↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
10/92

一人の仕事

討伐の条件がまとまったのは、調査から戻った翌日の午後だった。


 エドガーはギルドの奥で、マルクから依頼書を受け取った。


 対象は岩鎧熊一頭。討伐の証明として爪と外皮を持ち帰り、場所を報告する。ほかの素材は、回収できた分を別に買い取る。


 報酬には、伐採場と木材を扱う商人たちが金を出していた。


「倒したら、すぐ仕事を再開できるわけじゃないぞ」


 マルクが言った。


「街道側へ出てきた魔物は、別に調べる。そっちまで一人で片づけようとするな」

「分かってる。熊の方だけだ」


 エドガーは依頼書を読み直した。


 帰還予定には余裕を持たせた。見つからない日もあるだろうし、倒せても、その日のうちに処理が終わるとは限らない。


 マルクが向かいから顔を見た。


「単独で受けるんだな」

「ああ」

「この手の相手を一人で仕留めた実績はある。だが、今回は生きた姿を見るのも初めてだと言ってたな」

「だから、一度見て戻った」


 マルクは少し黙り、頷いた。


「無理だと思ったら引き返せ。依頼は残る」

「その時は、残しておくさ」


 署名を済ませ、エドガーは紙を返した。


     *


 その日は出発しなかった。


 使った道具を手入れし、食料を補充する。汚れた服は洗濯に出し、夕食も普段どおりに食べた。


 宿の部屋へ戻ると、窓を閉め、卓の上を空けた。


 右手を差し出す。


 何もなかった掌に、短い刃物の重みが生まれた。


 木の柄。厚みのある刃。見慣れた形のナイフだった。


 指を緩めても消えない。卓に置けば、確かな音がする。


 エドガーは刃を眺め、意識を切り替えた。


 ナイフが消える。


 代わりに、黒い拳銃が掌に収まった。


 この世界の武器屋には置かれていない。


 前世の本やゲームで見ていた物を、今では自分の手で作れる。仕組みを一から説明しろと言われれば困るが、扱い方は身体に馴染んでいた。


 エドガーは握り心地を確かめ、拳銃を消した。


 荷物に加える必要はない。


 背負い袋へ入れるのは、水と食料と、夜を越すための道具だった。


     *


 翌朝は、一人で門を出た。


 誰かの支度を待つことも、歩調を合わせることもない。


 いつものように歩き、いつものように休む。荷を下ろした時だけ、トマスが鍋を持っていたことを思い出した。


 今日は自分の小鍋が入っている。


 食べる量も、洗う椀も一人分だった。


 作業場へ着いたのは午後だった。


 小屋の中は、二人で出た時のままになっていた。卓を拭き、寝床を整え、残っていた薪を確かめる。


 明るいうちに近くの様子も見たが、沢の先までは行かなかった。


 ここまで歩いた身体で、知らない場所へ踏み込む必要はない。


 夕食を済ませると、戸を閉めた。


 入口近くへ弩を置き、寝台に横になる。


 隣の寝台は空いていた。


     *


 翌日、目撃した場所に岩鎧熊はいなかった。


 割れた倒木と、踏み荒らされた地面だけが残っている。


 エドガーは調査で得た情報を頼りに進み、新しい痕跡を見つけるたびに足を止めた。


 木へ擦りつけられた泥。剝がれた外皮。沢を出入りした跡。


 それらを確かめ、地図に書き込む。


 奥へ進めば必ず見つかるわけではない。日が傾く前に切り上げ、小屋へ戻った。


 夕食には、干し肉を少しだけ使った。


 鍋を覗き込み、味を見る。


 今度は塩辛くなかった。


     *


 岩鎧熊を再び見つけたのは、その次の日だった。


 エドガーは谷沿いの高い場所から、木々の切れ間に覗く河原を見ていた。


 灰褐色の塊が、水際で動いている。


 木陰で足を止め、周囲を見渡した。


 熊までは、直線距離でおよそ二百メートル。谷を隔てた向こうの河原だ。近づくには一度斜面を下り、沢沿いを回らなければならない。


 巨体の輪郭は見えるが、外皮の細かな重なりまでは分からなかった。


 風は河原からこちらへ流れていた。


 エドガーは幹の陰に身を寄せ、しばらく様子を見た。風が弱まると、そのまま動かずに待つ。


 距離があっても、匂いを運ばれれば気づかれる。熊がこちらを気にする素振りがないか、動きを確かめた。


