見知らぬ獣
曲がり角を抜けたところで、エドガーは足を緩めた。
水場まで、四十歩ほど。
道が広がった場所に荷馬車が三台あった。一台は車輪が折れ、荷台を傾けている。残る二台の間に、人々が身を寄せていた。
その前に、獣がいた。
四つ脚で立っているのに、肩が荷台より高い。
熊に似ていた。
だが、前脚が長すぎる。
片方の肩だけが瘤のように盛り上がり、毛の抜けた首には灰白色の皮膚が露出していた。重い胴に対して頭は小さく、その頭を振るたび、口から唾液が落ちた。
見たことがない。
倒れた馬を踏み越え、獣が荷車へ近づく。
盾を持った男が、後ろへ下がった。盾の縁は割れ、腕が下がりかけている。
少し離れた場所では、槍を持つ女が穂先を向けていた。
獣が女へ顔を向ける。
盾の男が声を張り、注意を引き戻した。
荷車の間で、別の男が負傷者を引きずっている。
逃がそうとしているのだ。
だが、追われれば運びきれない。
エドガーは背負い袋を道端へ落とした。
両手の間に、黒い銃が現れる。
短めの銃身を備えたライフルだった。肩へ当てる頃には、魔力を通し終えていた。
「護衛! 荷車から離れろ!」
盾の男が、一瞬こちらを見る。
「こいつは――」
「こっちで撃つ。人を下げろ!」
獣の向こうには、傾いた荷台がある。
その陰に、人影が見えた。
エドガーは道の端へ数歩動いた。
獣と荷車が重ならなくなる。
その先は、低い土手だった。
獣が前脚を持ち上げる。
エドガーは引き金を引いた。
*
弾が空気を裂いた。
肩の灰白色の皮膚が割れ、獣の身体が横へ傾いた。
振り下ろされた前脚は男へ届かず、地面を抉った。
「下がれ!」
盾の男が後ろへ退く。
槍の女も穂先を引き、荷車の間へ走った。
エドガーは銃口を据えたまま、獣を見た。
脚が潰れている。
それでも、倒れない。
傷ついた側へ沈んだ胴を、もう片方の前脚で支えていた。
口が開く。
咆哮が、水場に響いた。
エドガーは二発目を撃った。
胸へ入った弾が、獣の身体を大きく揺らした。
太い爪が土を掻く。
獣が顔をこちらへ向けた。
目は見えた。
だが、それが何を見ているのかは分からない。ただ傷を負わせた方へ身体を向けたのかもしれなかった。
エドガーは銃床を肩へ押しつけた。
倒れるだろう、と待つつもりはなかった。
獣が残った前脚を伸ばす。
その爪が地面を捉え、巨体を引き寄せた。
速い。
脚を一本失った獣の動きではなかった。
エドガーは、こちらへ向いた頭を狙った。
三発目。
獣の頭が跳ねた。
伸ばしかけた前脚が折れ曲がり、胴が地面へ落ちる。
土埃が上がった。
巨体はそのまま少し滑り、止まった。
*
誰かが叫んでいた。
馬の鳴き声も聞こえる。
エドガーは銃を下ろさなかった。
獣の脚が動いた。
地面を引っ掻くような、小さな動きだった。
立とうとしているのか、ただ動いているだけなのか。
分からない。
「近づくな!」
荷車の陰から顔を出した男へ言った。
「動ける者は、怪我人を運べ。俺が来た道へ!」
槍の女が振り返った。
「こちらへ! 歩けない人を先に!」
その声で、人々が動き始めた。
女は荷台の陰にいる者へ手を伸ばし、立たせた。杖をついた老人を、若い男が背負う。
盾の男も負傷者のそばへ膝をついたが、腕へ力を入れた途端、顔を歪めた。
「盾の人は周りを見てくれ。運ぶのは別の者に頼め」
エドガーが言うと、男は一度こちらを見た。
それから盾を外し、近くにいた二人を呼んだ。
「この男を頼む。脚を踏まないように」
声は落ち着いていた。
任せられる。
エドガーは獣へ注意を戻した。
脚は動かなくなっている。
荒かった呼吸も聞こえない。
それでも、まだ銃を消す気にはなれなかった。
*
人が、一人ずつ横を通り過ぎた。
肩を貸されて歩く男。
泣く子供を抱いた女。
布で額を押さえながら、荷車を何度も振り返る老人。
「荷は後だ。先に道を空けてくれ」
エドガーは老人へ声をかけた。
老人が頷き、歩き出す。
その後ろから、二人が負傷した男を運んできた。片脚が不自然な向きに曲がり、靴が脱げかけていた。
