↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
18/55

東大受験生 武藤さん



「鈴宮高校一年、武藤はるか」


一年生。


東大受験まで、残された時間は二年半ほどしかない。


長いように感じるかもしれないが、決して長くはない。


東大を目指す者の中には、小学四年生から中学受験のために塾へ通い、そのころから勉強を積み重ねてきた者もいる。


そうした受験生たちが十年近くかけて身につけた学力へ、武藤さんはわずか二年半で追いつかなければならないのだ。


「たわし先生」


「その呼び方はやめてくれ」


「どうして? 本名でしょ?」


「本名だから嫌なんだ」


はるかは、ほんの少しだけ笑った。


すぐにいつもの無表情へ戻ると、床へ置いていたヘルメットを拾った。


その近くには、折り畳まれた紙幣が落ちていた。


はるかは紙幣を拾い、枚数を数えてから私へ差し出した。


「これ、取られたお金でしょ?」


一万三千円。


奪われた金が、すべてそろっていた。


「どうしてここに?」


「投げたとき、あいつのポケットから落ちた」


私は両手で受け取った。


今月の食費と交通費だった。


これが戻ってこなければ、給料日までどうやって暮らせばいいのか分からなかった。


「ありがとう」


「助けるって約束したから」


「約束する前に助けてもらったんだけどな」


「じゃあ、前払い」


はるかはそう言うと、床に散らばった私の服を集め始めた。


作業用のズボンを渡され、私は身体を起こそうとした。


脇腹に鋭い痛みが走った。


「うっ……」


腕から力が抜け、再び床へ倒れそうになった。


はるかが私の肩を支えた。


「病院へ行った方がいい」


「大丈夫だ」


「立てないのに?」


「少し休めば動ける」


私は壁へ手をつき、もう一度立ち上がろうとした。


今度は目の前が暗くなった。


床が斜めに傾いたように感じた。


はるかに支えられなければ、顔から倒れていただろう。


「頭も打ってる」


「でも、仕事が残ってる」


「今日はもう無理」


「途中で帰ったら、清掃会社に連絡される」


私は壁へ寄りかかりながら、息を整えた。


廊下には、途中で置いてきたモップがある。


まだ掃除していない場所も残っている。


ここで仕事を放り出したことが知られれば、今度こそクビになるかもしれない。


「事情を話せばいい」


「話せない」


「どうして?」


「生徒に殴られたなんて言ったら、学校を巻き込んだ問題になる。清掃会社は、面倒を起こした俺を別の人間と入れ替える」


「悪いのは殴った方でしょ」


「会社がそう考えてくれるとは限らない」


以前の現場でも、悪いのはすべて私ということにされた。


何が起きたかより、取引先がどう感じたかを優先する会社だった。


「じゃあ、何て説明するの?」


「階段から落ちたことにする」


「顔の傷も?」


「階段で顔を打った」


「服を脱がされたことも?」


「それは説明する必要がない」


はるかは納得していない様子だった。


それでも、今は私を説得している時間がないと判断したらしい。


床に落ちていたシャツとズボンを渡してきた。


私は時間をかけて服を着た。


ボタンを留めるだけでも指が震えた。


眼鏡は曲がっていたが、かけなければほとんど見えない。左右の高さがずれたまま、無理やり耳へかけた。


「歩ける?」


「たぶん」


一歩進んだ。


身体が右へ傾いた。


はるかがすぐに腕をつかんだ。


「歩けてない」


「今のは床が悪い」


「床は平ら」


反論できなかった。


結局、私ははるかに肩を貸してもらい、旧校舎を出た。


途中で置いてきたモップを回収し、用具室へ戻す。


残っていた清掃については、体調不良で早退すると学校の担当者へ伝えた。


清掃会社には、自分で電話をかけた。


『階段から落ちまして、今日はこれ以上作業を続けられそうにありません』


電話の向こうで、長いため息が聞こえた。


明日までに回復しなければ、必ず連絡するように言われた。


まだクビにはならなかった。


それだけで安心した。


学校の裏門を出たところで、はるかが尋ねた。


「勉強は、いつから?」


「今、その話をするのか?」


「約束したから」


「まず病院だ」


「病院のあとならできる?」


「今日は休ませてくれ」


「じゃあ、明日」


「この状態で明日も無理だ」


「いつならできるの?」


私は少し考えた。


身体が治るまでには、数日かかる。


その間に、今の東大入試について調べる必要もある。


「一週間後」


はるかは不満そうな顔をした。


「遅い」


「三十年以上前の知識で教えられると思うな。俺にも準備が必要なんだ」


「分かった。一週間後」


はるかは私の腕を自分の肩へ回し、歩き始めた。


「その代わり、明日から護身術を始める」


「話を聞いてたか?」


「歩けないなら、座ったままできることを教える」


この少女は、私を休ませる気がないらしい。


こうして私は、武藤はるかという生徒を持った。


そして翌日から、自分より四十歳も年下の少女に、戦い方を教わることになった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。