水車の回る音
翌朝、水車小屋の前には、鋸と斧を持った男が二人待っていた。
ハンスが近くの木工所から頼んだという。一人は肩幅の広い年配の男で、もう一人は、その息子ほどの年頃だった。
若い方がレオンの腰の剣を見てから、顔を上げる。
「木を運ぶのを手伝ってくれるって?」
「はい。切ったものなら」
「助かる。濡れてると重いからな」
ハンスが小屋から出てきた。
「こっちは止めた。いつでも行ける」
昨日まで聞こえていた石臼の音が、今はしなかった。
小屋の中では、前掛けの女が空の袋を畳んでいる。
「昼には戻れるかい」
「様子次第だ。長くなりそうなら、一人戻す」
エドガーが答えると、女は頷いた。
「じゃあ、こっちもそのつもりでいるよ」
急いで済ませろとは言われなかった。
エドガーは道具と荷を見渡し、余分なものを小屋へ置いてもらった。
その間にレオンが、昨日と同じように装備を確かめている。
「先に周りを見る。木のそばへ着いても、声をかけるまで待っていてくれ」
「分かった」
年配の男が、肩に担いだ鋸を持ち直した。
*
倒木の周囲に、猪の姿はなかった。
昨日掘り返されていた根元には、湿った土が露出している。そこから茂みへ続く跡は残っていたが、夜の間に何頭も集まった様子は見えなかった。
エドガーは、木の陰と水路の向こうを順に確かめた。
レオンは作業に来た三人と待ち、こちらから見えにくい方へ目を向けている。
昨日と同じ場所を、昨日より丁寧に見る。
それでも、森の奥まで何もいないと言えるわけではなかった。
「始めよう。何か見えても、追わずに知らせてくれ」
エドガーが声をかけると、ハンスが頷いた。
取水口まで一緒に上がり、板を下ろして水路へ入る水を止める。残っていた水が流れ去るのを待つ間に、木を切る二人が倒木を調べ始めた。
年配の男は、持ち上がった根元と、幹が土に触れている場所を見比べた。
「まず枝を落とす。幹を切るのは、その後だ」
レオンが水に浸かっていた枝を見た。
「持ち上げておきましょうか」
「まだ触らんでくれ。どこへ重さがかかってるか、先に見たい」
レオンはすぐに手を引いた。
男は斧の柄で枝の位置を示し、若い方と短く相談する。それから足場を整え、作業を始めた。
エドガーは、そのやり取りを見てから森へ視線を戻した。
木を切ることは、彼らの方が詳しい。
こちらが口を出すより、仕事に集中してもらえるようにしておけばよかった。
*
枝を払う音が、一定の間を置いて続いた。
切り落とされたものをハンスとレオンが運び、道の脇へまとめる。水路に戻りそうな枝は、さらに奥へ寄せた。
エドガーは作業場から少し離れ、森と道の両方を見ていた。
斧や鋸の音があると、その分、小さな物音は聞き取りにくくなる。
時々立つ場所を変え、葉の揺れを確かめる。
しばらくして、若い男が鋸を止めた。
「今、何か鳴かなかったか」
作業の音が消えた。
エドガーは片手を上げ、そのまま耳を澄ませた。
少し遠くで、短い鳥の声がした。
茂みは動いていない。足音も、枝を押し分ける音もなかった。
「今聞こえるのは鳥だな。ほかに何か見えたか」
「いや。音だけだ」
「また気になったら、止めてくれ」
若い男は頷き、鋸を持ち直した。
思い違いだったからといって、黙られても困る。
エドガーは作業が再開するのを待ち、別の木の脇へ移った。
*
幹が短く切り分けられる頃には、陽が高くなっていた。
年配の男が最後の切り口を確かめ、鋸を置く。
「これは、もう動かしていい」
レオンが近づいた。
すぐには持ち上げず、運ぶ先まで歩いてみる。昨日、足が沈んだ水路の縁を避け、固い場所を踏んで戻ってきた。
「そこへ置けばいいですか」
「ああ。転がらんように、この枝の内側へ頼む」
男が置き場所を指した。
レオンは切られた幹の前にしゃがみ、両手をかけた。
肩と背に力が入る。
木が地面から離れた。
「おい、一人で――」
若い男が思わず手を出しかけたが、レオンは既に立ち上がっていた。
「通ります」
声をかけてから、ゆっくり歩く。
軽そうに振り回すわけではない。足元を見て、一歩ずつ運び、指定された場所へ腰を落として置いた。
年配の男が、木とレオンを交互に見た。
「力があるな」
「身体を強くできるので」
「なるほど。なら、次も頼めるか」
「はい。少し待ってください」
レオンは手袋を直し、運んだ木が動かないことを確かめた。
エドガーは周りを見ながら、その様子を横目で追った。
こちらを見て、持っていいか尋ねることはなかった。
切った者に確認し、足元と置き場所を確かめた。そこまでできていれば、任せておける。
レオンが二本目を運び終えたところで、ハンスが額を拭った。
「こりゃ、運び出す方が先に終わりそうだ」
若い男が笑い、脇へ寄せた枝を持ち上げた。
「俺たちの分までなくなる前に、こっちを片づけるか」
*
昼は、水路から少し離れた場所で食べた。
切った木を椅子代わりにし、各々の包みを開く。ハンスが持ってきた硬いチーズを分けてくれたので、エドガーはパンに挟んだ。
