明日も、この街で
包みを開くと、丸い焼き菓子が六つ入っていた。
形は少しずつ違っている。縁に焼き色がつき、割れ目から小さな干し果実が覗いていた。
レオンが茶を運んできて、卓の上へ置く。
「いい匂いですね」
「ああ」
一つ取って齧る。
表面は硬めだったが、中は思ったより柔らかい。噛むと、果実の甘さが広がった。
レオンも一口食べ、それから包みを見た。
「お店のものとは、少し違いますね」
「家で焼いたんだろうな」
助けた男が、誰と暮らしているのかは知らない。
荷のことを心配していたから、商いに関わる者なのだろう。その程度だった。
だが、あの男が帰るのを待ち、治療所まで菓子を持っていく誰かがいる。
エドガーは、もう一口齧った。
レオンが何か言うでもなく、茶を飲んでいた。
*
食べ終えてから、エドガーは懐の紙を取り出した。
ギルドで渡された、昇級についての説明だった。
折り目を伸ばして卓へ置く。
レオンはそれを横目に見たが、返事を急かすことはなかった。空いた皿を下げ、水を汲みに裏手へ出ていった。
二級になれば、受けられる仕事が増える。
別の街でも、これまでより話が通りやすくなる。仕事を探して各地を歩いていた頃なら、その利点は大きかっただろう。
今は、この街に家がある。
依頼を終えて帰り、道具を手入れする。市場で食べる物を選び、顔見知りと立ち話をする。時には数日留守にして、一人で森へ入る。
そういう暮らしを、ようやく自分のものにしたところだった。
エドガーは窓の外を見た。
塀の向こうで、近所の子供が誰かを呼んでいる。通りを荷車が過ぎ、車輪の音が遠ざかった。
この先も、頼まれれば引き受ける仕事はあるだろう。
目の前で人が襲われていれば、助けようとする。その時に何を使うかまで、今ここで決めておくことはできない。
けれど、難しい仕事へ進むために階級を上げたいとは、思わなかった。
紙に目を戻す。
これまでは、昇級の話が出ると、面倒なことにならないうちに断ろうと考えていた。
今回も、結論は同じになるのかもしれない。
ただ、帳面に残された仕事まで、なかったことにする必要はなかった。
あれは、自分がやってきたことだ。
銃を作れるからできたこともある。だが、荷車の動きを確かめたのも、腕を痛めたオルフに見張りを頼んだのも、スキルが教えてくれたわけではない。
長く続けているうちに、考えずにできることが増えていた。
自分では、それをいちいち数えていなかっただけなのだろう。
エドガーは紙を折り直した。
*
翌日、窓口の列が途切れるのを待って、マークへ声をかけた。
「昨日の話だが」
「はい」
マークは手元の帳面を脇へ寄せた。
「今回は、昇級を見送らせてくれ」
言ってから、折った紙を差し出す。
「今の仕事と暮らしを、もうしばらく続けたい」
「分かりました」
引き止める言葉はなかった。
マークは紙を受け取り、確かめるように尋ねた。
「推薦の話は、いったん保留ということでよろしいですか」
「ああ。気が変わったら、こっちから相談する」
そこまで言って、エドガーは少し間を置いた。
「……評価してくれたことは、ありがたく思ってる」
マークが顔を上げた。
口にしてみると、思ったより気恥ずかしかった。
昨日は、慎重なだけだと返した。その慎重さが助けになったと言われて、何も言えなかった。
今度は、それで終わらせたくなかった。
「長くやってると、自分じゃ分からなくなることもあるらしい」
「毎日の仕事ですからね」
マークは少し表情を和らげた。
「では、今後もよろしくお願いします」
「ああ」
いつもと同じ挨拶だった。
エドガーは窓口を離れ、掲示板の前で待つレオンのところへ戻った。
*
「見送ることにした」
「そうですか」
レオンは短く答えた。
「お前は、遠慮するなよ」
エドガーが言うと、レオンが首を傾げた。
「何をですか」
「階級だ。上げたいなら、上げればいい。俺に合わせることはない」
「そのつもりです」
返事が早かった。
エドガーが見ると、レオンは少し笑った。
