水の通り道
水車小屋へ近づくと、水音に混じって木の軋む音が聞こえた。
大きな水車は回っていたが、しばらく見ていると、時々つかえるように遅くなる。
入口に立っていた男が、二人に気づいて手を上げた。
「ギルドからの人か」
「ああ。エドガーだ」
「レオンです。よろしくお願いします」
男は名をハンスといった。袖をまくった腕にも、前掛けにも、白い粉がついている。
「昨日、話をしてきた。今日は様子を確かめるところまででいいんだな」
「ああ。先に、獣を見た場所を教えてくれ」
ハンスは小屋の脇へ回り、水路沿いの道を指した。
「ここを上がった先だ。川から水を入れてる場所がある。その手前の茂みで見た」
「何時頃だ」
「日が落ちかけてた。倒れた木を見に行って、帰ろうとした時だな」
大きさを尋ねると、ハンスは自分の腰より少し下へ手を置いた。
「背中は、このくらいだったと思う。もっと低かったかもしれん。草に隠れてたから」
「顔は?」
「見てない。茶色っぽい毛と、背中だけだ」
エドガーは頷いた。
その高さだけなら、いくつもの獣が当てはまる。
「近づいてきたか」
「いや。こっちを見たかどうかも分からん。気づかれる前に戻った」
「それでいい。今日は一緒に場所を見てもらうが、先には出ないでくれ」
「ああ」
ハンスが小屋へ声をかけ、留守を任せる。
中から返事をした若い女が、粉のついた手を前掛けで拭きながら顔を出した。
「無理して今日片づけなくていいからね」
「分かってる」
言い慣れたやり取りらしかった。
エドガーは水袋の位置を確かめ、歩き出した。
*
水路は、人が一人なら跨げそうな幅だった。
だが、流れは速い。岸の石には苔がつき、土が水へ崩れ落ちている場所もある。
エドガーが前を歩き、ハンスを挟んでレオンが続いた。
小屋を離れるにつれ、粉を挽く音が薄れ、水と葉擦れの音だけになっていく。
「普段も一人で見に来るのか」
エドガーが尋ねた。
「落ち葉を取るくらいならな。重いものが引っかかった時は、人を呼ぶ」
「今回は木だったな」
「ああ。根元から倒れてる。水も減ってきたんで、早めに何とかしたいんだが」
道が少し広がったところで、ハンスが足を止めた。
「あそこだ」
先に、細い木が水路を斜めに跨いでいた。
枝の一部が水に浸かり、そこへ葉や小枝が溜まっている。根元は道の脇にあり、持ち上がった土の塊が見えた。
「獣を見たのは?」
「木の向こうの茂みだ」
エドガーはハンスをその場に待たせた。
「レオン、ここを頼む」
「はい」
弩を手に、足元を確かめながら進む。
倒木へ近づく前に、道を外れた泥の上に足跡があった。
二つに割れた蹄。
そのそばの土は掘り返され、細い根が千切れている。
猪だろう。
ただ、足跡だけで普通の猪か魔物かまでは決められない。
エドガーは屈み、踏まれた草を見た。折れた茎の断面は乾き始めている。泥の跡も、今ついたものではなさそうだった。
顔を上げる。
茂みの奥に動くものはない。
しばらく耳を澄ませてから、二人を手招きした。
「猪らしい跡がある。今ここにいるかは、まだ分からん」
「魔物ですか」
レオンが足跡を見下ろした。
「これだけじゃ何とも言えん。先に周りを見る。倒木には、まだ触るなよ」
「分かりました」
*
猪の通った跡は、水路から離れる方へ続いていた。
エドガーは少し辿ったところで引き返した。
今の依頼は、獣を追って森の奥まで入ることではない。作業する場所と、その周囲を確かめる方が先だった。
戻ると、レオンはハンスを道の広いところへ下げ、自分は倒木の向こうが見える位置に立っていた。
「何か動いたか」
「いえ。音も、今のところは」
エドガーは頷き、二人と一緒に取水口まで進んだ。
川から引き込んだ水が、木の板で幅を絞られ、水路へ流れ込んでいる。
ハンスは水面を見て、眉を寄せた。
「ここにも枝が来てるな」
板の手前に、細い枝が何本も重なっていた。
「これを取れば、水は戻るんですか」
「少しはな。ただ、下の木を先にどけないと、また引っかかる」
レオンが水路を振り返った。
エドガーも、倒木のある方へ目を向けた。
足跡はあったが、獣の姿は見えていない。見える範囲を調べただけで、安全と言い切るわけにはいかなかった。
「作業には、何人いる」
「木を切るのに二人。運び出すのに、もう一人欲しい」
「水は止められるか」
「ここの板を下ろせば、小屋へ行く分は止められる。川の方へ流れるようになってるからな」
エドガーは道幅と足元を見た。
