ヘルメットの少女
振り上げられた拳を、女子生徒がつかんでいた。
「何だ、お前」
リーダー格の男が腕を振りほどこうとした。
だが、女子生徒の手は離れなかった。
彼女は、この学校の制服を着ていた。
頭には、顔全体を覆う黒いバイク用のヘルメットをかぶっている。黒いシールドに隠され、顔も表情もまったく見えなかった。
「離せよ!」
男が怒鳴り、空いている方の拳を振り回した。
女子生徒は顔をわずかに傾け、その拳をかわした。
同時に、つかんでいた手首を引き寄せる。
男の身体が前へ崩れた。
次の瞬間、女子生徒の膝が男の腹へ突き刺さった。
「ぐっ……!」
男の身体が折れ曲がる。
女子生徒は男の首の後ろへ腕を回し、身体を反転させた。
男の足が床から浮いた。
何が起きたのか分からなかった。
大きな音とともに、男の背中が床へ叩きつけられた。
部屋の空気が止まった。
倒された本人も、周囲の不良たちも、すぐには動かなかった。
私も同じだった。
薄れていた意識が、目の前の出来事によってわずかに引き戻された。
「てめえ!」
肩幅の広い男が、女子生徒へ殴りかかった。
彼女は一歩踏み込み、腕で拳を受け流した。
直後、男の腹へ拳を打ち込む。
男の身体がくの字に曲がった。
さらに顎を狙って、もう一発。
短く、鋭い打撃だった。
空手だろうか。
格闘技に詳しくない私には、それくらいしか思い浮かばなかった。
女子生徒は、よろめいた男の襟と袖をつかんだ。
男は身体を引こうとしたが、逃げられなかった。
ヘルメットが男の顔面へぶつかる。
鈍い音がした。
男が鼻を押さえた瞬間、女子生徒は自分の脚を男の脚へ絡ませた。
上半身を押し、足を刈る。
肩幅の広い身体が、横向きに倒れた。
床へ落ちる直前、女子生徒は男の腕を強く引いた。
受け身を取ることもできず、男は肩から床へ激突した。
「があっ!」
短い悲鳴が上がった。
今度は、柔道だろうか。
打撃だけではない。
彼女は相手をつかみ、投げることもできた。
だが、空手と柔道を同時に使うものなのか、私には分からなかった。
「こいつ、やべえぞ!」
後ろにいた二人が、同時に動いた。
一人が女子生徒の背後から抱きつく。
もう一人が、正面から蹴りを放った。
女子生徒は背後の男に抱えられたまま、身体をひねった。
正面から飛んできた蹴りが、彼女ではなく、背後の男の脛へ当たった。
「痛え!」
抱きつく力が緩んだ。
女子生徒は腰を落とし、背後の男の腕をつかんだ。
そのまま身体を前へ折る。
男の身体が、彼女の背中を越えて宙を舞った。
机の上へ背中から落ち、積まれていた空き缶が床へ散らばった。
正面にいた男が、もう一度蹴りを放つ。
女子生徒は両腕で受け止めた。
衝撃で半歩下がったが、倒れなかった。
蹴りを受けたまま、男の脚を抱える。
「離せ!」
男は片脚で跳ねながら、女子生徒のヘルメットを殴った。
一発。
二発。
拳が硬いヘルメットへ当たるたび、乾いた音が響いた。
それでも女子生徒は、抱えた脚を離さなかった。
軸足へ低い蹴りを入れる。
男の膝が崩れた。
女子生徒は抱えていた脚を持ち上げ、そのまま前へ押し込んだ。
男の身体が後ろへ倒れ、背中から床へ落ちた。
そこへ女子生徒が覆いかぶさる。
制服の襟をつかみ、ヘルメット越しの頭突きを一発入れた。
男の抵抗が止まった。
空手でも、柔道でもないように思えた。
殴る。
蹴る。
つかむ。
投げる。
相手と密着した状態から、硬いヘルメットで頭突きまで放つ。
何かの武術なのだろうか。
とにかく強かった。
それだけは、格闘技を知らない私にも理解できた。
次から次へと、不良たちが倒されていった。
一人を殴り、一人を投げる。
殴りかかってきた腕をつかみ、その勢いを利用して床へ転がす。
立ち上がろうとした男の腹へ蹴りを入れ、別の男が背後から襲えば、身体を沈めて前へ投げ飛ばす。
まさに、ちぎっては投げ、ちぎっては投げていた。
だが、彼女も無傷ではなかった。
横から振られた拳が、ヘルメットに当たった。
大きな音がして、身体がよろめいた。
別の男が腰へしがみつく。
女子生徒は二人がかりで壁へ押し込まれた。
「押さえろ!」
起き上がったリーダー格の男が、女子生徒の腹を蹴った。
彼女の身体が壁へぶつかった。
「調子に乗んなよ!」
もう一度、蹴りが飛んだ。
女子生徒は身体を横へずらした。
男の靴底が壁に当たる。
その脚が下りるより早く、彼女は踏み込んだ。
左の拳が男の腹へ突き刺さった。
続けて、右の拳が顔面を覆う腕の隙間へ入った。
男の頭が跳ね上がる。
女子生徒は男の後頭部へ片手を添え、膝を腹へ入れた。
動きの止まった男の襟をつかみ、足を引っかける。
押し倒すように、床へ投げた。
倒れた男の胸元へ膝をつき、拳を振り上げる。
「や、やめろ!」
男が両腕で顔を隠した。
女子生徒の拳は、その顔の直前で止まった。
「次にこの人へ手を出したら、今度は止めない」
ヘルメットの中から、低くくぐもった声が聞こえた。
「分かった?」
男は何度も頷いた。
女子生徒が身体を離すと、男は床を這って逃げた。
「おい、行くぞ!」
不良たちは、倒れている仲間を起こした。
肩を貸し合い、机や壁につかまりながら扉へ向かう。
リーダー格の男は、出口で一度振り返った。
何か言いたそうにしていたが、女子生徒が一歩近づくと、すぐに目をそらした。
彼らは部屋から逃げていった。
廊下を走る足音が、少しずつ遠ざかっていく。
部屋には、私と女子生徒だけが残された。
私はパンツ一枚のまま、床に倒れていた。
助かったという実感はなかった。
全身が痛み、起き上がることもできなかった。
女子生徒は、床に落ちていた私の作業着を拾った。
それを私の身体へかける。
続いて、踏まれて曲がった眼鏡を拾い、私のそばへ置いた。
「ありがとうございます……」
かすれた声で言った。
女子生徒は答えなかった。
私の前にしゃがみ込む。
黒いシールドに、自分の腫れた顔が映っていた。
女子生徒は私を助け起こそうとも、けがを心配しようともしなかった。
しばらく黙って私を見たあと、尋ねた。
「東大に行ってたっていうのは、本当?」
なぜ、今それを聞くのだろう。
助けてくれた理由も、ヘルメットをかぶっている理由も分からなかった。
私は作業着で身体を隠しながら、小さく頷いた。
「……本当です」
女子生徒は、しばらく黙って私を見つめていた。
黒いシールドの奥で、彼女がどんな顔をしているのかは分からなかった。




