幕間・前編 足の向く方へ
依頼票に書かれた村の名前を、レオンは知らなかった。
フェルデンから徒歩で一日ほど。丘陵の向こうにある、羊を飼う村だという。
牙犬による家畜の被害。目撃数は四頭。
報酬を確かめ、次に場所をもう一度読む。
「こちらへ行ったことはありますか」
窓口で尋ねると、マークは首を横に振った。
「私はありません。道は分かりやすいそうですよ。途中の橋を渡って、丘へ向かう街道です」
「丘から、何か見えますか」
「何か、ですか」
「あ、いえ。初めて行くので」
レオンが笑うと、マークも少し表情を緩めた。
「それなら、行った方に聞いてみましょうか」
「道と村の場所が分かれば大丈夫です。景色は、着いてから見ます」
依頼の内容を確かめ、手続きを済ませる。
何頭かの牙犬を相手にするのは、初めてではない。家畜を襲った場所も分かっている。村で詳しく話を聞けば、動き始められるだろう。
受付を離れてから、胸の内が少し浮き立っていることに気づいた。
一人で出かける。
ただそれだけなのに、荷物を揃えるところから、もう楽しみだった。
*
「三日か四日で戻るつもりです」
夕食の後、レオンはエドガーへ予定を伝えた。
エドガーは聞いた村の名前を口の中で繰り返し、頷いた。
「あの辺は、まだ行ってなかったな」
「そうなんです。羊が多いらしいですよ」
「土産は羊以外にしてくれ」
「連れて帰りませんよ」
レオンは笑った。
「何かうまいものがあったら買ってきます」
「それなら歓迎する」
エドガーは机の端にあった自分の水袋を取り、革の継ぎ目を確かめ始めた。
依頼を変えろとも、一緒に行くとも言わなかった。
レオンも、自分の支度へ戻った。
剣と短剣。手甲。縄と火口、食料、寝具。
以前、仲間と各地を歩いていた時にも、一人で荷をまとめる時間は好きだった。明日から使うものを選んでいると、まだ見ていない道が頭に浮かぶ。
前世では、出かける前に行き先の写真を見すぎてしまうことがあった。
評判のいい店も、眺めのいい場所も、調べればいくらでも出てきた。それは便利だったし、外したくない時には助かった。
今、知っているのは道と村の名前、それから牙犬が四頭いるらしいということだけだ。
丘の向こうに何が見えるかは、登ってから分かる。
レオンは背負い袋の紐を締めた。
*
翌日は、よく晴れた。
街を出ると、道端の草に残った露が靴先を濡らした。
初めは歩いていたが、人も荷車も見えなくなったところで、少し走った。
足へ魔力を通す。
身体が軽くなり、ひと蹴りで進む距離が伸びる。風が頬に当たり、背負い袋が肩の上で弾んだ。
気持ちがいい。
もっと速く走れる。だが、今はこのくらいでよかった。
小さな橋の上で足を止め、欄干から川を覗く。
浅いところに魚の影があった。流れに頭を向け、尾をわずかに動かしている。
少し見てから、また歩き出す。
昼前には、丘の麓にある小さな店へ着いた。
店先の鉄板で、平たいパンが焼かれていた。女がそれを裏返すと、焼けた乳製品の匂いが立った。
「それ、何が入ってるんですか」
「羊の乳で作ったチーズと葱。食べるかい」
「一つください」
受け取ったものは、思ったより熱かった。
端を齧ると、柔らかいチーズと刻んだ葱が出てくる。少し癖はあるが、塩気がうまい。
レオンは、もう一口食べた。
「これ、冷めても食べられますか」
「食べられるよ。ただ、焼きたての方がいいね」
「ですよね」
帰りにも寄ろうと思った。
店の女に道を確かめると、街道の先から分かれる丘の道を教えられた。
「歩きなら、上を通っても村へ出られるよ。少し余計にかかるけど」
「景色はいいですか」
「羊ばっかりだけどね」
それは、登ってみなければ分からない。
レオンは礼を言い、パンの残りを食べながら丘へ向かった。
*
頂上からは、草地が幾重にも続いて見えた。
低い石垣に区切られた斜面。その中を、白い羊がゆっくり移動している。
遠くには森があり、木々の切れ目から灰色の岩肌が覗いていた。
レオンは足を止めた。
「……いいな」
誰に聞かせるでもなく、声が出た。
袋を下ろし、水を飲む。
風が強く、汗の残った首筋が冷えた。もう少し座っていたかったが、村へ着いて話を聞く時間も欲しい。
