取引
「……本当です。私は東大卒です」
私が答えると、女子生徒は小さく頷いた。
「だったら、私に勉強を教えて」
「勉強ですか?」
「私を東大に合格させて」
あまりに突然の頼みだった。
私はパンツ一枚で床に倒れ、全身を痛めている。そんな人間へ頼むことではないと思った。
「そんなの無理です」
「どうして?」
「私は教師ではありません。それに、東大を卒業したのは三十年以上も前です。今の入試については何も知りません」
「調べればいい」
「そういう問題ではありません」
私は作業着で身体を隠しながら答えた。
「今の私は、自分の生活だけで精いっぱいです。他人を東大へ合格させるような力はありません」
「でも、あなたは合格した」
「昔の話です」
「それでも、勉強の仕方は知ってる」
女子生徒は迷いなく言った。
「今の私は清掃員です。あなたを東大に合格させられるような人間ではありません」
自分で口にしていて、情けなくなった。
東大を卒業したという事実が、今の私には何の価値もない。
むしろ口にするたび、現在の惨めさを強調しているようだった。
「それに、どうして東大なんですか」
「行きたいから」
「この学校からでは、現実的ではありません」
口にした直後、また余計なことを言ったと思った。
だが、女子生徒は怒らなかった。
「だから、あなたに教えてもらうの」
私が何度断っても、諦めるつもりはないらしい。
「交換条件にしよう」
女子生徒は言った。
「交換条件?」
「あなたが私に勉強を教える。代わりに、私があなたを守る」
彼女は、不良たちが逃げていった扉へ顔を向けた。
「それに、私がいないときでも戦えるように、護身術を教える」
「私に戦えと言うのですか?」
「そう!」
「五十六歳ですよ。運動もしていません。今から護身術なんて無理です」
「このままなら、また同じ目に遭う」
何も言い返せなかった。
今日の私は、殴られても、金を奪われても、服を脱がされても、謝ることしかできなかった。警察や会社に相談もできない。次に問題を起こせば首になるからだ。たとえ、私が悪くなくても。
私は黙り込んだ。
「それに、今日で終わったと思ってる?」
女子生徒の声が低くなった。
「あいつらは報復に来る」
女子生徒は、当然のことのように続けた。
「この高校には、不良たちの派閥がいくつもある。さっきの連中も、そのうちの一つのでかい派閥に属してる」
私は扉を見つめた。
廊下を走っていった足音は、もう聞こえない。
「その派閥に属する不良たちを、あなたはボコボコにしたのよ。タダで済むと思う?」
私は彼女の言葉を頭の中で繰り返した。
何かがおかしかった。
「ボコボコにしたのは、あなたですよね?」




