人生を変えるため
第15話 人生を変えるため
「それなのに、どうして東大へ行きたいんだ?」
女子生徒は答えなかった。
黒いシールドを私へ向けたまま、黙り込んでいる。
聞いてはいけないことだったのかもしれない。
「言いたくないなら、別にいい」
私がそう言うと、女子生徒は床に並んだ空き缶へ目を落とした。
「私が鈴宮高校へ入った理由は、簡単」
ヘルメットの奥から、くぐもった声が聞こえた。
「ここしか入れる高校がなかったから」
「ここしか?」
「中学まで、まともに勉強してこなかった。授業も聞かなかったし、家で机に向かったこともほとんどない。入試を受けた学校には、全部落ちた」
「それなら、どうして今になって東大なんだ?」
彼女は少し考えてから答えた。
「今まで、ずっと頭の悪い人たちに囲まれて生きてきたから」
その言葉には、迷いがなかった。
「勉強ができないって意味だけじゃない。少し気に入らないことがあれば殴る。欲しい物があれば奪う。嫌いな人がいれば、みんなで追い詰める。将来のことなんて考えずに、その日さえ楽しければいいって人ばかりだった」
床に散らばった空き缶や煙草の吸い殻が、彼女の言葉を表しているようだった。
「家でも、学校でも、ずっとそういう人たちを見てきた」
「嫌だったのか?」
「嫌だった」
女子生徒は即答した。
「でも、私も同じだった。何かあれば喧嘩して、勉強なんて何の役にも立たないと思ってた。気づいたときには、この学校しか入れる場所がなかった」
鈴宮高校へ入学しても、周囲の環境は変わらなかった。
むしろ、以前より悪くなった。
全国から集まった不良たちは、誰が一番強いのかを争い、毎日のように喧嘩を繰り返している。
教師も止めようとしない。
生徒たちも、それが普通だと思っている。
「このままここにいたら、私も同じような人間になる」
彼女は自分の両手を見た。
つい先ほど、不良たちを殴り、投げ飛ばした手だった。
「喧嘩に勝って、鈴宮高校の頂点に立って、それで何が残るの?」
私は答えられなかった。
「卒業しても、この町で同じような人たちと一緒にいる。誰かと喧嘩して、勝ったとか負けたとか、そんな話をしながら生きていく」
女子生徒は、倒れていた黒田派の空き缶を指先で起こした。
「そんな人生は嫌」
その声には、怒りのようなものが含まれていた。
「だから東大へ行く」
「ほかにも大学はあるだろ」
「どうせ人生を変えるなら、一番高いところへ行きたい」
彼女にとって、鈴宮高校の頂点は価値のないものだった。
この学校の不良たちが拳で頂点を目指すように、彼女は勉強で別の頂点を目指そうとしている。
「東大には、日本で一番頭のいい人たちが集まるんでしょ?」
「学力だけなら、そうかもしれない」
「今までとは違う人たちの中に行きたい。違う場所で、違う人生を送りたい」
彼女は黒いシールドを私へ向けた。
「東大へ入れば、人生を変えられると思うから」
胸の奥に、鋭いものが刺さった。
その言葉を、私は知っていた。
いい大学へ入れば、いい会社へ入れる。
立派な人間たちに囲まれ、幸せな人生を送ることができる。
私もかつて、同じことを信じていた。
そのために勉強だけを続け、東京大学へ入った。
そして五十六歳になった今、私はパンツ一枚で、不良高校の床に倒れている。
東大へ入れば、人生を変えられる。
目の前の少女は、かつての私と同じことを言っていた。




