残された印
藪へ入る前に、エドガーは来た道を振り返った。
木に残した印は見える。後から来るベルトたちも、ここで道を外れたことは分かるだろう。
「俺が跡を見る。周りを頼む」
「はい」
レオンが剣を抜いた。
枝を払うためではない。すぐに構えられるよう、刃先を下げて持っている。
エドガーは弩を片手に、倒れた草へ目を向けた。
草の下には靴跡があった。湿ったところでは輪郭が残っているが、乾いた落ち葉の上へ続くと見失う。
そこで足を止め、少し先を見る。
低い枝の皮が擦れていた。その向こうにも、落ち葉の裏が見える場所がある。
急いで進めば、自分たちの足で消してしまう。
エドガーは跡の脇へ足を置いた。
*
藪を抜けると、木々の間が少し広くなった。
地面には石が増え、土の見える場所が少なくなっている。苔のついた岩の脇に、短い矢が落ちていた。
エドガーは手を上げた。
レオンが足を止める。
矢は途中で折れていた。矢羽根のついた側だけで、先端は見当たらない。
しゃがまず、まず周囲を確かめた。
木の陰にも、岩の向こうにも、動くものはない。
それから腰を落とし、矢に触れずに見た。
「ヘルマさんのですか」
レオンが小声で尋ねた。
「同じような矢羽根だった。ただ、これだけじゃ決められん」
矢の少し先で、地面が大きく掻き乱されていた。
落ち葉が脇へ押し寄せ、土が露出している。靴跡に重なって、獣の足跡があった。
エドガーは眉を寄せた。
牙犬にしては、大きい。
自分の掌ほどもある跡が、岩の際へ続いていた。
「何か、いますね」
「ああ。依頼の話より大きいやつだ」
レオンが剣の柄を握り直した。
エドガーは立ち上がり、倒れた細木を見た。
幹が途中から裂けている。折れ口はまだ白く、周りには葉のついた枝が散っていた。
その下に、血が落ちていた。
乾いて黒くなった染みが、石の縁にもついている。
人のものか、獣のものかは分からない。
「この辺りで戦ってる」
エドガーは声を落とした。
「先へ行く前に、後ろへ知らせるぞ」
*
道を外れたところまで戻り、後続を待った。
レオンは何も言わなかったが、藪の奥へ何度か目を向けた。
エドガーも、早く進みたかった。
だが、牙犬を探して入った者が、大きな獣と出会っているかもしれない。そのことを知らせず、同じ場所へ後続を入れるわけにはいかなかった。
ほどなく、道の下から人の声がした。
ベルトを先頭に、セドリックとニナが上がってくる。村の男二人も、長い棒と畳んだ布を運んでいた。
エドガーは彼らを道に留め、見つけたものを伝えた。
「村の人は、ここから先へ入れない方がいい」
「分かった」
ベルトが藪へ目を向けた。
「俺たちも一緒に行くか」
「まず二人で、跡の続きだけ確かめる。大勢で踏むと分からなくなる。戦った場所まで印をつけておくから、少し間を空けて来てくれ」
「そっから先は?」
「道が分かれたり、跡が途切れたりしたら待つ。獣が残ってるなら、呼ぶ」
ベルトは頷き、村人たちへ向き直った。
「すまんが、一度村へ戻ってくれ。運び出す道が決まったら、こちらから知らせる」
男たちは担架の材料を下ろした。
一人が何か言いかけたが、藪へ視線を移し、口を閉じた。
「頼むよ」
「ああ」
エドガーは短く答えた。
*
戦った跡から先には、靴で地面を擦ったような筋があった。
何歩か進むと途切れ、また土の柔らかいところで見つかる。
脇には、もう一人分と思われる靴跡が続いていた。
「片方が、支えてるんでしょうか」
レオンが尋ねる。
「そうかもしれん」
エドガーは少し先の木を指した。
幹の低いところに、血のついた手の跡があった。
ここで身体を支えたのだろう。
そのすぐ脇には、刃物で削った小さな傷も残されている。