 熊は水際を嗅ぎ回り、やがて頭を下げた。


 今のところ、こちらへ注意を向けてはいない。


 エドガーは周囲をもう一度見た。


 別の魔物の姿はない。人の声も、作業の音も聞こえなかった。


 作業場が閉まっていることは確認していたが、それだけで人がいないと決めつけるつもりはない。対岸の木立と沢沿いを確かめ、背後にも目を配った。


 ここからなら、これ以上近づかずに済む。


 弩を木の根元へ置き、空いた両手にライフルを生成した。


 長い黒い銃身。肩に馴染む銃床。上部には照準器を、銃口には音を抑える筒を付ける。


 エドガーは静かに構えた。


 照準器の中で、岩鎧熊の姿が大きくなる。


 灰色の外皮が日を受け、背中の凹凸に影を落としていた。


 水を飲み終えた熊が顔を上げる。


 顎から滴が落ちた。


 エドガーは引き金を引いた。


     *


 銃声はしなかった。


 空気を裂く鋭い音が走り、熊の外皮が砕けた。


 巨体が大きく揺れる。


 踏み出しかけた脚が止まり、そのまま沢の縁へ崩れ落ちた。


 水面が波立った。


 エドガーはライフルを構えたまま待った。


 熊は起き上がらなかった。


 前脚も動かない。


 それでも、すぐには近づかなかった。


 若い頃、倒れた魔物に不用意に歩み寄り、反撃を受けたことがある。その時の傷痕は、今も身体に残っていた。


 治療で動けるようにはなった。だが、あの時と同じ間違いをする気はない。


 照準器から目を離し、周囲も確かめる。


 何かが近づいてくる気配は、今のところなかった。


 熊の姿へ目を戻す。


 呼吸による動きも見えない。


 エドガーはさらに間を置いてから、ライフルを消した。


 代わりに、短い銃身の拳銃を生成する。


 ここからは低木の間を下り、沢へ回り込む。長い銃を抱えたままでは動きにくい。


 弩を肩に掛け直し、足元を選んで斜面を下りた。


     *


 高い場所からは近く見えていた河原も、歩いて向かうには時間がかかった。


 岸の崩れた場所を避け、見通しが途切れるたびに足を止める。


 ようやく辿り着くと、倒れた身体の大きさがよく分かった。


 エドガーは拳銃を手に、岩鎧熊の周りをゆっくり回った。


 外皮の隙間に見える毛も、鼻先も動いていない。


 十分に確かめてから触れる。


 息は止まっていた。


 ようやく肩の力を抜く。


 撃ってからここへ来るまでの方が、戦っていた時間よりずっと長い。


「……よし」


 声に出し、拳銃を消した。


 沢の音を聞きながら、背負い袋を下ろす。


 弾の通った場所は、外皮ごと大きく損なわれていた。この部分を素材として持ち帰る気はなかった。


 反対側へ回ると、無傷の外皮が残っている。爪も揃っていた。


 証明に必要な物を先に確保し、運べる量だけ選ぶ。


 全部は持ち帰れない。


 惜しくはあるが、背負える重さには限りがあった。


 エドガーは布を広げ、必要な道具を並べ始めた。


     *


 午後になっても、作業は終わらなかった。


 途中で何度も手を止め、周りを見て、身体を休める。


 倒すことと、後を片づけることは別だった。


 解体に使う刃物はいくらでも作れる。刃が傷む心配もない。


 それでも、重い物を運ぶ腕や、屈んで働く腰まで強くなるわけではなかった。


 証明の部位を包み終えたところで、エドガーは背を伸ばした。


 トマスがいれば、片方が見張り、片方が作業できた。重い物を動かす時にも手を借りられる。


 そう考えてから、傷のある外皮へ目を戻した。


 見られれば、何で倒したのかと聞かれるかもしれない。


 トマスなら、聞かずに済ませるかもしれない。


 エドガーは布の端を折り、包みを結んだ。


 本人も休みが必要だった。それは間違いない。


 今は、残った死骸の処分だ。


 日暮れまでの時間を見て、その夜は近くで野営することにした。


 火を使う場所と、水を運ぶ道を確かめる。休憩と見張りを挟みながら作業を進め、焼いた残りを埋めるところまで終えてから帰る。


 エドガーは腰を下ろし、水を飲んだ。


 爪と外皮の包みは、もう背負い袋へ収めてある。


 少し休んだら、処分に取りかかることにした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。