幕間・後編 もう一歩、速く
牙犬が向き直るより先に、レオンは間合いへ入った。
強く踏み込む。
ただし、加速するのは一歩だけ。
次の足で身体を支え、右の剣を振り下ろした。刃が首の付け根へ食い込み、牙犬の前脚が折れるように崩れた。
今度は、通り過ぎなかった。
剣を引いた時には、もう残る二頭が見えていた。
大きな一頭が正面から迫る。その脇を、小柄な一頭が回ろうとしていた。
レオンは後ろへ跳ばず、横へ動いた。
大きな牙犬の身体が、もう一頭との間に入る。
その位置で、ほんの一瞬だけ足を緩めた。
牙犬が跳んだ。
レオンは斜め前へ踏み込んだ。開いた顎の外へ抜け、突き出された前脚を左の手甲で受け流す。
肩に重さがかかった。
靴底が土を噛む。強化された脚が、身体を支えた。
目の前に、牙犬の胸があった。
左の短剣を突き入れる。
すぐに抜き、身体をひねって脇へ逃がすと、大きな牙犬が地面へ落ちた。
残る一頭が、その向こうから飛び出してきた。
レオンは右の剣を返した。
刃先が鼻先を掠め、牙犬が急に足を止める。
そこへ、もう一歩。
さっきより短く。
相手が退く前に追いつき、首の横へ剣を走らせた。
牙犬が倒れる。
レオンは剣を下げず、半歩退いた。
荒い息が聞こえた。
自分のものと、地面に伏せた大きな牙犬のものだった。
まだ動く。
レオンはほかの三頭を確かめてから回り込み、大きな一頭が頭を上げようとしたところで、とどめを刺した。
再び距離を取る。
草が揺れていた。
それ以外に、動くものはなかった。
*
レオンは、ゆっくり息を吐いた。
左腕を開き、閉じる。
手甲には新しい擦り傷がついていたが、腕に痛みはない。脚も、まだ軽かった。
勝った。
四頭とも倒した。
それ以上に、最後の数歩が頭から離れなかった。
踏み込んで、斬って、次へ向く。
今までもやっていた動きだ。ただ、今日は斬り終えたところに、次の敵がいた。
探すために振り返らなくてよかった。
走りすぎた分を戻す必要もなかった。
「……今の、よかったな」
声に出すと、嬉しさが増した。
もう一度、足を動かしたくなった。
だが、先に周囲を確かめる。
林の縁を見渡し、耳を澄ませる。新たな足音も、唸り声も聞こえなかった。
牙犬が動かなくなったことを確認し、ようやく剣先を下ろした。
身体に流していた魔力を緩めると、風の冷たさが頬に戻ってきた。
額の汗を袖で拭う。
力を増やしたわけではない。
いつもの力を、使う場所が少し変わった。
それだけで、こんなに違うのか。
レオンは、倒れた牙犬のそばに残る自分の足跡を見た。
初めの一頭を斬ったところには、長く土を擦った跡がある。止まるために、余計な距離を使っていた。
最後の踏み込みは短かった。
もちろん、短ければ何でもいいわけではない。敵が遠ければ届かないし、足元が崩れれば踏ん張れない。
だが、いつも全速力で抜ける必要はなかった。
相手が動き始めるまで待ち、その一瞬だけ速くなる。
覚えておきたい感覚だった。
*
死骸を集め始めると、先ほどまでの軽快さはどこかへ行った。
引きずるだけなら簡単だ。
ただ、牙が草に引っかかる。脚が変な方へ折れて、途中で止まる。持ち直せば、今度は自分の服が汚れた。
「そこ、引っかかるのか……」
誰に言うでもなく呟き、牙犬の身体を少し浮かせる。
戦っている時より、よほど時間がかかった。
討伐部位を取り、処分する場所を整える。火に使うものを集め、水を飲み、また運ぶ。
気づけば、腹が減っていた。
手を洗って食料を出した時には、陽は随分高くなっていた。
硬いパンを齧りながら、レオンは自分の左手を眺めた。
短剣を握っていた指を、軽く曲げる。
最後の大きな一頭には、右の剣を振る場所がなかった。近すぎたからだ。
それでも、左が使えた。
剣に合う距離まで離れ直すより、あのまま踏みとどまって短剣を使う方が早かった。
速く動くことばかり考えていたが、押されても姿勢が崩れないことも、次の一撃につながる。
何か、繋がり始めている気がした。
レオンはパンを飲み込み、水を飲んだ。
前世なら、画面の中の動きを見て、格好いいと思っていただろう。
今は、その一歩を自分の脚で踏める。
うまくいかなければ、どこで身体が流れたかも分かる。
それが、たまらなく面白かった。
*
村へ戻った頃には、服に煙の匂いが染みついていた。
羊を失った男へ四頭を倒したことを伝え、討伐部位を見せる。
男は大きな牙を確かめ、深く息を吐いた。
「これで、あの辺へ戻せるな」
