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引き返す道

肩を軽く叩かれて、エドガーは目を開けた。


「そろそろ明るくなります」


 トマスが声を落として言った。


 小屋の窓が薄く白んでいる。寝台の上で身体を起こすと、毛布が膝から滑った。


「何かあったか?」

「いえ。小動物の気配くらいです」


 エドガーは頷き、靴へ足を入れた。


 途中で目を覚ますこともなく眠っていた。人に見張りを任せた朝は、久しぶりだった。


 トマスは火のそばへ戻り、鍋をかけ直した。


「先に食べましょう。食べたら、少し寝かせてもらっていいですか」

「ああ。出るのはその後だ」


 エドガーは水を汲んだ椀を受け取り、顔を洗いに外へ出た。


     *


 小屋を出発した頃には、木々の間まで朝の光が届いていた。


 昨日の沢へ下る手前で道を外れ、岸に沿う斜面を上がる。足跡を追うためではなく、対岸を見渡せる場所を探すためだった。


 エドガーが先を歩き、トマスは少し間を空けて続いた。


 斜面には乾いた枝が散らばっている。足元を選びながら進むので、距離の割に時間がかかった。


 途中で一度、木々の間から沢が見えた。


 昨日見つけた足跡は、少し下流になる。対岸の草が倒れた筋も確かめられたが、その先は低木に隠れていた。


 エドガーはしゃがみ、地図を開いた。


「もう少し上がってみる」

「このまま岸沿いですか?」

「ああ。見えなけりゃ、無理に先へは行かん」


 トマスは背後を見てから頷いた。


 二人は来た道を確かめ、再び歩き始めた。


     *


 先に気づいたのは、トマスだった。


 後ろから袖を引かれ、エドガーは足を止めた。


 トマスは声を出さず、対岸の木立を指した。


 太い幹の向こうに、灰褐色の塊があった。


 最初は、倒木の根元に岩が重なっているように見えた。


 その岩が動いた。


 エドガーは腰を落とした。


 黒褐色の毛に覆われた胴が、幹の陰から現れる。四つ脚で立っているだけでも、肩は人の胸元ほどまでありそうだった。


 灰猪とは胴の長さも、脚の太さも違う。


 肩から背中にかけて、不揃いな外皮が重なっていた。乾いた土のように灰色がかったものもあれば、縁の欠けたものもある。首を振ると、その下の毛と厚い皮が一緒に動いた。


 岩鎧熊だった。


 図や持ち込まれた素材は見ていたが、生きた全身を目にするのは初めてだった。


 熊は倒木へ鼻を寄せ、しばらく嗅いでいた。


 やがて前脚をかけ、体重を乗せる。


 腐りかけていた幹が割れた。


 離れていても、その音は聞こえた。熊は割れ目へ鼻先を突っ込み、何かを舐め取っている。


 トマスがエドガーの顔を見た。


 エドガーは小さく頷いた。


 間違いない。


 だが、すぐには動かなかった。


     *


 沢と斜面を挟んで、十分な隔たりがあった。


 それでも、身を隠せているとは限らない。エドガーは幹の陰に身体を寄せ、熊の動きを見た。


 弩は手元にある。


 これで仕掛けるつもりはなかった。


 頭の中では、別の武器を構えた時の見え方が浮かんでいた。枝の隙間、外皮の重なり、倒木との位置。


 すぐに考えるのをやめた。


 隣にはトマスがいる。今受けている仕事は調査で、そのために二人で来たのだ。


 熊は倒木を離れ、沢の方へ歩いた。


 一歩ごとに、背の外皮が上下する。近くの木へ肩を擦りつけると、細かな欠片が落ちた。


 昨日拾った物と同じものだろう。


 熊が頭を上げた。


 エドガーは動きを止めた。


 鼻先がゆっくり左右へ向く。


 気づかれたのかは分からなかった。


 トマスも身じろぎしない。剣を抜く音も立てず、木の陰で待っている。


 しばらくして、熊は再び鼻を下げた。


 そのまま沢沿いを上流へ進み、木立に姿を隠す。


 エドガーは、最後に見えた場所を見続けた。


 枝の動きが収まり、重い足音も聞こえなくなった。


 そこでようやく、トマスへ戻る合図をした。


     *


 行きよりもゆっくり斜面を下った。


 急いで足を滑らせれば、音も立つ。二人は時折止まり、後ろを確かめながら来た道を戻った。


 沢が見えなくなり、昨日歩いた道へ出たところで、トマスが息を吐いた。


「いましたね」

「ああ」


 エドガーは地図を出し、見つけた位置へ印を付けた。


