傷跡を読む人
翌朝、ギルドへ顔を出すと、マークに呼び止められた。
「昨日の魔物ですが、巡療会に確認をお願いすることになりました」
「渡り鳥に?」
「はい。今、街に滞在されている方々です。現場で、動いていた時の様子を教えていただけませんか」
エドガーは隣のレオンへ目を向けた。
今日は二人で依頼を見るつもりだった。急ぐ仕事を決めていたわけではない。
「俺も行っていいですか」
レオンが尋ねた。
「見たことのない魔物なら、見ておきたいです」
「同行される方に確認しましょう」
マークに案内され、ギルドの裏手へ回る。
荷車のそばで道具箱を確かめていたリゼが、二人に気づいた。
「おはようございます」
「ああ。今度は調べる方か」
「はい。昨日、話が来たので」
リゼの左上腕には、上着の上から生成りの腕章が巻かれていた。深緑の渡り鳥が、朝の光を受けている。
そのそばに、もう一人、エルフの女性が立っていた。
髪を後ろでまとめ、旅装の袖口をきちんと留めている。荷車に載せられた箱から視線を上げると、まずエドガーを、それからレオンを見た。
「エルヴィラです。巡療会の取りまとめをしています」
名前には覚えがあった。
渡り鳥の代表。各地を巡る者たちの話に、時折出てくる名だった。
「エドガーだ。昨日の話なら、ギルドで聞いたと思うが」
「ええ。実際の場所で確かめたいことが幾つかあります。ご一緒いただけますか」
「ああ」
レオンも名乗り、同行したい理由を伝えた。
エルヴィラは頷いた。
「構いません。ただ、触れる前には声をかけてください。私たちにも、まだ分からないことがありますから」
「分かりました」
*
休憩場所には、まだ兵が残っていた。
壊れた荷車から積み荷を回収する者たちと、通行人を道の反対側へ誘導する者たちがいる。
魔物の身体には、粗い布が掛けられていた。
兵の一人がエドガーを見つけ、手を上げた。
「昨夜は、近づいてくる獣もいた。追い払ったが、いつまでも置いておくわけにはいかんな」
「今日、調べるんだろう」
「ああ。済んだら処分する」
調査には、街から派遣された医師も立ち会っていた。
挨拶を交わす間に、荷車から道具が下ろされる。記録用の板、長さを測る紐、厚手の手袋。処分に使う薪は、水場から離れた場所へ運ばれていた。
エドガーは、昨日自分が立っていた辺りへ歩いた。
「着いた時、あいつはここより荷車に近かった。盾を持った護衛が、前に残っていた」
「魔物は、その人を追っていたんですか」
「顔は向けていた。だが、人を狙っていたのか、動くものに反応していたのかまでは分からん」
エルヴィラは、壊れた荷車との間を見比べた。
「最初に傷を負った後の動きも、お願いします」
エドガーは片方の前脚が崩れた位置と、その後、身体を引きずってきた距離を示した。
横で聞いていたレオンが、地面に残った深い跡へ目を落とす。
土が抉れ、その先まで腹を擦った跡が続いていた。
「脚が使えなくなっても、これだけ……」
「ああ。倒れたと思って近づいていたら、届いてた」
レオンは魔物の方へ視線を戻した。
布が外されると、その大きさが改めて分かった。
横倒しになっていても、背は人の腰より高い。片方の前脚だけが不釣り合いに太く、肩から首にかけて灰白色の硬いものが盛り上がっている。
昨日は動きを止めることしか考えていなかった。
こうして見ると、身体のあちこちが、別々の速さで育ったように歪んでいた。
*
エルヴィラは、まず傷のない側を調べた。
足先から肩までを測り、口元と歯を確かめる。硬く盛り上がった部分は、手袋越しに触れただけで済ませず、医師にも同じ場所を示した。
リゼは少し離れたところで、身体の形を紙に写していた。
「見覚えはあるか」
エドガーが尋ねると、エルヴィラは手を止めた。
「この姿そのものには、ありません。ただ、こうした変異個体の報告は、各地から届いています」
「この辺だけじゃないのか」
「ええ。山で見つかったものもいれば、人里近くに現れたものもいます。元になったと思われる獣も、変わり方も違います」
エルヴィラは、左右で太さの違う前脚を見比べた。
「場所や時期を照らし合わせても、今のところ共通点は見つかっていません」
「何が原因かも?」
「分かっていません。同じ原因で姿が違うのか、それぞれ別のことが起きているのかも」
レオンが、記録を取るリゼの手元へ目を向けた。
「見つかった場所を調べても、分からないんですか」
「そこに現れたことは分かります。でも、そこで変わったとは限りません。どこから来たのか追えないものも多いんです」
エドガーは森の方を見た。
足跡を辿れば、しばらくは追えるだろう。だが、その先が必ず原因に行き着くわけではない。いつからこの姿なのかさえ、分かっていないのだ。
「次に出る場所も、絞れないか」
「ええ。各地の記録を集めていますが、まだ予測に使えるものはありません」
エルヴィラはリゼの描いた絵を確かめ、肩の盛り上がりを指した。リゼが短く頷き、線を書き足す。
「少なくとも、この個体がどう動き、どこに危険があったのかは残せます。後で似たものに出会った人の助けになるかもしれません」
「なら、爪を振る時のことも話しておく」
エドガーは、昨日見た動きを説明した。
腕の長さだけではなかった。肩ごと前へ出し、重い身体を乗せてくる。片脚が使えなくなっても、その動きは止まらなかった。
エルヴィラは時々問い返しながら聞き、リゼがその横で書き留めていった。
やがて、調べる場所が肩の傷へ移った。
「ここが最初ですね」
「ああ」
「次が胸で、最後が頭」
「そうだ」
