山を下りるまで
ヘルマは水を飲み終えると、岩へ背を預けた。
ティナが外套を丸め、母親の背と岩の間へ差し込む。何度もそうしていたのだろう。どこを支えれば痛まないか、手が迷わなかった。
「牙犬の最後の一頭を見つけたんだ」
ヘルマが話し始めた。
「もう死んでた。腹を食われて、木の下に引きずられてたよ」
「そこに岩牙獣が?」
「姿を見たのは、引き返そうとした後だね」
最初の一頭は、道を塞ぐように出てきたという。
ティナが盾を構え、ヘルマが矢を射た。正面からやり合うつもりはなく、距離を取りながら退こうとした。
「もう一頭が、横から来た」
ヘルマは吊った腕へ目を落とした。
「避けきれなくてね。脚をやられた。倒れた時に、腕も」
「私が、そっちを見ていれば」
ティナが言った。
ヘルマは娘を見た。
「お前が前を見てなかったら、最初の一頭に食われてたよ」
ティナは口を閉じた。
エドガーは二人の話が途切れるのを待ってから、尋ねた。
「ここまでは、歩いて来たのか」
「ほとんど、この子に運んでもらった」
岩場は、以前ヘルマが通った時から知っていた場所だった。
奥へ行けば隙間が狭くなる。大きな獣なら入り込めない。
そこを目指して退き、広い場所ではティナが盾で牽制した。獣が離れた隙に母親を動かし、また止まる。その繰り返しだったという。
「途中の印は?」
「私です」
ティナが答えた。
「道から外れたので……探しに来てもらっても、見つからないと思って」
「あれがあったから、こっちへ来られた」
エドガーが言うと、ティナは膝の上で手を握った。
「昨夜も、外にいたんです。静かになって、いなくなったかと思ったら、また爪の音がして」
声が小さくなる。
「母を置いて、確かめには行けませんでした」
「ああ。二人でここにいてくれてよかった」
エドガーは入口へ目を向けた。
外から、ベルトとセドリックの声が聞こえる。
今は、見張る者がいる。
「ここから先は、手を分けられる。まず、運べるようにしよう」
*
ニナが岩の隙間を通ってきた。
預かった傷薬と布包みを持っている。
ヘルマのそばへしゃがみ、ティナに、どこをどう手当てしたか尋ねた。
腿の傷は布で押さえられていた。大きく血が流れ続けている様子はないが、動かすと痛むという。腕は腫れ、力を入れられなかった。
「村で、きちんと診てもらいましょう。今は、運ぶ間に動かないようにします」
ニナが言った。
ティナが頷き、場所を空けた。
レオンは入口の方を見ている。
「担架、このままじゃ通りませんね」
「ああ。先に、ここから出す」
エドガーは自分たちが入ってきた隙間を確かめた。
横になった人を載せたままでは曲がれない。だが、一人で背負うには、ヘルマの腕も脚も心配だった。
外からセドリックを呼び、三人で通る順を決めた。
毛布で身体を支え、狭いところでは少しずつ持つ位置を変える。レオンが一人で持ち上げると言ったが、エドガーは首を振った。
「重さだけじゃない。岩に当てずに出したい」
「分かりました。じゃあ、足の方を見ます」
ヘルマへ、動かし方を説明する。
「痛かったら言ってくれ。途中でも止める」
「言わなくても、声は出そうだよ」
軽口に、ティナがようやく少し笑った。
*
外へ出すだけで、何度も手を止めた。
肩が岩へ近づけば身体の向きを変え、脚を動かす時はヘルマの顔を見る。
レオンは力を使うより、支えた位置を変えずに待つことへ気を配っていた。
最後の狭いところを抜けると、ベルトが敷いた布の上へ、ようやくヘルマを下ろせた。
ヘルマは目を閉じ、長く息を吐いた。
ティナがその隣へ膝をついた。
エドガーは立ち上がり、周囲を見た。
岩牙獣は、倒れた場所に残っている。
レオンの短剣は回収され、刃についた血も拭われていた。ベルトが見張る間に、セドリックが済ませてくれたという。
セドリックが、岩場の入口へ目を向けた。
「この隙間で、二頭をしのいでいたんですね」
「ああ。ティナが母親を連れ込んだそうだ」
「よく、ここまで……」
セドリックはそこで言葉を切り、森へ視線を戻した。
エドガーも、ヘルマのそばに膝をつくティナを見た。
今は、二人を無事に山から下ろさなければならなかった。
死骸の処分も残っている。
本来なら、討伐の証明に必要な部位を取り、残りを処分する。
だが、今から薪を集め、燃え尽きるまで見届けていては、怪我人をここに留める時間が長くなる。
自分だけ残ることも考えた。
すぐにやめた。
下りで人手が要る。
「死骸は後だ。場所を知らせて、処理の人数を出してもらおう」
ベルトが頷いた。
「今は、二人を村へ戻そう」
*
担架を運ぶ道は、来た道より少し遠回りになった。
岩と岩の狭いところを避けるためだ。
セドリックが先を確かめ、通れる幅を見つけては戻ってくる。エドガーはその間、来た方と斜面の上を見ていた。
ベルトとレオンが担架を持つ。