森は静かだった。
結局、午前の間に猪が現れることはなかった。
「昨日だけで、どこかへ行ったのかね」
ハンスが言った。
「かもしれん。だが、今日は来ないと決まったわけじゃない」
「そうだな」
ハンスは頷き、水を飲んだ。
レオンは食べ終えると、作業場へ目を向けた。
「根元は、残すんですね」
「あれまで掘ると、道を崩す」
年配の男が答えた。
「通るのに邪魔なところだけ落としておく。後は、様子を見ながらだな」
「全部取ればいいわけじゃないんですね」
「何でも取ってしまえば、今度は土を押さえるものがなくなるからな」
レオンは根元のある方を見て、頷いた。
聞くことは尽きないらしい。
エドガーは最後のパンを口へ入れた。
木工所でも、鍛冶屋でも、こうして尋ねているのだろう。教える側からすれば、少し忙しい相手かもしれない。
年配の男は嫌そうでもなく、斧についた木屑を払いながら話を続けていた。
*
午後は、水路に残った枝葉と泥を取り除いた。
ハンスが長い柄のついた道具で掻き寄せ、若い男が岸へ上げる。レオンはそれを、流れに戻らない場所へ運んだ。
エドガーは見張りを続けた。
手が空いているように見えても、一緒に下を向くわけにはいかない。
作業をしている者が一人顔を上げるたび、目が合えば頷いて返した。
やがて、ハンスが腰を伸ばした。
「これで通るはずだ。水を戻してみる」
「人が上がってからだな」
「ああ」
道具を片づけ、全員が岸にいることを確かめる。
ハンスとレオンが取水口へ向かい、エドガーは倒木のあった場所に残った。
少し待つと、水が戻ってきた。
初めは底を濡らす程度だった流れが、次第に厚みを増していく。小さな葉を運び、空いた場所を淀まず通り抜けた。
岸から土が崩れる様子もない。
エドガーは下流へ少し歩き、水が小屋の方へ流れていくのを見届けた。
「どうだ」
戻ってきたハンスが尋ねた。
「今のところ、引っかかってない」
「よし。小屋でも見てみよう」
年配の男が道具を担ぎ、若い男が残っていた縄をまとめる。
最後に一度、作業場を見回した。
猪は、とうとう現れなかった。
*
小屋へ戻る途中で、水車の音が聞こえてきた。
朝よりも強い水音に、木が噛み合う音が重なっている。
入口では、前掛けの女が待っていた。
「よく回ってるよ。水が戻ったの、すぐ分かった」
「途中で漏れてないか、もう一度見てくる」
「その前に水を飲みな。顔が真っ赤だよ」
ハンスは言い返しかけ、差し出された杯を受け取った。
レオンが小屋の中を覗いた。
石臼が動き、その脇で粉を受ける準備が進んでいる。積まれていた袋も、朝とは置き場所が変わっていた。
「これで、また挽けますね」
「ああ。順番待ちをしてる連中にも、知らせられる」
ハンスは杯を返し、エドガーへ向き直った。
「二日も来てもらって、悪かったな」
「そのつもりで受けた仕事だ」
「獣も出なかったし、何だか申し訳なくてな」
「出なかったなら、その方がいい」
ハンスは一瞬黙り、それから笑った。
「そりゃそうだ」
依頼の完了を確かめる紙に、印をつけてもらう。
木を運んだ分については、ハンスが追加の手当を出すと言った。レオンが断りかけたところで、エドガーは口を挟まず待った。
「……では、運んだ分だけ。ありがとうございます」
レオンが頭を下げる。
ハンスは納得した顔で頷き、二人分の報酬とは分けて、小さな包みを渡した。
*
街へ戻る道で、レオンは手袋を外した。
掌に木の樹液がついている。指を開いたり閉じたりしてから、袋へしまった。
「今日は、ずっと見ていてもらいましたね」
「お前が運んでる間はな」
「俺も見張りを代わればよかったですか」
「運ぶものが多かった。今日は、あれでいい」
エドガーは肩の弩を掛け直した。
矢は一本も使わなかった。
それでも、朝から周囲を見続けていれば疲れる。帰ったら目を休めたいと思った。
「力を使う仕事でも、剣を振るのとは違いますね」
レオンが言った。
「疲れ方がか」
「それもありますけど。何の役に立ったか、すぐ分かるので」
水車小屋の方を振り返る。
もう木々に隠れて見えなかった。
「木を運んだ後、ハンスさんが喜んでたでしょう。ああいうのも、いいなと思いました」
「そうか」
エドガーは短く返した。
レオンは前を向き、いつもの歩幅で隣に並んだ。
この青年は、まだ行ってみたい場所を幾つも持っている。
剣を振るうことも、何かを作ることも、今日のように重い木を運ぶことも、その途中で増えていくのだろう。
街の門が見えてきたところで、レオンが尋ねた。
「帰りにパンを買いませんか」
「家に、まだ残ってるぞ」
「明日の分です。何だか、食べたくなって」
エドガーは少し笑った。
「じゃあ、寄っていくか」
門をくぐると、通りの向こうから焼きたての匂いが流れてきた。
レオンがそちらへ顔を向ける。
エドガーも足を向け、店先に並んだパンを覗いた。




