして? 本名でしょ?」
「本名だから嫌なんだ」
はるかは、ほんの少しだけ笑った。
すぐにいつもの無表情へ戻ると、床へ置いていたヘルメットを拾った。
その近くには、折り畳まれた紙幣が落ちていた。
はるかは紙幣を拾い、枚数を数えてから私へ差し出した。
「これ、取られたお金でしょ?」
一万三千円。
奪われた金が、すべてそろっていた。
「どうしてここに?」
「投げたとき、あいつのポケットから落ちた」
私は両手で受け取った。
今月の食費と交通費だった。
これが戻ってこなければ、給料日までどうやって暮らせばいいのか分からなかった。
「ありがとう」
「助けるって約束したから」
「約束する前に助けてもらったんだけどな」
「じゃあ、前払い」
はるかはそう言うと、床に散らばった私の服を集め始めた。
作業用のズボンを渡され、私は身体を起こそうとした。
脇腹に鋭い痛みが走った。
「うっ……」
腕から力が抜け、再び床へ倒れそうになった。
はるかが私の肩を支えた。
「病院へ行った方がいい」
「大丈夫だ」
「立てないのに?」
「少し休めば動ける」
私は壁へ手をつき、もう一度立ち上がろうとした。
今度は目の前が暗くなった。
床が斜めに傾いたように感じた。
はるかに支えられなければ、顔から倒れていただろう。
「頭も打ってる」
「でも、仕事が残ってる」
「今日はもう無理」
「途中で帰ったら、清掃会社に連絡される」
私は壁へ寄りかかりながら、息を整えた。
廊下には、途中で置いてきたモップがある。
まだ掃除していない場所も残っている。
ここで仕事を放り出したことが知られれば、今度こそクビになるかもしれない。
「事情を話せばいい」
「話せない」
「どうして?」
「生徒に殴られたなんて言ったら、学校を巻き込んだ問題になる。清掃会社は、面倒を起こした俺を別の人間と入れ替える」
「悪いのは殴った方でしょ」
「会社がそう考えてくれるとは限らない」
以前の現場でも、悪いのはすべて私ということにされた。
何が起きたかより、取引先がどう感じたかを優先する会社だった。
「じゃあ、何て説明するの?」
「階段から落ちたことにする」
「顔の傷も?」
「階段で顔を打った」
「服を脱がされたことも?」
「それは説明する必要がない」
はるかは納得していない様子だった。
それでも、今は私を説得している時間がないと判断したらしい。
床に落ちていたシャツとズボンを渡してきた。
私は時間をかけて服を着た。
ボタンを留めるだけでも指が震えた。
眼鏡は曲がっていたが、かけなければほとんど見えない。左右の高さがずれたまま、無理やり耳へかけた。
「歩ける?」
「たぶん」
一歩進んだ。
身体が右へ傾いた。
はるかがすぐに腕をつかんだ。
「歩けてない」
「今のは床が悪い」
「床は平ら」
反論できなかった。
結局、私ははるかに肩を貸してもらい、旧校舎を出た。
途中で置いてきたモップを回収し、用具室へ戻す。
残っていた清掃については、体調不良で早退すると学校の担当者へ伝えた。
清掃会社には、自分で電話をかけた。
『階段から落ちまして、今日はこれ以上作業を続けられそうにありません』
電話の向こうで、長いため息が聞こえた。
明日までに回復しなければ、必ず連絡するように言われた。
まだクビにはならなかった。
それだけで安心した。
学校の裏門を出たところで、はるかが尋ねた。
「勉強は、いつから?」
「今、その話をするのか?」
「約束したから」
「まず病院だ」
「病院のあとならできる?」
「今日は休ませてくれ」
「じゃあ、明日」
「この状態で明日も無理だ」
「いつならできるの?」
私は少し考えた。
身体が治るまでには、数日かかる。
その間に、今の東大入試について調べる必要もある。
「一週間後」
はるかは不満そうな顔をした。
「遅い」
「三十年以上前の知識で教えられると思うな。俺にも準備が必要なんだ」
「分かった。一週間後」
はるかは私の腕を自分の肩へ回し、歩き始めた。
「その代わり、明日から護身術を始める」
「話を聞いてたか?」
「歩けないなら、座ったままできることを教える」
この少女は、私を休ませる気がないらしい。
こうして私は、武藤はるかという生徒を持った。
そして翌日から、自分より四十歳も年下の少女に、戦い方を教わることになった。