ニナはヘルマの様子を見ながら脇を歩き、ティナは荷物を持って続いた。
「ティナ。その盾、こっちへ寄越せ」
エドガーが言うと、彼女は首を振った。
「持てます」
「足元を見て歩いてくれ。手も空けといた方がいい」
ティナは少し迷ってから、盾を渡した。
昨夜から、ほとんど眠れていないはずだった。
平らなところでは普通に歩けても、段差で足が遅れる。本人が思うほど、身体は動いていない。
途中で一度、担架を下ろした。
レオンはまだ平気そうだったが、ベルトの息が上がっている。ヘルマも眉を寄せ、目を閉じていた。
「少し休む」
エドガーが言った。
レオンは頷き、担架から手を離した。すぐに水袋を出し、ベルトへ差し出す。
ヘルマのそばでは、ニナが布のずれを確かめていた。
遠くから、村の鐘がかすかに聞こえた。
まだ、あそこまで戻らなければならない。
*
元の道へ出る頃には、木々の影が長くなっていた。
セドリックが先に村へ下り、手を借りられる者を呼んでくることになった。
残った四人で見張りと運搬を分け、無理のない速さで下る。
道が広くなってからは、エドガーも担架を持った。
ヘルマの重さが、腕へかかった。
運ぶたびに揺れる。石を避けようとして歩幅がずれるだけで、布の上の顔が強張った。
「一度止めるぞ」
声をかける。
レオンが足を止めた。
「すまん。足場を変える」
「はい」
返事を待ち、踏む場所を決め直した。
急げば、その分だけ痛ませる。
それで早く着いたとしても、途中で傷を悪くしては意味がなかった。
村人たちと合流した時には、エドガーの指にも力が入りにくくなっていた。
担ぐ者が増え、道も歩きやすくなる。
前に見える家の屋根が、少しずつ大きくなった。
*
村へ着くと、ヘルマは用意された寝床へ運ばれた。
手当てをするという年配の男が入り、ニナとティナから話を聞く。
エドガーたちは、邪魔にならないよう外へ出た。
軒先に置いた荷車が目に入った。
街へ戻るには、さらに時間がかかる。今から出れば、途中で日が落ちるだろう。
「今夜は泊まろう」
エドガーが言うと、ベルトも頷いた。
「ああ。運ぶのは明るくなってからだな」
死骸については、村の世話役に場所を伝えた。
岩牙獣が二頭。牙犬も一頭、未処理のものがある。ほかに魔物が残っていないかも確かめる必要があった。
村人だけでは向かわせず、ギルドへ報告してから人数を揃えることになった。
話を終えると、急に腹が減っていることに気づいた。
昼に少し食べたきりだった。
レオンも同じらしい。差し出されたパンを受け取り、礼を言っている。
二人で軒先の腰掛けへ座った。
しばらく、黙って食べた。
*
ティナが出てきたのは、空が暗くなり始めた頃だった。
「母、眠りました」
声に、ようやく張りが戻っていた。
脚の傷は改めて手当てを受けた。腕は添え木をして、翌日、街の医師に診てもらう。
すぐ歩けるような状態ではないが、今夜は休ませていいと言われたらしい。
「ティナも食え。用意してくれてる」
「はい。その前に……」
彼女は、エドガーとレオンへ頭を下げた。
「ありがとうございました」
エドガーは膝に置いた手を動かした。
「印を残したのは、いい判断だった。こっちも助かった」
「途中から、ちゃんと残せなくて」
「全部なくても辿れた。十分だ」
ティナは顔を上げた。
何か言おうとして、結局、小さく頷いた。
「母が起きたら、伝えます」
「自分で言ってもいいぞ」
「……そうします」
家の中へ戻る足取りは、山で見た時より軽かった。
*
レオンが、空になった器を脇へ置いた。
エドガーはその手を見た。
擦り傷が少しある。二頭目を避けた時、地面についたところだろう。
「手は平気か」
「はい。洗ってもらいました。これくらいです」
レオンが掌を見せた。
エドガーは頷き、少し声を落とした。
「あの武器のことだが……帰ってからでいいか」
レオンは掌を下ろした。
「はい。急がなくて大丈夫ですよ」
それから、家の中へ目を向けた。
「二人とも、無事に戻れてよかったですね」
「……ああ」
エドガーも、そちらを見た。
中からは、ティナが村人に礼を言う声が聞こえていた。
レオンは、武器の話を続けようとはしなかった。
エドガーも、そのまま黙っていた。
今日は、何度も悪い方の想像をした。
見つからないかもしれない。
見つかっても、助からないかもしれない。
レオンへ爪が届くと思った瞬間には、考えるより先に武器を出していた。
その結果、隠してきたものを一つ、知られた。
だが、隣に座るレオンの様子は変わらなかった。話を急かすこともなく、二人が助かったことを喜んでいる。
エドガーは、膝に置いた手を緩めた。
「明日は、また運ぶぞ」
「はい。今日は、早めに寝ます」
レオンが立ち上がり、二人分の器を持った。
エドガーも腰を上げた。
帰ったら、何から話そうか。
そう考えながら、レオンの後に続いて家へ入った。