重い木を持って歩くには、狭い場所がある。途中で獣が出た時、荷を持ったままでは逃げにくい。
「木を切る者と、周りを見る者は分けよう。運び出す時も、道を空けておきたい」
「ああ。それなら明日、人を連れてこられる」
ハンスは少し安心したように答えた。
*
取水口から戻りかけた時、レオンが足を止めた。
視線は、倒木の根元へ向いている。
「エドガーさん」
声は低かった。
エドガーも止まり、ハンスへ手を出した。
持ち上がった根の陰で、茶色いものが動いた。
猪だった。
長さは大人の腰から足先ほど。泥をつけた鼻が、根の間へ差し込まれている。
今まで木と土に隠れて、見えなかったらしい。
こちらの気配に気づいたのか、鼻先が上がった。
エドガーは弩を構えた。
猪から見て、森へ戻る側には誰もいない。
「ハンス、ゆっくり下がれ」
レオンがハンスのそばにつき、一緒に後ろへ下がった。
猪は鼻を鳴らした。
前脚が一歩出る。
エドガーは狙いをつけたまま動かなかった。近づいてくれば撃つ。だが、今はまだ、こちらへ向かうと決まったわけではない。
短い間を置いて、猪が身を翻した。
根の脇を抜け、茂みに入る。
枝が揺れ、その音が遠ざかっていった。
エドガーは、すぐには弩を下ろさなかった。
後ろでハンスが息を吐く。
「……あれだと思う」
「今見えた限りじゃ、普通の猪に見えた。だが、しばらくは近づかん方がいい」
レオンは追わず、ハンスのそばに残っていた。
エドガーが頷くと、ようやく握っていた剣の柄から手を離した。
*
少し待っても、猪は戻ってこなかった。
それでも、その場で作業を始めることはしなかった。
エドガーは猪がいた場所を、離れたところから確かめた。根の周りが掘り返されている。
「餌を探しに来てるのかもしれんな」
「木をどけても、また来るか」
「それは分からん。明日も先に周りを見よう。作業中に出るなら、追い払うだけで済むか考え直す」
ハンスは頷いた。
戻る道で、レオンが倒木を見上げた。
「これくらいなら、切れば運べそうです」
「足元はどうだ」
エドガーが尋ねると、レオンは自分の立っている場所を見た。
水路の縁が湿り、靴の下で土が少し沈んでいる。
「……持ち上げる前に、立つところを決めないと駄目ですね」
「ああ。重いものを持ってから崩れると、面倒だ」
「明日、切った後で運ぶのを手伝えます。まず、道を確かめてから」
ハンスが二人を見比べた。
「助かるが、護衛の仕事だろう」
「運ぶ間、こっちで周りを見る。無理なようなら、手を出させん」
エドガーが答えると、レオンは頷いた。
何でも止めておく必要はない。
持てる力があるなら、使えばいい。そのために何を確かめるかが分かっていれば、任せられることも増える。
*
水車小屋へ戻ると、朝に見送った女が入口から顔を出した。
「どうだった?」
「猪がいた。今日は木に触らず戻ってきた」
ハンスが答えた。
「明日、人を揃えてやる。水も止めるから、朝のうちに挽けるだけ挽いておこう」
「分かった。預かってる分は、私からも話しておく」
女は小屋の中へ戻り、積まれた袋を確かめ始めた。
レオンは、その様子を少し見ていた。
「粉になるのを待ってる人もいるんですね」
「ああ。パン屋も、近くの家の連中もな」
ハンスは水車を見上げた。
「水が減ったからって、腹が減らなくなるわけじゃない」
レオンが小さく笑った。
エドガーも、水の流れる音へ耳を向けた。
魔物を倒して終わる仕事もあれば、木をどける間、何も出てこないように見ている仕事もある。
明日は、その見張りをする。
レオンが木を運び、ハンスたちが水路を掃除する。その間、獣が近づかず、誰も水へ落ちなければいい。
「明日も、この時間でいいか」
「ああ。頼む」
ハンスと約束を確かめ、二人で街へ戻った。
途中でレオンが、腰の剣へ手を添えた。
「抜かずに済みましたね」
「抜いて追えば、向こうも逃げるのをやめたかもしれん」
「はい。ハンスさんもいましたし」
エドガーは隣を見た。
レオンは歩きながら、先ほどの場所を思い返しているようだった。
「よく見てたな。根のところ」
「最初、土が落ちたんです。それで気になって」
見えたものを、そのまま答える。
エドガーは頷いた。
「助かった」
「はい」
レオンの返事が、少し明るくなった。
街へ続く道の先で、麦を積んだ荷車とすれ違った。
車輪が土を踏み、袋の口から覗いた穂が揺れる。
明日、水路が通れば、あの麦も粉になるのかもしれない。
エドガーは荷車に道を譲り、通り過ぎるのを待った。




