一人の仕事
討伐の条件がまとまったのは、調査から戻った翌日の午後だった。
エドガーはギルドの奥で、マルクから依頼書を受け取った。
対象は岩鎧熊一頭。討伐の証明として爪と外皮を持ち帰り、場所を報告する。ほかの素材は、回収できた分を別に買い取る。
報酬には、伐採場と木材を扱う商人たちが金を出していた。
「倒したら、すぐ仕事を再開できるわけじゃないぞ」
マルクが言った。
「街道側へ出てきた魔物は、別に調べる。そっちまで一人で片づけようとするな」
「分かってる。熊の方だけだ」
エドガーは依頼書を読み直した。
帰還予定には余裕を持たせた。見つからない日もあるだろうし、倒せても、その日のうちに処理が終わるとは限らない。
マルクが向かいから顔を見た。
「単独で受けるんだな」
「ああ」
「この手の相手を一人で仕留めた実績はある。だが、今回は生きた姿を見るのも初めてだと言ってたな」
「だから、一度見て戻った」
マルクは少し黙り、頷いた。
「無理だと思ったら引き返せ。依頼は残る」
「その時は、残しておくさ」
署名を済ませ、エドガーは紙を返した。
*
その日は出発しなかった。
使った道具を手入れし、食料を補充する。汚れた服は洗濯に出し、夕食も普段どおりに食べた。
宿の部屋へ戻ると、窓を閉め、卓の上を空けた。
右手を差し出す。
何もなかった掌に、短い刃物の重みが生まれた。
木の柄。厚みのある刃。見慣れた形のナイフだった。
指を緩めても消えない。卓に置けば、確かな音がする。
エドガーは刃を眺め、意識を切り替えた。
ナイフが消える。
代わりに、黒い拳銃が掌に収まった。
この世界の武器屋には置かれていない。
前世の本やゲームで見ていた物を、今では自分の手で作れる。仕組みを一から説明しろと言われれば困るが、扱い方は身体に馴染んでいた。
エドガーは握り心地を確かめ、拳銃を消した。
荷物に加える必要はない。
背負い袋へ入れるのは、水と食料と、夜を越すための道具だった。
*
翌朝は、一人で門を出た。
誰かの支度を待つことも、歩調を合わせることもない。
いつものように歩き、いつものように休む。荷を下ろした時だけ、トマスが鍋を持っていたことを思い出した。
今日は自分の小鍋が入っている。
食べる量も、洗う椀も一人分だった。
作業場へ着いたのは午後だった。
小屋の中は、二人で出た時のままになっていた。卓を拭き、寝床を整え、残っていた薪を確かめる。
明るいうちに近くの様子も見たが、沢の先までは行かなかった。
ここまで歩いた身体で、知らない場所へ踏み込む必要はない。
夕食を済ませると、戸を閉めた。
入口近くへ弩を置き、寝台に横になる。
隣の寝台は空いていた。
*
翌日、目撃した場所に岩鎧熊はいなかった。
割れた倒木と、踏み荒らされた地面だけが残っている。
エドガーは調査で得た情報を頼りに進み、新しい痕跡を見つけるたびに足を止めた。
木へ擦りつけられた泥。剝がれた外皮。沢を出入りした跡。
それらを確かめ、地図に書き込む。
奥へ進めば必ず見つかるわけではない。日が傾く前に切り上げ、小屋へ戻った。
夕食には、干し肉を少しだけ使った。
鍋を覗き込み、味を見る。
今度は塩辛くなかった。
*
岩鎧熊を再び見つけたのは、その次の日だった。
エドガーは谷沿いの高い場所から、木々の切れ間に覗く河原を見ていた。
灰褐色の塊が、水際で動いている。
木陰で足を止め、周囲を見渡した。
熊までは、直線距離でおよそ二百メートル。谷を隔てた向こうの河原だ。近づくには一度斜面を下り、沢沿いを回らなければならない。
巨体の輪郭は見えるが、外皮の細かな重なりまでは分からなかった。
風は河原からこちらへ流れていた。
エドガーは幹の陰に身を寄せ、しばらく様子を見た。風が弱まると、そのまま動かずに待つ。
距離があっても、匂いを運ばれれば気づかれる。熊がこちらを気にする素振りがないか、動きを確かめた。