口元は動いている。
生きている。
エドガーは通り過ぎるのを待ち、槍の女へ尋ねた。
「残ってるのは?」
「壊れた荷車の陰に一人。足を挟まれています。もう一人、馬のそばに倒れたままで……」
女が獣の向こうを見た。
「見えていない人もいるかもしれません」
「連れ同士で確かめてもらってくれ。名前が出たら教えてほしい」
「分かりました」
女は引き返した。
代わりに、盾を外した男が近づいてくる。
片腕を身体へ寄せ、剣をもう一方の手に持っていた。
「助かった」
「話は後だ。あれ以外に見たか」
「いや。一頭だけだ」
男は倒れた獣へ目を向けた。
「最初は熊かと思った。だが、槍を入れても止まらん。前脚が荷台の向こうまで来た」
エドガーは壊れた荷車を見た。
側板が内側へ折れ、車輪の破片が散っている。
その上を越えて、爪が届いたのだろう。
「何か吐いたり、飛ばしたりは?」
「見てない。噛むのと、前脚だけだ」
「分かった。林の方を見ていてくれ」
男は頷いた。
何で撃ったのかとは、聞かなかった。
銃へ一度、目を落としただけだった。
*
エドガーは立つ場所を変え、倒れた獣を横から見た。
腹は動いていない。
頭の傷は深かった。肩と胸にも、撃ち込んだ跡が残っている。
牙犬に使った威力ではない。
それでも二発を受けて、あの身体は前へ出た。
知っている獣の姿に似ているからといって、同じように止まるとは限らない。
エドガーは足を止め、しばらく見続けた。
目の端では、槍の女が荷車の陰にいる者へ声をかけている。
もう獣に近づかなければ助けられない位置ではない。救助を進めながら、こちらで見ていればいい。
エドガーは女へ声をかけた。
「挟まれてる人は、話せるか」
「はい。車体を持ち上げないと、足が抜けません」
「すぐ行く。無理に引くなよ」
さらに待った。
獣は動かない。
周囲を一巡させ、林にも新たな気配がないことを確かめる。
そこでようやく、エドガーは長い銃を消した。
手の中に、小ぶりな拳銃を作る。
足元に散った板を避け、獣のそばへ近づいた。
鼻先も、喉も動いていない。
間近で見ると、皮膚の厚さが場所によって違っていた。首の片側は硬い塊のように盛り上がり、反対側には毛の生えた皮が弛んでいる。
傷のせいで崩れた部分を除いても、身体の形が歪だった。
名前が浮かばない。
今は、それを考える時間ではなかった。
死んでいることを確かめ、エドガーは立ち上がった。
*
壊れた荷車の陰にいたのは、痩せた男だった。
荷台が傾いた時に倒れ、その下へ足を挟まれたらしい。
額から汗が流れ、地面についた両手が震えていた。
「抜けそうか」
「少し、浮けば……」
エドガーはしゃがまず、まず荷車全体を見た。
壊れた車輪の側へ傾き、荷台の角が地面についている。積み荷の袋は、まだ何段も重なっていた。
持ち上げる前に、そちらを減らす必要がある。
「この荷の持ち主は?」
「俺だ」
離れた場所にいた男が答えた。
「袋を下ろす。破れるかもしれん」
「構わん。早く助けてくれ」
エドガーは頷いた。
拳銃を消し、荷車の下へ目を向ける。
切れる刃なら作れる。
だが、支えている物を切れば、荷台がさらに落ちる。足を挟まれた男の上へ、積み荷ごと崩れるかもしれない。
エドガーは近くの者たちへ顔を上げた。
「動ける者を二人、貸してくれ。まず上の袋を下ろす。荷台には乗るな」
槍の女が二人を連れてきた。
エドガーは、車体が動かないよう支えに使える木を指した。
「それも頼む。浮かせたところへ入れたい」
男の一人が走った。
挟まれた男が、エドガーの顔を見上げる。
「助かるか」
「荷を軽くして、少しずつ上げる。足は引っ張らず、そのままでいてくれ」
男が頷いた。
エドガーはコートの裾をまとめ、最初の袋へ手をかけた。
後ろでは、護衛が人の名を呼んでいた。
返事が一つ、また一つと聞こえる。
獣は倒した。
まだ、帰せていない人がいる。
「そっちを持ってくれ。合わせて下ろすぞ」
向かいの男が、袋の端を握った。




