(二十二)
「ついに来たか!」
常盤の身体を借り受けた空狐は舌打ちすると、鵺を踏みつけている足に力をこめた。鵺が悲しそうにひと鳴きし、地面にめりこむ。
彼女はそのままふわりと上空へ浮かび上がる。
「大天狗、力を貸せ。ヤツも鵺と同じで日護女様の生死は問わぬぞ」
迫る大百足をにらみつけていた大天狗が深々とため息をつく。
「いたしかたあるまい。いまからでは逃げるのもままならん」
彼は表情を柔らげ朱火の頭をなでる。
「すぐに迎えにくる。しばし待っておれ」
彼女の返事を待たず、大天狗は翼をひろげ飛び上がり空狐と並ぶ。
「勝てるか」
見る間に大きくなっていく大百足に目をやりながら、嫌そうに問いかける。
大百足は樹木をなぎ倒し、地響きを立てながら迫っている。しかしながら、妖力のない人間では、突風が駆け抜けているようにしか見えぬ。もっとも、大百足の姿を見ただけでも、胆力のないものでは命を落としかねない。人にとってはこの姿が見られないことは幸運であった。
「無理であろう。あれの堅さは伝説じゃ。神の力かそれに付随する力でもないとのう」
冷静にかたる空孤に、大天狗は面白くなさそうに鼻をならす。
「奴にも通る刃の使い手が、四半刻もたたずに参る」
空狐が言いつつ両手を前につきだすと、風が集まり球体をなしていく。
「要するに時間稼ぎか。よかろう。これも日護女を嫁に迎えるためじゃ」
大天狗が団扇をかかげると、同じような風の玉が生じた。
二体の妖が揃って風の玉をうちだす。ふたつの風の塊は交わり、さらに大きな風玉となり、がまっすぐに突き進んでいた大百足の頭に直撃する。
妖の巨体が見えない壁にぶつかり、進撃が押しとどめられる。しかし、大きな妖力を含んだ風玉も足を止めるのが精一杯。それどころか、大百足はじりっじりっと前に出る。受け流すという知恵がなかったのが唯一の救いであったろう。
空狐の顔は真っ青に、大天狗の顔はこれまで以上に赤くして、自分たちが作りだした風玉に妖力を送り続ける。
そんな中、妖たちの力比べを眺めていた朱火の瞳に炎のような赤き光が宿る。彼女は自身にしがみついていたのっぺらぼうと向かいあう。
「手伝ってくれる?」
のっぺらぼうの身体の震えがピタリととまり、彼はこくんと頷いた。
朱火が両の手でのっぺらぼうの頬を挟みこむと、彼の身体が光に包まれる。
光がおさまるとそこにのっぺらぼうの姿はなく、朱火の手のひらに小さな箏が残った。
彼女は顔色ひとつかえず、東に背をむけ、器用に小さな箏の弦をはじく。
澄んだ音色が赤く染まりはじめた空にとける。
「日護女、日護女。加護の中の杜璃は、いまいま出やる。夜明けの番人。弦と神が統べた。後ろの正面参れ」
朱火が祈りのような歌を口ずさむと、その背から赤い影が音もなくするすると伸びた。
京より遠く離れた駿河の地。
「おかあ、あれ見て! 途方もねえだ」
男の子が赤ん坊をあやす母親に、はしゃいだ様子で声をかける。
「あらあら、どうしたの」
母親は飛び跳ねる子供が指さす方を見る。
本日も霊峰富士はどっしりと腰をすえ、駿河の民を見守っていた。
「富士が動いてる!」
興奮しきりの息子に、彼女は首をかしげる。
当然ながら富士は動いていない。しかし、我が子の様子は決して嘘をついているように見えない。
母親は漠然とした不安に襲われる。半刻ほど前に地震があったばかり。
なにかよからぬことが起きる前兆ではないかと感じたのだ。
だが、息子が富士へ楽しそうに手を振るばかりで、他にはなにも異変は起きなかった。
「空狐! 奴を切れる刃はまだか!」
「いましばらく!」
滝のような汗をながす二体の妖に余裕はない。協力して強力な風玉を大百足に叩きつけたが、押し返すどころか、もはや足どめにも限界がきた。
木材が砕けるような嫌な音がしたかと思うと、大百足の額を押さえつけていた風玉が霧消する。
「ぬおっ!」
再び勢いよく前進を始めた大百足に、空狐も大天狗もあえなく弾き飛ばされた。
さえぎるものがいなくなり、巨大な妖は朱火を捕食せんと、彼女の背中に迫る。
もはや朱火を救うことは叶わぬと思われたとき、大百足の動きがぴたりと止まった。
天から伸びた巨大な手が大百足をしっかりと掴んだのである。
「おい、まさかあれは⁉」
唖然とする大天狗の横で、空狐はうっとりとした様子で天を見上げる。
「ああ、あれが伝説の大太法師。日護女様の東の守護」
大百足は巨大な手から逃れようともがくが、大百足をも上回る巨体の妖は気に留める様子もない。
にっこりとほほ笑み、朱火の小さな背中に恭しく一礼する。彼は踵をかえすと、わずか数歩で琵琶湖へと到着し大百足を湖の底へと沈めた。湖面が激しく揺れたが、やがて静まりかえる。
大太法師は琵琶湖から手を引き抜き振り返る。彼の大きな目に、のっぺらぼうにしがみつかれた小さな主が、手を振っている姿が映る。
彼は再び微笑み手を振り返すと富士へと戻っていく。
朱火の屋敷の周囲にも静けさが戻る。
山ひとつを埋め尽くすほど集まっていた妖たちも、残っているのは大天狗と先程吹き飛んだ烏天狗たち。
「退いてくれるな?」
朱火の元に戻って来るなり、確認してくる空孤に大天狗は苦い顔をする。
ここで退けば、再び陰陽師たちが結界を張るだろう。今回は他の妖たちが一斉に動いたことで、自ら結界を破る必要もなく力を温存できたが、このような機会がそう何度もあるとは思えない。
しかし、限りなく天狐に近い空狐を相手に、朱火を連れ去れるのは不可能だろう。
大天狗が言いたくない言葉を紡ぐために口を開きかける。すると、空孤の顔が大天狗以上にゆがむ。
彼女が足元に目を向ける。足首に蛇が噛みついていた。半身が地面に埋まった鵺から伸びた蛇が。




