第3話 ヴァレストの力
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冷たい闇が容赦なく体温を奪い、どこかから聞こえるモンスターの遠吠えが、容赦なく精神を削っていく。俺は、傷ついた体を引きずりながら、ただ当てもなく、森の奥へと進んでいた。
腹部に受けた斬撃が、呼吸をするたびに痛みを主張する。肩の骨は軋み、そのら腹部からはじわじわと血が流れ続けていた。出血のせいか、頭がひどく朦朧とする。
(このまま、俺は死ぬのか?)
脳裏に、元仲間たちの顔が浮かんだ。俺を嘲笑ったシグルド。侮蔑の目を向けたブリュンヒルデ。わざとらしく失望してみせたスティニア。そして、涙を流しながら、俺にとどめを刺すことに加担したステイシー。
怒りが、腹の底から湧き上がってくる。
あいつらを、このままにはしておけない。俺を裏切り、犯罪者の烙印を押し、英雄の名を騙る偽善者たちを、絶対に許さない。だが、今の俺に何ができる?
金も、武器も、仲間も、信じてくれる者さえ、もういない。あるのは、このボロボロの体と、無力な怒りだけだ。
不正を暴く、なんて心に誓ったはずの決意も、今は冷たい絶望の中でかき消えそうになっていた。
ザッ……ザッ!
木の根に足を取られ、俺は遂に地面に倒れ伏した。もう、指一本動かせない。意識が、闇の向こう側へと引きずり込まれていく。
ああ、尊敬していたロゼオ、あんたなら、こんな時、どうしたんだろうな……俺は、自嘲の笑みを浮かべ、ゆっくりと目を閉じた。
その、瞬間だった。
どこからか、澄んだ空気が流れ込んできた。
閉じた瞼の裏に、淡い光を感じる。
最後の力を振り絞って顔を上げると、そこには信じられない光景が広がっていた。木々が円形に途切れており、まるで天がその場所だけを祝福しているかのように、満月が苔むした石造りの広場を煌々と照らし出していた。
広場の中央には、一体の石像と、その傍らに立つ巨大な一枚岩、モノリスが静かに佇んでいる。俺は何かに引き寄せられるように、その広場へと這い進んだ。
「なんだよ、これ」
石像は、翼の兜をかぶった、勇ましくもあり美しくしくもある女神の姿をしていた。その手には槍と盾が握られている。風雨に晒され、所々が欠け、顔には蜘蛛の巣がかかっている。だが、その気高い佇まいは、千年の時を経てもなお、神々しさを失っていなかった。
そして、その傍らに立つモノリス。黒曜石のように滑らかなその表面には、俺の知らない古代のルーン文字が、無数に刻み込まれている。月光を浴びたルーン文字は、まるで呼吸をしているかのように、淡い光を放ち、明滅を繰り返していた。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。忘れられた神の聖域か。死に場所としては、上出来かもしれない。
俺は、おぼつかない足取りで女神像に近づくと、その傷つき汚れた姿に、今の自分の境遇を重ね合わせた。
俺は無意識に、自分の破れた服の切れ端で、像の顔にかかった蜘蛛の巣を、そっと拭ってやった。それは何の計算もない、ただの気まぐれだった。
そして、俺はモノリスへと向き直った。
まるで、古代の叡智が俺を呼んでいるかのように、ルーン文字の光がより輝きを増す。俺は吸い寄せられるように、その冷たいモノリスへと震える手を伸ばした。
指先がルーン文字に触れた、その瞬間。
ゴオオオオオオッ!
世界から、音が消えた。
風の音も、虫の声も、自分自身の心臓の音さえも。完全な静寂の中、脳内に直接、声が響き渡った。
『――我が名は"ヴァレスト"。裁定を司る者である』
女性の声だった。厳格で、荘厳で、けれどどこか慈愛に満ちた、古の響きを持つ声。俺は声も出せず、ただ、その場に立ち尽くす。
『人の子よ。貴様の魂に渦巻くのは、怒り、憎しみ、そして絶望か。その魂が燃え尽きる先に、貴様は何を望む?』
声は、俺の心を見透かすように、問いかけてくる。
『復讐を望むか?』
復讐。その言葉に、シグルドたちの顔が次々と脳裏に浮かんだ。俺を陥れ、嘲笑った顔、顔、顔。
そうだ、復讐だ。あいつらを、俺と同じ絶望の淵に叩き落としてやりたい。俺からすべてを奪ったように、あいつらからもすべてを奪い、苦しみもがく姿を見てやりたい。そんな黒い感情が、心の底から湧き上がってくる。
だが。
その感情に身を任せそうになった瞬間、俺の脳裏に、もう一人の英雄の姿がよぎった。俺が憧れた男、ロゼオ。
彼は、決して復讐のために力を使ったりはしなかった。仲間を、街を、人々を守るために、その身を賭して戦った。
それにもし、ここで俺が復讐を願ってしまえば、俺は、俺が最も軽蔑するシグルドたちと、同じ種類の人間になってしまうのではないか。己の欲望のために、力に魂を売るだけの、醜い存在に。
俺は、こみ上げる黒い感情を、奥歯を噛みしめて押し殺した。そして脳内に響く声に、力の限り叫んだ。
「復讐は望まない」
俺の答えに、声はわずかに揺らいだように感じた。
『偽善だな。では、その魂、ただ朽ち果てるまで待つか?』
「違う!」
俺は顔を上げた。その瞳に、既に迷いはなかった。
「復讐などという後ろ向きな願いのために、俺の魂を売るつもりはない。俺が欲しいのは、力だ。奴らの嘘を暴き、地に堕ちた英雄の名誉を、そして俺自身の誇りを取り戻すための、真実を貫く力が欲しい!」
俺は一度言葉を切ると、更に続けた。
「裁きは俺が下すんじゃない。真実こそが、奴らに裁きを下すんだ!」
俺の魂からの叫びが、静寂の世界に響き渡る。沈黙の後、ヴァレストの声がどこか満足げに響いた。
『良かろう。その気高き魂、気に入った。我が力を貴様に授ける。真実の裁定者となり、偽りの英雄を断罪せよ』
その言葉と共に、モノリスが凄まじい光を放った。
「ぐッ……うおおおおおお!!」
膨大な力が触れた指先から、嵐のように俺の体へと流れ込んでくる。熱い、全身の血が沸騰し、骨がきしみ、細胞の一つ一つが、無理やり作り変えられていくような、想像を絶する感覚。
俺は、絶叫しながら、その力の奔流に耐えた。
やがて光は収まり、嵐は過ぎ去った。
俺は、はっと我に返り、自分の体を見下ろした。嘘のように、痛みが消えている。襲撃者に負わされた切り傷は跡形もなく塞がり、骨が軋んでいた肩も違和感なく動かせる。
それどころか体の内側から、これまで感じたことのない、強大な力がみなぎってくるのが分かった。
「これが、ヴァレストの力というのか」
森の木々の隙間から、夜明けの光が差し込み始めていた。俺は生まれ変わった体で、ゆっくりと立ち上がる。その瞳には、もはや絶望の色はなかった。
あるのは、偽りの英雄たちの不正を暴き、自らの誇りを取り戻すという、鋼のような決意だけだ。
俺の戦いは、今、ここから始まる。俺は、夜明けの光が照らし出すリヴァージュの街を、静かに見据えた。
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