熊は水際を嗅ぎ回り、やがて頭を下げた。
今のところ、こちらへ注意を向けてはいない。
エドガーは周囲をもう一度見た。
別の魔物の姿はない。人の声も、作業の音も聞こえなかった。
作業場が閉まっていることは確認していたが、それだけで人がいないと決めつけるつもりはない。対岸の木立と沢沿いを確かめ、背後にも目を配った。
ここからなら、これ以上近づかずに済む。
弩を木の根元へ置き、空いた両手にライフルを生成した。
長い黒い銃身。肩に馴染む銃床。上部には照準器を、銃口には音を抑える筒を付ける。
エドガーは静かに構えた。
照準器の中で、岩鎧熊の姿が大きくなる。
灰色の外皮が日を受け、背中の凹凸に影を落としていた。
水を飲み終えた熊が顔を上げる。
顎から滴が落ちた。
エドガーは引き金を引いた。
*
銃声はしなかった。
空気を裂く鋭い音が走り、熊の外皮が砕けた。
巨体が大きく揺れる。
踏み出しかけた脚が止まり、そのまま沢の縁へ崩れ落ちた。
水面が波立った。
エドガーはライフルを構えたまま待った。
熊は起き上がらなかった。
前脚も動かない。
それでも、すぐには近づかなかった。
若い頃、倒れた魔物に不用意に歩み寄り、反撃を受けたことがある。その時の傷痕は、今も身体に残っていた。
治療で動けるようにはなった。だが、あの時と同じ間違いをする気はない。
照準器から目を離し、周囲も確かめる。
何かが近づいてくる気配は、今のところなかった。
熊の姿へ目を戻す。
呼吸による動きも見えない。
エドガーはさらに間を置いてから、ライフルを消した。
代わりに、短い銃身の拳銃を生成する。
ここからは低木の間を下り、沢へ回り込む。長い銃を抱えたままでは動きにくい。
弩を肩に掛け直し、足元を選んで斜面を下りた。
*
高い場所からは近く見えていた河原も、歩いて向かうには時間がかかった。
岸の崩れた場所を避け、見通しが途切れるたびに足を止める。
ようやく辿り着くと、倒れた身体の大きさがよく分かった。
エドガーは拳銃を手に、岩鎧熊の周りをゆっくり回った。
外皮の隙間に見える毛も、鼻先も動いていない。
十分に確かめてから触れる。
息は止まっていた。
ようやく肩の力を抜く。
撃ってからここへ来るまでの方が、戦っていた時間よりずっと長い。
「……よし」
声に出し、拳銃を消した。
沢の音を聞きながら、背負い袋を下ろす。
弾の通った場所は、外皮ごと大きく損なわれていた。この部分を素材として持ち帰る気はなかった。
反対側へ回ると、無傷の外皮が残っている。爪も揃っていた。
証明に必要な物を先に確保し、運べる量だけ選ぶ。
全部は持ち帰れない。
惜しくはあるが、背負える重さには限りがあった。
エドガーは布を広げ、必要な道具を並べ始めた。
*
午後になっても、作業は終わらなかった。
途中で何度も手を止め、周りを見て、身体を休める。
倒すことと、後を片づけることは別だった。
解体に使う刃物はいくらでも作れる。刃が傷む心配もない。
それでも、重い物を運ぶ腕や、屈んで働く腰まで強くなるわけではなかった。
証明の部位を包み終えたところで、エドガーは背を伸ばした。
トマスがいれば、片方が見張り、片方が作業できた。重い物を動かす時にも手を借りられる。
そう考えてから、傷のある外皮へ目を戻した。
見られれば、何で倒したのかと聞かれるかもしれない。
トマスなら、聞かずに済ませるかもしれない。
エドガーは布の端を折り、包みを結んだ。
本人も休みが必要だった。それは間違いない。
今は、残った死骸の処分だ。
日暮れまでの時間を見て、その夜は近くで野営することにした。
火を使う場所と、水を運ぶ道を確かめる。休憩と見張りを挟みながら作業を進め、焼いた残りを埋めるところまで終えてから帰る。
エドガーは腰を下ろし、水を飲んだ。
爪と外皮の包みは、もう背負い袋へ収めてある。
少し休んだら、処分に取りかかることにした。