最初に見つけたものと似ていた。
誰かが怪我をしている。
それでも、後から探しに来る者のために、印を残している。
エドガーは木へ近づきすぎず、その先を見た。
「よく残してるな」
独り言に、レオンが頷いた。
「見つけてほしかったんですね」
「ああ」
まだ動けるうちに、探してもらう準備をしていた。
その判断が、今は二人の行き先をつないでいる。
エドガーは後続にも分かるよう、道を曲がる場所へ布の切れ端を結んだ。
*
跡は、低い岩場へ続いていた。
斜面に岩がいくつも張り出し、その間に木が生えている。人が通れる隙間はあるが、担架をそのまま運ぶには狭そうだった。
エドガーは足を止めた。
戻すなら、ここを通れるか。
別の道がないかと周囲を見てから、近くの岩へ目を戻した。
角に、布の糸が引っかかっている。
その下にも、小さな血の染みがあった。
「奥へ入ってますね」
「ああ。ただ、追い詰められたのか、自分で選んだのかは分からん」
レオンが岩の間を見た。
「大きなやつなら、入りにくそうです」
「そのつもりで入ったのかもしれないな」
ここなら、正面から近づける幅は限られる。
盾を構えて守るにも、開けたところよりはいい。
ただし、逃げ道があるかどうかは、外からでは分からなかった。
エドガーは耳を澄ませた。
葉の擦れる音。
遠くで鳴く鳥。
その間に、小さく硬い音がした。
石を打ったような音だった。
エドガーとレオンが、同時に顔を上げた。
もう一度、鳴った。
岩場の奥だ。
「……聞こえました?」
「ああ」
エドガーは弩を構えたまま、声をかけた。
「ヘルマ! ティナ! ギルドから来た!」
返事はすぐにはなかった。
レオンが一歩動きかけ、止まった。
エドガーも待った。
やがて、岩の奥から声がした。
「来ないで!」
女の声だった。
続いて何か叫んだが、風に葉が鳴り、言葉の一部が聞き取れなかった。
最後の言葉だけが届いた。
「……上!」
エドガーは顔を上げた。
岩の縁に、灰褐色の頭があった。
*
最初は、岩の一部に見えた。
丸みのある耳が動き、そこで初めて輪郭が分かった。
大きな猫に似た顔だった。
口の脇から、太い牙の先が覗いている。頭を低くした姿勢のまま、前脚が一つ、岩の縁へ出た。
脚が太い。
胴よりも肩の厚みが目についた。毛の下で筋肉が盛り上がり、指の先には黒い爪が見えた。
尾が、背後でゆっくり動いた。
岩牙獣。
以前見た死骸よりも、一回り大きかった。
ここから岩の上まで、十数歩ほどしかない。
「レオン。前へ出るな」
エドガーは弩を肩へ当てた。
獣の目が、こちらを向いた。
レオンが短剣を抜く音がする。
岩場の奥には、助けを待つ二人がいる。
こちらが引いても、獣がついてくるとは限らなかった。かといって、このまま下を通ることもできない。
エドガーは足元を確かめた。
すぐ脇に木が一本ある。後ろは、来た道まで下がれる。
「木を挟め。正面では受けるな」
「はい」
レオンが横へ動いた。
獣の頭が、その動きを追う。
エドガーは狙いを合わせた。
撃つより先に、岩を爪が擦る音がした。
灰褐色の身体が、縁から消えた。
「来るぞ!」
レオンが木の陰へ身をかわす。
直後、重い音が響いた。
獣の前脚が幹を打ち、樹皮が大きく剥がれた。木が揺れ、裂けた部分から白い木片が飛ぶ。
レオンは止まらず、幹の向こうを回って距離を取った。
獣が着地し、そちらへ向き直る。
その脇腹へ、エドガーは矢を放った。
弦が鳴る。
矢は刺さった。
だが、獣は倒れなかった。
低い唸り声を上げ、肩を沈める。
エドガーは弩を下げ、次の矢を用意した。
幹に残った傷が、視界の端にあった。
あれを、人の身体で受けさせるわけにはいかなかった。