「今日見つけたのは、この四頭です。明日の朝、もう一度周りを見てから帰ります」
「分かった。今夜も、納屋を使ってくれ」
レオンが礼を言うと、男は家の方へ声をかけた。
夕食には、羊肉と根菜を煮込んだものが出た。
肉は柔らかく、骨の近くに脂が残っている。香草の匂いがして、昼の硬いパンとは違ううまさだった。
レオンがよく食べるので、男の妻が鍋を卓へ寄せてくれた。
「まだあるよ」
「いただきます」
遠慮するより先に、返事が出た。
男が笑う。
「一人で四頭を片づけりゃ、腹も減るか」
「運んで、焼く方が長かったです」
「ああ、そっちもあるな」
男は自分の椀へ目を落とし、それから言った。
「うちの犬も、今日は少し飯を食った。脚はまだ引きずってるが」
「そうですか。よかった」
帰りに様子を見せてもらおうと思った。
レオンは骨から肉を外しながら、窓の向こうへ目をやった。
昼間、丘から見た岩肌を思い出す。
「そういえば、森の向こうに見える、白っぽい崖。あそこは何ですか」
「あれか。昔、石を切り出してた場所だ」
「今は使ってないんですか」
「もっと奥では、まだやってる。向こうの町へ出すんだと」
男はパンで椀の汁を拭った。
「古い切り場の近くに、石の橋がある。谷を跨いだ、大きいやつだ」
「橋?」
「ああ。ここからは見えんがな。町へ行く道が通ってる」
レオンは匙を置いた。
「歩いて、どのくらいですか」
*
翌朝、林の周りを確かめた。
新しい牙犬の姿はなかった。
処分した場所も確認し、村へ戻って報告を済ませる。
噛まれた犬は、小屋の入口で横になっていた。近づくと頭を上げたが、知らない人間を歓迎する様子はなかった。
レオンは少し離れたところにしゃがんだ。
「早くよくなれよ」
犬は鼻を鳴らし、また頭を下ろした。
男がその背を撫でた。
「帰りは丘を越えるのか」
「はい。橋は、また今度にします」
昨夜、道を聞いてみると、石橋へは別の谷を回る必要があるということだった。
見に行けば、予定より帰りが遅くなる。
急いで往復するより、向こうの町まで歩いてみたかった。どんな依頼があるのかも、気になっている。
「次は、あっちへ行くつもりで来ます」
「そうか。なら、また寄れ」
「はい。ご飯、おいしかったです」
礼を言って、村を出た。
荷物には、小さな塊のチーズが増えていた。
土産に買いたいと頼んだら、男の妻が食べ頃のものを選んでくれたのだ。
羊を連れて帰るより、ずっといい。
レオンは一人で笑った。
*
丘の道へ上がる前に、荷物を下ろした。
平らで、地面の締まった場所だった。
少しだけ確かめたかった。
剣は抜かず、足へ魔力を通す。
一歩。
前へ出て、次の足で止まる。
昨日ほど強く踏まなくても、思っていた場所へ届いた。
続けて横へ動き、身体の向きを変える。
今度は、少し上体が流れた。
「ああ、こっちは……」
足を置く向きが違ったらしい。
もう一度やる。
今度は止まれた。
思わず笑った。
誰も見ていない道端で、何をしているのだろうとも思う。だが、さっきできなかったことができるのは、やはり嬉しい。
昨日の一度だけではなかった。
まだ滑らかには繋がらないが、練習すれば使えそうだった。
以前の仲間といた頃にも、こういうことがあった。
剣がうまく通った日。走りながら息が乱れなくなった日。別々に考えていた動きが、ふと一つに繋がった日。
そのたびに、次の仕事が楽しみになった。
レオンは荷物を背負い直した。
今日、ここで全部仕上げる必要はない。
帰ってからも、試せる。
*
丘の上まで来ると、風が強くなった。
草地の向こうに、白い岩肌が見えた。
あの先に、まだ見ていない橋と町がある。
昨日までは、ただ遠くに見える崖だった。それが今は、行きたい場所になっていた。
レオンはしばらく眺めてから、街へ続く道を下り始めた。
途中の店で、チーズと葱の入ったパンを買った。
熱いものを一つ、その場で食べる。
もう一つは包んでもらった。
帰り着く頃には冷めてしまうだろう。それでも、鍋か鉄板で温め直せば、少しはあの香りが戻るかもしれない。
エドガーに話すことが、幾つもできた。
牙犬の足並みが変わったこと。
短く踏み込んだ時の感覚。
丘から見えた景色と、その向こうにあるという石橋。
どれから話そうかと考えて、レオンは袋の口を締めた。
たぶん、先にパンを渡す。
それから、剣を振れる場所へ誘ってみよう。
見てほしかった。
昨日までとは、少し違う動きができる気がするのだ。
レオンは坂道を軽やかに下り、フェルデンへ向かった。




