2人の先生 東大への道
東大へ入れば、人生を変えられる。
目の前の少女は、かつての私と同じことを言っていた。
「やめた方がいい」
気づけば、私はそう口にしていた。
「何を?」
「東大を目指すことだ」
少女は黙った。
「俺も、東大へ入れば人生を変えられると思ってた。いい会社に入り、周りから認められて、幸せになれると信じてた」
「でも、あなたは東大に入った」
「入っただけだ」
私は身体にかけられた作業着を強く握った。
「東大へ入って、大企業にも入った。それでも一年で辞めた。そのあとは何をやっても続かなかった。夢を追っても失敗した。最後には、正社員として雇ってくれる会社すらなくなった」
少女は何も言わない。
「学歴があれば、人生がうまくいくわけじゃない。東大にいるのだって、立派な人間ばかりじゃない。人を見下す奴もいる。自分のことしか考えない奴もいる」
「今よりはまし」
「そんな保証はない!」
思わず声を荒らげた。
殴られた脇腹が痛んだが、言葉は止まらなかった。
「君は東大を知らない。受験がどれだけ厳しいかも、自分の学力がどれだけ足りないかも分かってない。少し頑張れば人生をやり直せると思ってるなら、大間違いだ!」
「少しで済むとは思ってない」
「だったら何年かけるつもりだ。10年か、20年か? 毎日勉強して、遊ぶことも眠ることも我慢して、それでも落ちる可能性の方が高い」
「それでもやる」
「簡単に言うな!」
自分でも、なぜこれほど腹が立つのか分からなかった。
少女に怒っているのではない。
かつて同じことを信じていた、自分自身に怒っていた。
「バカが東大に関わっても、不幸になるだけだ!」
少女の身体が、わずかに動いた。
それでも私は止まれなかった。
「俺を見ろ! 東大を出た結果がこれだ! 五十六歳で清掃員をして、子供に金を奪われ、パンツ一枚にされて、泣き喚いてる!」
自分で口にするたび、惨めさが増していく。
「俺みたいな負け組に関わらない方がいい! 俺は自分の人生さえどうにもできなかった。そんな人間が、君を東大へ連れていけるわけがない!」
「でも――」
「頑張れば報われるなんて嘘だ!」
少女の言葉を遮った。
「頑張れば頑張るほど、失敗したときに失うものが増える。使った時間も、金も、期待も、全部無駄になる。俺は頑張って、何度も失敗して、そのたびに不幸になった!」
大企業を辞めたとき。
転職を繰り返したとき。
夢を諦めたとき。
そして今日、子供たちに殴られ、人生そのものを笑われたとき。
すべてが無駄だったように思えた。
「君はまだ若い」
声が震えた。
「まだ未来がある。俺なんかと一緒に破滅する必要はない」
それが、私の本心だった。
私はもう手遅れだ。
だが、目の前の少女まで巻き込む必要はない。
私と関われば、この子まで失敗する。
私には、そうとしか思えなかった。
長い沈黙が流れた。
やがて、少女が口を開いた。
「それでもいい」
聞き間違いかと思った。
「何?」
「それでもいいって言ったの」
「話を聞いてたのか? 失敗するかもしれないんだぞ」
「知ってる」
「何十年も無駄にするかもしれない」
「それでもいい」
「人生を壊すかもしれないんだ」
「ここにいるだけでも、私の人生は壊れていく」
少女は床に並んだ空き缶を見た。
黒田派。
青木派。
神崎派。
真壁派。
この学校で待っているのは、勉強とは無縁の派閥争いだった。
「何もしなければ、私はこのまま鈴宮高校を卒業する。卒業できるかも分からない。そのあとは、今までと同じ人たちに囲まれて、同じように生きていく」
「そんな人生を送るくらいなら、東大を目指して破滅する方がいい」
「破滅する方がいいなんて、簡単に言うな」