リゼの筆が止まった。
肩の傷を見てから、胸へ視線を移す。その表情に、以前にも見た覚えのあるものが浮かんだ。
「前に、森でお会いした時も……」
そこまで言って、リゼはエドガーを見た。
死骸を処理していたところに、声をかけられた時のことだろう。
「あの時の傷か」
「はい。弩の矢とも、刃物の傷とも違って見えたので、覚えていました」
エドガーは一度、魔物へ目を戻した。
あの時も、今日も、傷を見て気づいたのだ。
「同じような武器を使った」
「……そうだったんですね」
リゼは小さく頷いた。
驚いたというより、長く引っかかっていたことに、ようやく説明がついたような顔だった。
エルヴィラも傷口を確かめたが、武器を見せてほしいとは言わなかった。
「この三か所を、魔物自身の異常と混同しないようにしておきます。ほかに、あなたがつけた傷はありますか」
「ない。細かい傷は、先に戦っていた護衛たちのものだと思う」
「分かりました」
リゼの筆が、また動き出した。
エドガーは知らず詰めていた息を吐いた。
聞かれれば、もう少し面倒になると思っていた。
だが、今の彼女たちが確かめているのは、目の前に残された身体だった。
*
調査は、昼を過ぎても続いた。
エドガーの説明が必要なところは先に済んだが、帰る前に、分かったことを聞いておくことにした。
水場から離れた木陰で、持ってきたパンを食べる。
レオンは少し向こうで、リゼが空の道具箱を運ぶのを手伝っていた。
「これは荷車へ?」
「はい。そちらの布は、まだ使います」
「分かりました」
勝手にまとめてしまわず、一つずつ確かめている。
昨日、ここにいてくれれば、と思わないでもなかった。
荷車を持ち上げるにも、怪我人を運ぶにも、あの力があれば助かっただろう。
もっとも、いなかった者を数えても仕方がない。昨日は昨日で、そこにいた者たちで帰ってきた。
レオンが戻ってきて、隣に腰を下ろした。
「話で聞くより、大きかったです」
「俺も、昨日より大きく見える」
「動かなくなってからの方が?」
「ゆっくり見る暇があるからな」
レオンは頷き、包みからパンを出した。
しばらくして、手袋を外したエルヴィラが近づいてきた。
「長くなってしまいましたね。お二人は、先に戻られても大丈夫です」
「何か分かったか」
「肩の硬い部分は、皮膚の下まで続いていました。ただ、全身を覆っているわけではありません。左右の脚も、太さだけでなく骨の形から違っています」
エルヴィラは、調査中の魔物を振り返った。
「見た目から想像する動きと、実際の動きに差があるのでしょう。護衛の方が距離を見誤ったという話とも合います」
「似たものが出たら、熊だと思って近づかない方がいいな」
「ええ。ただ、別の変異個体まで同じ動きをするとは限りません。その点も含めて、報告に残します」
レオンがパンを包み直した。
「昨日、運ばれた人たちの具合は分かりますか」
エルヴィラが顔を向ける。
「今朝、治療所で確認してきました。胸を痛めた方は、まだ注意が必要です。ただ、夜の間に急に悪くなることはありませんでした」
「そうですか」
「足を挟まれた方も、治療を受けています。歩けるようになるまでには時間がかかるでしょうが」
エドガーは膝に置いていた手を緩めた。
すぐ元どおりになるとは思っていない。
それでも、運んだ先で治療が続いていると聞けるだけで、昨日から残っていたものが少し軽くなった。
「荷車から出す時、無理に脚を引かなかったそうですね」
エルヴィラが言った。
「ああ。荷台がずれそうだった」
「その時の様子は、本人がよく覚えていました。痛いと言えば手を止めてもらえた、と」
エドガーは返事の代わりに、水袋へ手を伸ばした。
そんなところまで話していたのか。
「レオンさんも、普段はエドガーさんと?」
「はい。一緒に仕事をしています」
「今回の話は、昨日聞かれたんですね」
「夕食の時に。今日は、実物を見せてもらえればと思って来ました」
エルヴィラは頷いた。
「見て覚えたことは、持ち帰ってください。分からなかったことまで、分かったつもりにしなければ、それで十分役に立ちます」
レオンは魔物へ目を向けてから、返事をした。
「はい」
*
帰り支度をする頃には、処分の準備が始まっていた。
必要な記録を残し、調査を続けるための一部を街の医師が引き取った後、残りはここで焼いて埋めるという。
エドガーはリゼへ声をかけた。
「遅くなるなら、帰り道は気をつけろよ」
「はい。兵の方たちと戻ります」
彼女は紙を束ね、板で挟んだ。
その端に、長い前脚の絵が見えた。太さの違いも、硬い部分の位置も、丁寧に描き分けられている。
「よく描けてるな」
「後で、見ていない人にも説明するので」
リゼは絵を見下ろした。
「傷のことも、分かってよかったです」
エドガーは少し迷ってから、頷いた。
「ああ」
レオンも挨拶を済ませ、二人で街道へ出た。
昨日は、怪我人を乗せた荷車の速さに合わせて歩いた道だった。
今日は隣を歩く足音が、同じ調子でついてくる。
「見に来られてよかったです」
レオンが言った。
「何か参考になったか」
「はい。あれだけ身体が違うと、どこまで爪が届くかも、簡単には決められませんね」
「一度かわした距離でも、次に同じとは限らんからな」
「気をつけます」
少し先で、荷馬車がこちらへ向かってくるのが見えた。
二人は道の端へ寄った。
御者が軽く手を上げ、車輪を鳴らしながら通り過ぎていく。荷台には籠が並び、その隙間で若い男が居眠りをしていた。
エドガーは通り過ぎる荷馬車を見送り、また歩き出した。




