月明かりの畑
翌朝、柵は倒れていなかった。
ただ、その外側の土が掘り返されていた。昨日トマスたちが埋めた場所のすぐ隣に、新しい窪みができている。
エドガーは畑へ入らず、踏み荒らされていない場所から足跡を見た。
「昨夜も来たか」
「そのようですね。中までは入られませんでしたが」
トマスが柵の下を指した。
木のささくれに、灰色の毛が引っかかっている。その上には、硬い物を擦りつけたような傷があった。
エドガーはしゃがみ、土に残った蹄の跡を確かめた。
深い。鼻で掘っただけではなく、身体を押しつけて柵を持ち上げようとしたらしい。
「普通の猪じゃなさそうだな」
「灰猪でしょうか」
「そのつもりでいた方がいい」
トマスは畑を振り返った。
まだ荒らされた範囲は狭い。だが、一度中へ入り込まれれば、食われる量より踏み潰される量の方が多くなる。
「今夜、見張りを立てようと思います。家畜の方にも人を置いて」
「俺たちも出る」
「休みに来てもらったのに、すみません」
「畑が気になったままじゃ、落ち着いて飯も食えんだろう」
トマスが苦笑した。
「それは、そうですね」
隣で足跡を見ていたレオンも顔を上げた。
「明るいうちに、周りを見ておきませんか。夜になってからだと分からないので」
「ああ。森へは入らず、ここから見える範囲をな」
*
畑の端に、小さな農具小屋があった。
壁の板には隙間があるが、雨をしのぐには困らない。中の道具を少し寄せれば、二人が座れるだけの場所もできた。
小屋から森までは、百歩ほど離れている。
間には草の短い空き地があり、森の手前で地面が緩く盛り上がっていた。昨夜の足跡は、その斜面の脇から続いている。
エドガーは戸口に立ち、見通しを確かめた。
ここなら、畑へ入る前に姿を捉えられる。
「俺とレオンはここにいる。家畜の方を頼めるか」
「分かりました。若いのを二人連れていきます」
家畜小屋は、畑とは反対の、家々の裏手にあった。そちらを守る人間が、エドガーたちの目の前を横切ることはない。
「何かあれば笛で知らせます」
「ああ。こっちへ来る時は、家沿いに回ってくれ」
「畑は横切らないように言っておきます」
トマスは小屋の戸を動かした。
蝶番が、低く軋んだ。
「これは、油を差しておいた方がいいですね」
「頼む。開けるたびに知らせることになる」
昼までに場所を決め、交代の時間も確認した。
それから家へ戻り、夜に備えて休んだ。
*
日が落ちる前に、二人は農具小屋へ入った。
持ち込んだ腰掛けは、厚い板に脚をつけただけの物だった。長く座れば尻が痛くなりそうだが、畑の土に座るよりはいい。
レオンが水袋を壁際へ置く。
「家の椅子を持ってきたくなりますね」
「ここまで担いでくるのか」
「……この椅子でいいです」
エドガーは小さく笑い、戸口の脇へ腰を下ろした。
夕暮れの間に、鳥の声が減っていった。
家々の窓に灯が入り、やがて一つずつ消える。代わりに月明かりが、畑と空き地を薄く照らし始めた。
草地に出てくれば、大きな獣の姿は分かる。
森の中までは見えない。
エドガーは弩を手元へ置き、戸口から外を眺めた。
しばらくは何も来なかった。
遠くで家畜が鳴き、どこかの戸が閉まる音がした。それも静まると、草を擦る風の音が耳についた。
「レオン」
声を落として呼ぶ。
「はい」
「前に、長い銃もあると言っていたな。あれは、何が違うんだ」
レオンは少し考えた。
「種類にもよるんですが……遠くを狙うための物があります。ライフルっていうんです」
「遠くというと、あの森から出てきた相手にも使えるのか」
「そのくらいなら。ただ、俺も使ったことはないので、どれくらい当てられるかまでは分かりません」
エドガーは森の縁を見た。
「形は覚えてるか」
「だいたいなら」