「簡単に言ってない」
少女の声は静かだった。
だが、迷いはなかった。
「自分で選んだ道なら、失敗してもいい。何もしないで、この環境のせいにしながら生きるよりずっといい」
少女は両手をヘルメットへ添えた。
顎の下へ指を入れ、留め具を外す。
小さな金属音がした。
それから、黒いヘルメットをゆっくりと持ち上げた。
最初に見えたのは、汗で濡れた細い顎だった。
続いて、薄く結ばれた唇と、まっすぐ通った鼻筋が現れる。
ヘルメットの中に押し込められていた黒い髪がほどけ、肩へ流れ落ちた。
長い髪の一部が頬へ張りついている。
少女はヘルメットを完全に脱ぐと、小さく首を振った。
乱れた黒髪が広がり、再び肩へ落ち着いた。
私は思わず、彼女の顔を見つめた。
整った顔立ちの少女だった。
白い肌に、細い眉。
大きな目は美しかったが、愛想のよさや柔らかさはなかった。
黒い瞳はまっすぐに私を捉え、少しも逸らされない。
校内ですれ違えば、多くの生徒が振り返るだろう。
それほど目を引く容姿だった。
しかし、かわいらしいという印象よりも、強いという印象の方が先に来た。
何人もの不良を相手にしても怯まず、自分の人生を自分で選ぶと言い切った意志が、その目に表れていた。
ヘルメットで顔を隠していたときよりも、むしろ近寄りがたく感じた。
少女はヘルメットを脇へ抱えた。
「顔も知らない人間とは、一緒に破滅できないでしょ」
冗談なのか、本気なのか分からなかった。
少女は私の前へ右手を差し出した。
「あなたが失敗するなら、私も一緒に失敗する」
「俺と関われば、本当に不幸になるかもしれないんだぞ」
「それでもいい」
差し出された手は細かった。
だが、その手が何人もの不良を殴り、投げ飛ばしたことを、私は知っている。
「東大を目指して破滅するなら、それが私の本望」
少女は私の目を見たまま、最後にはっきりと言った。
「あなたと一緒に破滅してもいい」
私は、その手を見つめた。
自分の手は、床を這ったせいで汚れていた。
指は腫れ、爪の間には埃が入り込んでいる。
こんな手で、少女の未来をつかんでいいのだろうか。
私には分からなかった。
東大へ合格させられる自信などない。
勉強を教えられる保証もない。
そもそも、自分自身の人生すら立て直せていない。
それでも少女は、手を引かなかった。
私は震える腕を持ち上げた。
「一つだけ、訂正させてくれ」
「何?」
「一緒に破滅するために教えるんじゃない」
少女の手へ、自分の手を重ねた。
「破滅しないために教える。やるからには、東大合格を目指す」
少女の指が、私の手を強く握り返した。
細い手からは想像できないほど、力強い握手だった。
「もちろん!当たり前じゃん!」
少女は、ほんの少しだけ笑った。
ヘルメットを外して初めて見せた笑顔だった。
「よろしく、先生」
「まだ先生じゃない」
「今から先生」
私は困ったが、もう手を離すことはできなかった。
そのとき、まだ彼女の名前すら知らないことに気づいた。
「そういえば、君の名前は?」
少女は一瞬、意外そうな顔をした。
私の本名を勝手に派閥名へ使っておきながら、自分はまだ名乗っていなかったことを思い出したらしい。
「はるか…」
少女は私の手を握ったまま答えた。
「鈴宮高校一年、武藤 はるか」
「武藤……はるか」
忘れないように、私はその名前を繰り返した。
「田代たわし先生」
「その呼び方はやめてくれ」
「どうして? 本名でしょ?」
「本名だから嫌なんだ」
武藤さんは再び、わずかに笑った。
私は、武藤はるかという少女の先生になった。
そして彼女は、私を守り、戦い方を教える先生になった。鈴宮高校の派閥争いを生き延びながら、東京大学を目指すために。