「一頭。ほかは見えなかった」

「倒木を崩して、餌を探してましたね。作業場へ向かう様子はなかったですが」

「今のところはな。爪痕はこっち側にもある」


 沢を境にして近づかない相手ではない。


 エドガーは、熊が進んだ方向も書き込んだ。


 トマスはその間、来た道を見張っていた。


「戻りましょう。姿を見たなら、もう十分です」

「そうだな」


 エドガーは手帳を閉じた。


 森の奥へ続く道には、足を向けなかった。


     *


 作業場へ戻ると、二人で遅い昼食を取った。


 トマスはパンを食べながら、考え込むように卓を見ていた。


「灰猪が出てきたのも、あいつのせいでしょうか」

「その可能性は高い。ただ、追い立ててるところを見たわけじゃない」

「ですね。そこは分けて話しておきます」


 エドガーは頷いた。


 トマスは少し間を置いてから続けた。


「まともに前へ立ちたくはないですね」

「俺もだ」

「あの脚で殴られたら、盾ごと持っていかれそうです」


 さっきまで前衛を務める時の動きを考えていたらしい。


「討伐に入るなら、人数も場所も選ばないと」

「ああ」


 短く答え、エドガーは水を飲んだ。


 別の方法ならある。


 だが、それをここで言えば、どんな方法かという話になる。


 トマスは返事を急かさず、残りのパンを口へ運んだ。


 エドガーも食事を終え、荷をまとめ始めた。


     *


 街へ着いた時には、店先の片づけが始まっていた。


 二人は先にギルドへ寄った。


 マルクは岩鎧熊を目視したと聞くと、別の仕事を中断して奥の卓を空けた。


「場所を見せてくれ」


 エドガーが地図を広げ、トマスが目撃した時の様子を補う。


 外皮の欠片も出した。マルクはそれを前に持ち込まれた物と見比べ、紙へ記録していった。


「こちらへ向かっては来なかったんだな」

「ああ。ただ、途中で鼻を上げた。こっちに気づいてたかは分からん」

「追跡は?」

「してない。上流へ消えたところで戻った」


 マルクは頷いた。


「十分だ。作業場は閉めたままにする。討伐の手配は、こっちで進める」


 調査は終わった。


 トマスが椅子の背へ身体を預けた。


「じゃあ、今日はここまでですね」

「ああ。二人とも休め」


 エドガーは畳みかけた地図へ目を落とした。


 人を集めれば、その分だけ準備が要る。あの森へ何人も入れば、近くで戦う者も出るだろう。


 自分なら、距離を取れる。


 それは確かだった。


「マルク」


 手を止めた相手へ、エドガーは顔を上げた。


「討伐の依頼がまとまったら、条件を聞かせてくれ」


 隣でトマスがこちらを向いた。


「俺も――」

「お前は一度休め。救援を呼びに戻って、また森まで来て、その後も処分と回収の手伝いだろ」


 トマスは口を閉じ、それから少し笑った。


「こうして聞くと、随分働いてますね」

「俺が宿で寝てた間もな。次は一人で行くつもりだ」


 実際、トマスには休んでほしかった。頼めば引き受けてくれる男だからこそ、続けて頼りすぎるのはよくない。


 ただ、それだけが理由ではなかった。


「やり方に当てがある。近くで斬り合うつもりはない」

「分かりました。じゃあ、少し休ませてもらいます」


 トマスは素直に頷いた。


「準備で何か要るなら、言ってください」

「まずは自分の休みを考えろ」


 何をするのかとは、聞かれなかった。


 マルクが二人を見比べる。


「条件が決まったら話す。受けられるかどうかは、その時だ」

「分かった」


 ギルドを出ると、トマスが大きく肩を回した。


「飯だけ食って帰りませんか。宿で荷を下ろしたら、そのまま寝そうです」

「そうするか」


 並んで歩きながら、どの店へ行くかを話す。


 トマスは焼いた肉が食べたいと言った。エドガーも、今夜は干し肉とパンで済ませる気にはなれなかった。


 先ほどの討伐の話を、トマスが持ち出すことはない。


 店の戸を開ける前に、エドガーは一度だけ口を開きかけた。


 何を説明するつもりだったのか、自分でもまとまらなかった。


「どうしました?」


「いや。今日は俺が出す」

「それは助かります」


 トマスが笑った。


 エドガーはその後に続き、明るい店の中へ入った。

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