立ち上がる前に、遠くの岩肌をもう一度見た。
あそこには、何があるのだろう。
*
村では、羊を失った男に話を聞いた。
牙犬が現れるのは、放牧地の外れにある林だという。羊を別の場所へ移してからも、柵の近くで姿を見かけるらしかった。
「四頭とも、同じくらいの大きさですか」
「一頭、肩の高いのがいる。ほかの三頭は、それより小さい」
「最後に見たのは?」
「昨日の朝だ。追い払おうとした犬が噛まれてな。それからは、人も近づけてない」
レオンは場所を教えてもらい、その日のうちに遠くから確かめた。
林の手前には、昔の放牧地が残っていた。今は羊を入れていないため、草が伸びている。ただ、かつて荷車が通っていた道は硬く、走れそうだった。
柵の切れ目には毛が引っかかり、泥の上に足跡が重なっていた。
林の中までは入らず、周囲を歩く。
地面が緩い場所と、石が多い場所を確かめてから、村へ戻った。
泊めてもらう納屋で食事を済ませると、すぐに眠くなった。
明日は、あの道を使おう。
そう考えながら寝具へ潜り込んだ。
*
翌朝、牙犬は林の縁にいた。
四頭。
肩の高い一頭が立ち、残る三頭は草の上に伏せている。長い牙が、閉じた口の端から覗いていた。
レオンは古い荷車道の脇へ荷物を下ろした。
この先には村も、羊の群れもいない。
右手に剣、左手に幅広の短剣を抜く。
両腕を軽く動かし、身体へ魔力を通した。
木陰から出ると、立っていた牙犬がこちらを向いた。
低い唸り声。
三頭も起き上がる。
レオンは近づきすぎず、道に沿って横へ動いた。
牙犬たちが広がり始めた。
正面に二頭。残る二頭は、草の中を回り込もうとしている。
揃うまで待つつもりはなかった。
レオンは走った。
牙犬が追ってくる。
背後の足音を聞きながら、肩越しに距離を確かめる。身体強化を使えば引き離せるが、それでは獲物まで林へ戻ってしまうかもしれない。
追いつけそうな距離を残す。
すると、正面にいた小柄な一頭が、ほかより速く詰めてきた。
後続との間が開く。
レオンは道の膨らんだ場所で向きを変えた。
牙犬が地面を蹴る。
開いた顎が迫った。
レオンはその脇へ踏み込み、右の剣を振り抜いた。
刃が首の横を深く捉えた。
牙犬の身体が傾き、地面を転がる。
レオンは止まらず、そのまま数歩先へ抜けた。
振り返った時には、残る三頭が迫っていた。
少し、抜けすぎた。
今の一撃は十分だった。だが、相手を斬れる場所を過ぎても、身体が前へ進んでいた。
戻るために余計な足を使った分、次へ向くのが遅れる。
大きな牙犬が正面から飛びかかってきた。
レオンは身体をずらし、左の手甲で前脚を外へ押し流した。
重い衝撃が腕から肩へ伝わる。
それでも、膝は崩れなかった。
牙が顔の脇を通り過ぎる。その腹へ短剣を向けかけたが、横から別の一頭が来ていた。
追撃をやめ、踏み込んできた鼻先へ右の剣を返す。
牙犬が身を引いた。
その間に、レオンは三頭の外側へ抜けた。
剣を構え直す。
腕は動く。痛みも残っていない。
まだ、余裕があった。
牙犬たちは、先ほどのようには一斉に飛びかかってこなかった。
大きな一頭が低く身を伏せ、ほかの二頭が離れる。
また囲むつもりらしい。
レオンはゆっくり横へ動いた。
近くの一頭が、その動きについてくる。
歩幅を狭める。
牙犬との距離が詰まった。
その瞬間、相手の後脚に力が入ったのが見えた。
レオンは短く地面を蹴った。
牙犬が飛びついた場所から、身体を外す。
空振りした顎が閉じた。
レオンは二歩で足を止めた。
着地した牙犬が、慌てて向きを変える。
今度は、離れすぎていなかった。
右の剣が届く。
そう気づいた時、レオンの胸が弾んだ。
速く動けば、敵より先に届く。
けれど、ずっと速く動く必要はない。
追いつけると思わせれば、向こうから跳んでくる。その時だけ速く動けば、牙も爪も、さっきまでいた場所を通る。
最初の踏み込みも、短く切ればよかったのか。
レオンは剣を握り直した。
できそうだった。
全力で遠くへ抜けるのではなく、必要なところまで、一気に。
牙犬が向き直り、唸った。
レオンは、その肩越しに残る二頭も見た。
次に立つ場所が、頭の中に浮かんだ。
口元に、思わず笑みが浮かぶ。
硬い道を踏みしめ、レオンは前へ出た。




