咄嗟の一撃
レオンが木から離れた。
直後、獣の前脚が地面を叩く。土と落ち葉が弾け、爪が剥き出しの根に食い込んだ。
レオンの剣が閃く。
前脚の外側に赤い筋が走った。
浅い。
獣が唸り、脚を引く。レオンは追わず、剣を身体の前へ戻した。
エドガーは弩の弦を引きながら、二人の間に立つ木を見た。
レオンが近くにいる限り、獣の意識はそちらへ向く。
だが、動き回られれば狙いを定められない。
「レオン、止まるな。少しずつ下がれ!」
「はい!」
返事と同時に、レオンが退く。
獣が跳ねた。
振り下ろされた前脚を、レオンが紙一重でかわす。大きく飛び退かず、爪の届かない位置で踏みとどまった。
獣が間髪入れずに追う。
木の陰から肩がせり出した。
エドガーは矢を載せ、弩を持ち上げる。
「射るぞ!」
レオンは走りながら頷いた。
獣の前脚が地面を踏み込んだ瞬間、エドガーは引き金を引いた。
矢が肩の後ろへ突き刺さる。
獣の身体が大きく捻れた。
その隙を逃さず、レオンが横から踏み込む。
剣が後ろ脚を断った。
深い。
脚が崩れ、獣の腰が落ちる。
だが、前脚は止まらない。
「離れろ!」
叫ぶより早く、レオンが身を引いた。
爪が目の前を薙いだ。
獣はなおも起き上がろうとする。傷ついた後ろ脚が力を失い、身体が大きく傾いた。
レオンが回り込む。
前脚の届く側を避け、獣の頭の後ろへ滑り込んだ。
獣が振り向く。
レオンの短剣が、顎の下へ突き上がった。
太い首が跳ねる。
レオンは柄を手放し、即座に後退した。右手の剣は構えたままだ。
獣が一歩、二歩とよろめく。
喉から濁った音が漏れ、前脚が折れた。
巨体が地面へ叩きつけられる。
*
まだ死んでいない。
前脚が土を掻き、尾が落ち葉を激しく払う。
エドガーは弩を下げずに睨み、レオンも剣を構えたまま距離を保った。
やがて、動きが鈍る。
獣の脇腹の上下が止まった。
「そのまま待て」
エドガーは言いながら、岩の上へ視線を走らせた。
最初に獣がいた場所には何もない。
だが、その隣にもう一段低い岩がある。張り出した枝と重なり、奥は暗く沈んでいた。
小石が落ちた。
エドガーの視線が跳ねる。
岩陰から、灰褐色の前脚が突き出した。
もう一頭。
そう認識した瞬間、獣が飛び出した。
狙いは、レオン。
レオンも気づいた。
顔を上げ、剣を返す。後ろへ下がろうとした足が地面を蹴った。
だが、獣はもう目の前まで迫っている。
間に合わない。
木の幹が裂けた光景が、エドガーの脳裏をよぎった。
「伏せろ!」
叫ぶと同時に、弩を投げ捨てる。
吊り紐が肩へ食い込んだ。
空いた手に、黒い銃が現れる。
短い銃身が、宙を飛ぶ獣を捉えた。
レオンはその下にいる。射線は外れている。
エドガーは迷わず引き金を引いた。
轟音が森を叩き割った。
獣の肩口が弾け、身体が空中で大きく捻れる。
だが、突進の勢いまでは消えない。
レオンが横へ飛んだ。
次の瞬間、獣がそのすぐ脇へ落ちた。土を抉り、落ち葉を巻き上げながら滑り、岩へ激突する。
枝の折れる音が、遅れて森に響いた。
*
エドガーは銃を向けたまま、二頭目を睨み続けた。
動かない。
それでも銃口は下げなかった。
頭を上げ、岩の上を確認する。枝の向こう、木の根元、来た道。
次に動くものはない。
「レオン」
呼びかけた声が、自分でも驚くほど低かった。
「怪我は」
「……ありません」
レオンは片膝をついていた。
右手には剣。左手を地面から離し、ゆっくり立ち上がる。
エドガーは顔から足元まで、素早く目を走らせた。
服に土がついている。
血はない。
「爪は?」
「当たってません。大丈夫です」
返事を聞いても、息はすぐには戻らなかった。
レオンは避けようとしていた。
強化した身体なら、十分に間に合ったのかもしれない。爪が触れても、傷を負わずに済んだ可能性はある。
だが、エドガーにはその限度が分からない。
あの前脚がレオンへ届く瞬間だけが、焼きついていた。
だから、手が動いた。
岩に倒れた獣へ目を戻す。
肩から胸にかけて、大きく吹き飛んでいた。
魔力を込めすぎた。
そう思った。
だが、撃った瞬間に加減を考える余裕などなかった。
*
「……銃?」
