石垣の下
川沿いの道を歩いているうちに、街の屋根が背後へ隠れた。
水面を、平底の舟がゆっくり進んでいる。岸から伸びた綱を引く馬が、その少し先を歩いていた。
レオンは舟と馬を見比べていたが、足を止めることはなかった。
やがて道が川から離れ、低い丘へ続いた。果樹の枝が石垣越しに並び、その手前に荷車の通れる入口があった。
入口で籠を積んでいた男へ声をかけると、すぐに奥から別の男が来た。日に焼けた首に布を巻き、片手に枝切りの鋏を持っている。
「ギルドから?」
「ああ。石尾の依頼だ」
「助かる。案内するよ」
男は鋏を入口の小屋へ置き、二人を園の中へ導いた。
果樹の間には、人が籠を持って歩ける幅が空けてある。下草も刈られていたが、奥へ進むにつれて伸びた草が目立ち始めた。
「出たのは、この先だ。足をやられた奴が見た時には一匹だった。その後、離れた所から確かめたら二匹いた」
男が立ち止まる。
果樹の列が終わる先に、古い石垣があった。高さは腰ほどだが、一部が崩れ、大小の石が草の上へ転がっている。
手前には、浅い溝が延びていた。
「ここから先には入ってない。落ちた実も、そのままだ」
「二匹を見たのは、どの辺りだ?」
「あの崩れた所。一匹は石の上、もう一匹は下にいた」
エドガーは男の指す場所を確かめた。
今、見える範囲に魔物の姿はない。
「石垣の向こうは?」
「隣の畑だ。ただ、今は何も植えてない。向こうの持ち主にも、近寄らないよう伝えてある」
「この溝は、どこへ続いてる」
「石垣の下を通って、外の水路へ出る。雨が降った時に水を逃がすためのものだよ」
溝は、枯れ草と落ち葉で半ば埋まっていた。
エドガーは石垣から十分に離れたまま、目でその先を追った。崩れた石の脇に、暗い隙間がある。
「今日は、この区画へ誰も入れないでくれ。隣の畑へ回って確かめることもある」
「分かった。何か手伝うことは?」
「今はない。終わったら呼びに行く」
男は頷き、来た道を戻っていった。
*
エドガーは背負い袋を、離れた木の根元へ置いた。
弩へ矢をつがえ、レオンを見る。
「先に、外から見よう」
「はい」
二人で園の端を回り、隣の畑へ出た。
土は乾き、刈り残された茎がまばらに立っている。こちら側にも石が落ちていたが、草が少ない分、足元は見やすかった。
エドガーは石垣へ近づきすぎず、ゆっくり歩いた。
排水路の出口はすぐに見つかった。
大きな平石を上へ渡し、その下へ水が通るようになっている。人が入れる広さではないが、石尾なら通れそうだった。
周りの土に、細い爪の跡が残っている。その間を、何かを引きずった線が横切っていた。
レオンが足を止めた。
「尾の跡ですかね」
「ああ。ここも使ってるらしい」
入口のすぐ前には、草の倒れていない土があった。奥は暗く、ここからでは見通せない。
覗き込むために顔を寄せる気にはならなかった。
二人は一度、果樹園側へ戻った。
先ほどまで空いていた平石の上に、灰褐色の背が載っていた。
エドガーは立ち止まり、片手を上げた。
レオンも止まる。
石尾だった。
腹を石に伏せ、短い四本脚を横へ張り出している。頭は平たく、太い尾には、石を重ねたような硬い節が並んでいた。
尾まで入れれば、男一人が横たわったほどの長さがある。
もう一匹は見えなかった。
エドガーは果樹の幹を挟み、身を低くした。
「一匹いる。石の上だ」
「見えました」
レオンは剣の柄へ手をかけたが、まだ抜かなかった。
石尾は動かない。時折、喉の辺りだけが膨らんでいた。
頭から背にかけては硬い鱗が重なっている。正面から弩を射っても、角度が悪ければ弾かれる。
横腹は、石に隠れていた。
「下りるのを待つか」
エドガーが言うと、レオンは魔物から少し離れた地面へ目を向けた。
「木のない所まで出てくれれば、俺が押さえられます」
「二匹目が出ても、追うなよ」
「はい。まず見えてる方ですね」
エドガーは頷いた。
レオンが腰の剣を静かに抜いた。
*
待っている間に、石尾が頭を上げた。
果樹の葉が揺れ、風が二人の背後から石垣へ抜けた。
平たい鼻先が、こちらを向く。
気づかれた。
エドガーは弩を上げた。
石尾はしばらく二人を見ていたが、やがて前脚を下ろした。爪が石を擦り、長い身体が草の上へ滑り下りる。
レオンが幹の陰から出た。
石尾の頭がそちらへ動く。
「来ます」
レオンは木から離れ、草の短い場所へ下がった。