レオンは両手を離し、おおよその長さを示した。
「前に見せてもらった銃より、これくらい長くて。後ろに、肩へ当てる部分があります」
「片手じゃ持てんな」
「はい。前の方も、もう片方の手で支えるんです」
何も持たないまま、レオンが構えてみせる。
右手を頬の近くへ置き、左手を前へ伸ばした。
「肩へ当てるのは、弩と同じか」
「ええ。こうして、身体に寄せて持ちます」
エドガーは頷いた。
レオンが外へ目を戻したのを確かめてから、膝の上に銃を作る。
先日見せた物に近い形から、銃身を長くする。握る部分の後ろには、肩へ当てるための部分を伸ばした。
「後ろは、こんな形か」
声をかけて銃を見せ、自分は戸口の向こうへ視線を移した。
レオンが身を寄せる。
「もう少し幅があったと思います。肩へ当たるところが、板みたいになっていて」
「この細さでは、肩に収まりが悪いか」
「そうですね。それと、前を持つところにも覆いがありました。そこは木だったような……」
レオンは言葉を切り、記憶を探るように眉を寄せた。
「すみません。細かい形までは、はっきり覚えていなくて」
「分かるところだけでいい」
エドガーは一度、銃を消した。
レオンが再び外を見始めてから、聞いた形を膝の上へ作り直す。銃床に幅を持たせ、前にも手を添えやすい部分を設けた。
使い慣れた形へ近づいていく。
一人で狩りをしていた頃から、何度も作ってきた武器だ。それでも今は、レオンの説明を待った。
「これならどうだ」
見張る役を交代し、もう一度見せる。
レオンはすぐには頷かなかった。横から眺め、肩へ当てる部分の形を手で示した。
「ここが、もう少し下へ伸びていたと思います」
「この辺りか」
「はい。それなら、かなり近いです」
エドガーはその部分を整えてから、銃を差し出した。
「持ってみるか」
「いいんですか」
「ああ」
レオンは受け取ると、銃口を戸口の外へ向け、ゆっくり肩へ当てた。
「……こうすると、思っていたより長いですね」
前へ添えた手を動かし、持ちやすい位置を探している。
「その構え方で合ってるのか」
「絵では、こうしていたはずです。ただ、中の仕組みまでは説明できません」
「形は分かった。十分だ」
差し戻された銃を受け取る。
手に戻った重みは、馴染みのあるものだった。
「使えそうですか?」
「構える分には、困らんな」
エドガーは肩へ当て、戸口の外を見た。
レオンも森の方へ目を向ける。
「あそこだと、出てきても小さくしか見えませんね」
「見分けがつかなきゃ撃たん。もう少し近くへ来るのを待つ」
「そうですね」
銃を見せ合うのは、そこで終わりにした。
エドガーが遠くを見て、レオンは小屋の近くへも注意を向ける。
二人で、また静かに待った。
*
最初に見えたのは、枝の揺れだった。
風とは違う。
低い場所で葉が押され、その下から黒い塊が出てきた。
エドガーが片手を上げると、レオンも動きを止めた。
森の縁に、獣が立っていた。
頭を低く垂れ、鼻先を地面へ近づけている。
まだ、下草と枝が身体に重なっていた。
エドガーは待った。
獣が顔を上げる。
しばらく動かず、それから空き地へ踏み出した。
月明かりに出た背は灰色で、肩の辺りが厚く盛り上がっている。短い脚に、重い胴。朝、柵についていた毛とも色が合った。
灰猪だ。
草を鼻先で払いながら、ゆっくりと畑へ近づいてくる。
レオンが剣の柄へ手を添えた。
抜きはしない。
灰猪は空き地を少し進んだところで、横を向いた。何かの匂いを拾ったのか、鼻を地面へ押しつけ、前脚で土を掻く。
その後ろには、森の手前の土の斜面があった。
人影はない。
エドガーは銃床を肩へ収めた。
こちらへ走ってくるのを待つ必要はない。今なら身体も止まり、狙う場所も見えている。
呼吸を静かに吐いた。
引き金を引く。
短く空気を裂く音がした。