レオンの声が落ちた。
視線は、エドガーの手の中に残る黒い武器へ向いている。
驚いてはいる。
だが、恐れてはいなかった。
エドガーは短く息を吐いた。
「それより、岩の上を見ていてくれ。まだいるかもしれん」
「……はい」
レオンは顔を上げ、剣を構え直した。
聞きたいことがあるのは分かる。それでも今は、周囲の警戒を優先した。
エドガーは銃口を下げ、武器を消す。
空いた手を握り、肩の紐を引いて弩を戻した。
岩場の奥からは、まだ二人の姿が見えない。岩が重なり、その先は折れ曲がっている。
向こうからも、こちらの手元までは見えないはずだった。
「ティナ! 聞こえるか!」
呼びかけると、すぐに返事が返った。
「はい!」
「こっちは二人とも無事だ! 岩牙獣を二頭倒した! ほかに見たか!」
「分かりません! 私たちが見たのも二頭です!」
二頭。
追ってきたのも、この二頭なのだろう。
それでも、周囲の安全を確認するまでは気を抜けない。
「そこから出るな! 今、周りを確かめる!」
返事を待たず、エドガーは笛を吹いた。
短く、二度。
音が木々の間を走り抜けた。
*
レオンに岩の上を見張らせ、エドガーは倒れた獣を確認した。
二頭とも、息はなかった。
一頭目の喉に刺さった短剣は、そのままにしておく。回収より先に、周囲を確かめる必要がある。
岩の裏へ続く地面には、獣の足跡が幾重にも重なっていた。
だが、潜んでいる影はない。
しばらくして、来た方角から返しの笛が聞こえた。
ベルトたちだ。
エドガーはもう一度短く吹き、位置を知らせた。
「エドガーさん」
レオンが呼んだ。
振り返ると、青年は岩場を見たまま言った。
「助かりました」
「ああ」
それ以上の言葉は、すぐには出なかった。
見られた。
長く隠してきたものを。
だが、銃を出さなければよかったとは思わない。
「さっきのことは、後で話す」
「はい」
レオンはそれだけ答えた。
*
ベルトたちが姿を見せた時、エドガーは岩場の入口に立っていた。
倒れた二頭を見て、ベルトの足が止まる。
「こいつらがいたのか」
「ああ。二人は奥だ。まだ姿は見ていない」
「怪我は」
「こっちはない」
ベルトは頷き、槍を構えた。
セドリックが岩の上へ目を向ける。ニナも足を止め、周囲を見回した。
「ここを頼む。俺たちは中へ入る」
「分かった」
エドガーはレオンへ目を向けた。
「一緒に来てくれ」
「はい」
岩の隙間は、肩を少し斜めにすれば通れた。
中は思ったより深い。
折れ曲がった先に、盾の縁が見えた。
「ティナ。エドガーだ。入るぞ」
盾が、ゆっくり下がった。
ティナが岩に背をつけて座っていた。
髪は乱れ、頬には乾いた泥がついている。剣を握った右手は下ろさず、こちらの顔を確かめてから、ようやく刃先を地面へ向けた。
「……本当に、来てくれたんですね」
掠れた声だった。
「ああ。ヘルマは?」
ティナが身体を脇へずらす。
奥に、母親が横たわっていた。
外套を下に敷き、脚を伸ばしている。片方の腿には布が巻かれ、腕は胸の前で吊られていた。
顔色は悪い。
それでも、目は開いていた。
「遅かったじゃないか」
ヘルマが言った。
声は弱い。
それでも、いつもの言い方だった。
「道に迷わず来られただけ、褒めてくれ」
「……印、見えた?」
「ああ。あれで辿れた」
ティナの肩が落ちた。
盾を支えていた腕が震え、その縁が石へ当たる。
レオンがしゃがみ、盾を受け取った。
「外は仲間が見てます。少し、手を休めてください」
ティナは頷いた。
指がなかなか離れず、一本ずつ開いていく。
エドガーはヘルマのそばへ膝をついた。
「動かす前に、何があったか聞かせてくれ。痛むところもだ」
「分かった。……水を、少しもらえるかい」
水袋を取り出し、身体を起こせるか確かめる。
ヘルマは支えられながら、少しずつ口を湿らせた。
その様子を見ていたティナが、顔を伏せた。
泣き声はしなかった。
ただ、剣を置いた手で目元を押さえ、そのまましばらく動かなかった。
エドガーは何も言わず、水袋の栓を閉めた。
見つかった。
二人とも、生きていた。
今度は、ここから連れ帰る番だった。