石尾が走った。
低い身体が思った以上の速さで地面を這い、レオンとの間を詰める。
エドガーは矢を放たず、その後ろを見た。
崩れた石の下で、草が動いていた。
「もう一匹。石垣から出るぞ」
レオンの返事は短かった。
先の一匹が、レオンの手前で身体を曲げた。
太い尾が横へ走る。
レオンは踏み込まず、一歩大きく退いた。尾の先が草を薙ぎ、土を跳ね上げる。
その直後、レオンが前へ出た。
振り切った尾が戻るより早く、剣が首の付け根を捉えた。刃は背の厚い鱗を避け、横から深く入る。
石尾が身をよじった。
レオンは剣を引き抜き、再び間を空けた。
その向こうで、二匹目が石の下から全身を現していた。
一匹目より少し小さい。
頭を低くしたまま、レオンへ向かって走り出す。
エドガーからは、その横腹が見えた。
弦が鳴った。
矢を受けた石尾が脚を乱し、地面へ腹を打ちつけた。それでも止まらず、尾を振って身体の向きを変える。
こちらへ来る。
エドガーは弩を下ろし、木の幹を間に置いて下がった。
「そっちは、そのまま見てろ」
レオンへ声をかけ、腰の剣を抜く。
二匹目は幹を回り込もうとしたが、矢の刺さった側の前脚がうまく動いていなかった。身体を引きずるように進み、そのたびに草へ血がつく。
エドガーは木から離れなかった。
石尾の鼻先が幹の脇へ出る。
剣を振り上げず、低く構えたまま待った。
魔物がもう一歩進む。
頭の後ろが見えたところで、刃先を首の横へ突き入れた。
手応えを確かめ、抜くと同時に下がる。
尾が幹を打った。
鈍い音が響き、樹皮の欠片が落ちた。
エドガーは剣を身体の前へ戻し、距離を取った。
石尾は口を開いたまま、前脚で土を掻いていた。やがて、その動きが弱くなる。
レオンの方では、一匹目が横倒しになっていた。
「動くか?」
「まだ、尾が少し」
レオンも近づかずに見ていた。
エドガーは二匹の位置を確かめてから、石垣へ目を戻した。
草は、風に揺れているだけだった。
*
二匹とも動かなくなってから、さらに間を置いた。
レオンが周りを見る間に、エドガーは弩を巻き上げ、新しい矢をつがえた。
終わったと思ってから、もう一匹出る。
そういう仕事もある。
「怪我は?」
「ありません。エドガーさんは?」
「ああ。何ともない」
レオンは剣の汚れを拭い、石尾の尾へ目を向けた。
「やっぱり、受けなくてよかったです」
木の根元には、剥がれた樹皮が落ちていた。
「踏み込むのは早かったな」
「戻ってくる前なら、と思って。前に戦った時より、動きが見えました」
レオンはそう答え、刃こぼれがないか剣を傾けた。
無理に尾を斬ろうとも、踏みつけて止めようともしなかった。
動きを見て、空いたところへ入った。
エドガーが口を出す間もないほどだったが、危うさは感じなかった。
「次も同じ速さとは限らんが、今のはよかった」
「はい」
レオンの表情が明るくなった。
エドガーは石垣を顎で示した。
「残りを確かめるぞ」
二人で、魔物が出てきた辺りを見る。
崩れた石の下は、排水路の脇へつながっていた。乾いた土が擦れ、草が平たく潰れている。
入口から離れて弩を構え、レオンに外側を見てもらう。
それから位置を替え、二人で声を掛け合いながら、反対側の出口も確かめた。
しばらく待っても、新たな動きはなかった。
エドガーは落ちていた長い枝で、入口を覆う枯れ草を少しずつ寄せた。手鍬を使うのは、手前の浅い土を除くところまでにした。
石の奥へ、道具を突き込むことはしない。
草がなくなると、暗い隙間が思ったより奥まで続いているのが分かった。
「ここ、全部は見えませんね」
レオンが言った。
「ああ。上の石をどけないと無理だ」
平石の上には、石垣の一部が載っている。
持ち上げる力があっても、勝手に動かしていい物ではなかった。
エドガーは立ち上がった。
「持ち主を呼ぼう。どこまで開けられるか、相談だ」
「俺が行きます。ここで待っていてください」
「ああ。戻る時も、さっきの道を使えよ」
レオンが果樹の列を戻っていった。
エドガーは二つの入口を見渡せる所まで下がり、弩を持ち直した。
木の間から、陽が差している。
少し離れた区画では、籠を置く音と、人の話し声が聞こえた。
あの人たちが、ここでも同じように働けるようにする。
二匹を倒しただけで帰るには、まだ確かめておくことが残っていた。