「すぐ上がれるかは別ですけど。いずれは、行ったことのない土地でも仕事をしてみたいので」
「なら、役に立つだろうな」
「はい」
その顔に、こちらを気遣って言葉を選んでいる様子はなかった。
エドガーは頷いた。
それでいい。
同じ家で暮らし、今は一緒に仕事をしていても、その先まで同じにする必要はない。
レオンは掲示板へ向き直った。
いくつかの依頼を読み比べ、そのうちの一枚を指す。
「今日は、これを見ていたんです」
街外れの水車小屋で使う、水路の点検だった。
上流にある取水口の近くで、獣らしいものが目撃されている。水車小屋の者だけで見に行くのは不安なので、付き添いが欲しいという。
「日帰りか」
「予定では。途中に倒木もあるそうなので、作業の間、周囲を見ていてほしいと」
「何を見たか、先に聞いた方がいいな」
「はい。大きさも書いてないので」
報酬は高くない。
それでも、引き受けられる範囲の仕事だった。水車が止まれば、困る者もいる。
エドガーは依頼票を外した。
「話を聞いて、足りないようなら人数を増やす」
「分かりました」
二人で窓口へ戻る。
紙を受け取ったマークは、依頼主が来た時の話を帳面から探し始めた。
*
話を聞いた結果、その日は現地を確かめるところまでになった。
目撃されたのは夕暮れ時で、姿ははっきりしていない。依頼主も、無理にその日のうちに作業を済ませたいわけではなかった。
翌朝、水車小屋で落ち合う約束をして、ギルドを出る。
「食料、買って帰りますか」
レオンに聞かれ、エドガーは頷いた。
「明日の昼の分もな。戻ってからでいいと思ってると、食い損ねる」
「この前みたいに?」
「ああ。腹が減ってるのも、帰る途中まで忘れてた」
市場は、昼前の買い物客で賑わっていた。
野菜の籠を避けて歩き、パンを買う。干した果実を少し足し、夕食に使う卵も選んだ。
レオンは露店に並んだ道具を見つけ、足を止めた。
小さな槌や、使い込まれた鉗子が布の上に並んでいる。
「見るだけですよ」
エドガーが何も言わないうちに、レオンが言った。
「まだ何も言ってない」
「顔が」
「どんな顔だ」
レオンは笑って、店主に一つ手に取っていいか尋ねた。
槌を持ち上げ、柄の付け根を確かめている。
エドガーには、似たようなものが家にもあった気がした。だが、本人には違いがあるのだろう。
「買うのか」
「今日はやめておきます。使い道を決めてからにします」
槌を戻し、礼を言って離れる。
その判断に、エドガーは少し感心した。
興味を持ったものへ、すぐ手を伸ばすばかりでもないらしい。
「鍛冶屋で聞いてからでも遅くないな」
「はい。今度、道具のことも聞いてみます」
買い物袋を持ち替え、家へ向かった。
*
夕方、エドガーは庭で弩の手入れをした。
弦を確かめ、矢を一本ずつ見る。傷んだものを脇へ分け、残りを矢筒へ戻した。
明日は水路沿いを歩く。
足元が悪い場所もあるだろう。縄と、濡れた時に替える布も入れておく。
必要なものを揃えていると、家の中からレオンが顔を出した。
「明日の食べ物、包んでおきました」
「ああ。助かる」
「こっちは、何かありますか」
「この矢を、明かりのところで見てくれ。羽根が浮いてないか、気になる」
レオンが受け取り、窓から入る光へかざした。
「ここ、少し剥がれかけてますね」
「やっぱりか。明日は持っていかん方へ分けておいてくれ」
「はい」
返事を聞きながら、エドガーは弩を布で拭いた。
一人なら、そのまま自分で確かめていただろう。
今は、声をかければ見てくれる者がいる。任せている間に、別の支度ができる。
便利だと思う。
それだけではないことも、もう分かっていた。
手入れを終えて中へ入ると、食卓の端に、残しておいた焼き菓子が二つ並んでいた。
「茶にしますか」
「ああ」
エドガーは椅子へ腰を下ろした。
明日も、この街で仕事をする。
帰ってきたら、水車が動いたかどうかを話しながら、飯を食うのだろう。
レオンが茶を注ぎ、向かいに座った。
エドガーは菓子を一つ取り、残りの皿をそちらへ押した。