灰猪の身体が跳ね、前脚が崩れた。
重い胴が草の上へ倒れる。
後ろ脚が一度、土を蹴った。
エドガーは銃を下ろさなかった。
倒れた身体と、その向こうの森を見続ける。
枝は動かない。
しばらく待っても、別の獣が出てくる様子はなかった。
「……あの距離でも、当たるんですね」
レオンが小さく言った。
「動かずにいてくれたからな」
「形が変わっても、狙えるものなんですか」
「肩で支えられる分、持ちやすい。後は、急いで撃たんことだ」
銃そのものにも、十分な経験がある。
ただ、それは口にせず、弩にも通じる話を続けた。
「森から出てきた時には、まだ枝が重なってた。こっちに気づいていないなら、慌てることもない」
射撃を支えるスキルについても話さなかった。
どこで待つか。いつ撃つか。
それを覚えるまでに費やした年月は、実際にある。
「俺なら、近づかれる前にと思ったかもしれません」
「近づかせたくない時もある。今日は、待つ余裕があった」
それだけ言い、エドガーは耳を澄ませた。
畑は静かなままだった。
*
十分に待ってから、銃を消した。
代わりに弩を取り、矢をつがえる。
「確かめに行く。周りを見ていてくれ」
「はい」
戸を開け、空き地へ出た。
灰猪に近づく間も、レオンは少し離れた位置を歩いた。目の前の一頭にばかり気を取られず、森にも視線を向けている。
エドガーは途中で立ち止まった。
灰猪の腹は動いていない。
さらに近づき、死んでいることを確かめた。
肩の後ろに開いた傷は、月明かりの下では黒く見えた。あの山で撃った時のように、身体を大きく壊してはいない。
「もういい」
弩を下ろし、笛を吹いた。
ほどなく、家々の間に明かりが現れた。
トマスが、覆いをつけた灯りを持ってくる。その後ろには、昼間の若者の一人がいた。
「倒せましたか」
「ああ。灰猪だった」
トマスは灯りを低くして、獣の身体を照らした。
「こいつに入られていたら、柵も持たなかったでしょうね」
隣の若者が、畑を振り返った。
そこには、踏み荒らされていない畝が並んでいた。
「助かりました」
「まだ他にもいるかもしれん。朝までは見ておこう」
エドガーが言うと、トマスも頷いた。
「小さい足跡もありましたからね。普通の猪も来ているのかもしれません」
若者が死骸を見下ろした。
「これは、今から運びますか?」
「いや。運ぶのも処分も、明るくなってからにしよう。場所は決まってるんだろう?」
「ええ。畑から離れた所にあります」
トマスが答えた。
「朝になったら、人と荷車を出してもらいます」
「それがいい。暗い中で、こいつを持ち上げて腰を痛めてもつまらん」
若者が、持ってきた縄を巻き直した。
死骸を残せば、それに寄ってくる獣もいる。
見張りは続けることにして、トマスたちは家畜小屋へ戻っていった。
*
農具小屋へ戻ると、レオンが腰掛けへ座った。
灰猪の倒れている場所を見てから、エドガーへ顔を向ける。
「近づかなくて済むなら、その方がいいですね」
「ああ」
短く答えた。
剣を抜く間合いまで入れば、倒せても傷を負うことがある。
長く冒険者を続けるうちに、そういう仕事を幾つも見てきた。自分でも、痛い目に遭っている。
「お前は先に休め。交代の時間になったら起こす」
「分かりました。何かあったら、すぐに起こしてください」
「ああ」
レオンは壁へ背を預けた。
しばらくは目を開けていたが、やがて顎が少し下がった。寝息が聞こえ始めた頃、エドガーは自分のコートの裾を引き寄せた。
夜気が冷たい。
手元の弩を確かめ、戸口の外へ目を戻す。
月明かりの下に、畑が広がっていた。
今朝トマスと歩いた畦も、柵も、そのままだ。
明日になれば、村の者たちがまたここで働く。
エドガーは腰掛けに座り直し、森の縁を見守った。




