眠れない夜
レオンが二階へ上がってからも、エドガーは卓の前に座っていた。
片づけは済んでいる。鍋も洗い、戸締まりも確かめた。あとは灯りを消して寝るだけだった。
それができずにいた。
窓際から持ってきた折り鶴を、指先で少し動かす。
翼の端に薄い油染みがある。折り重なったところは厚く、左右の形も揃っていない。
子供の頃なら、わざわざ手に取って見ることもなかっただろう。
今は、その小さな紙細工から目が離せなかった。
レオンも、向こうから来た。
声には出さなかった。
これまでの言動を一つずつ思い返しても、もう別の説明を探す気にはなれなかった。
同じ国で暮らし、同じようなものを見て育った人間が、あの階段を上がった先にいる。
そう思うと、立ち上がりたくなった。
部屋の戸を叩いて、たった一言尋ねればいい。
日本を知っているか。
その問いに返ってくる顔を、見てみたかった。
エドガーは椅子の背へ身体を預けた。
聞けば、自分も答えなければならない。
どうしてその名を知っているのか。いつ気づいたのか。今まで何を隠していたのか。
レオンが相手なら、話を聞いてくれるだろうとは思う。
思うからこそ、何をどこまで話してしまうか、自分でも分からなかった。
*
息子は、四歳だった。
抱き上げると、以前より重くなったと思った。もう自分で歩けるのに、疲れると両腕を伸ばしてきた。
抱いた時の、服越しの体温。
首に回された腕。
話しかけてくる声は思い出せる気がするのに、何を言っていたのかは、うまく掴めない。
エドガーは両手を見下ろした。
今の手で抱いたことはない。
剣や弩を握り、傷を作ってきたこの手は、あの子の頭を撫でた手とは違う。
そのことに、今さら戸惑った。
妻は、どうしただろう。
自分がいなくなった後、誰が知らせを届けたのか。息子に、何と説明したのか。
生活は続けられただろうか。
金のことも、仕事のことも、子供のことも。それまで二人で考えていたことを、一人で決めなければならなくなったはずだ。
誰か、そばにいてくれただろうか。
自分の親でも、妻の親でも、友人でもいい。困った時に頼れる相手がいてほしかった。
息子が熱を出した夜に、妻まで倒れてしまわなかっただろうか。
学校へ上がる時、あの子はどんな顔をしたのだろう。
そこまで考えて、エドガーは目を閉じた。
向こうでも同じだけ年月が過ぎているなら、息子はもう大人だ。自分の記憶にある父親の年齢を、追い越しているかもしれない。
だが、同じように時が流れているという根拠はなかった。
レオンがいつの日本を知っているのかも、聞いていない。
四歳のまま思い出すしかない息子に、今の姿がある。
当然のことだった。
その当然の姿を、自分だけが知らない。
「……会いたいな」
誰にも聞こえないほど、小さな声だった。
口にすると、胸の奥が痛んだ。
無事だと分かるだけでもよかった。
暮らしているところを、遠くから一度見られるだけでも。
そう思った直後に、それだけでは済まないと分かった。
顔を見れば、声を聞きたくなる。
声を聞けば、自分のことを伝えたくなる。
帰れるものなら、帰りたかった。
*
どうすれば帰れる。
考えたことがないわけではない。
幼い頃は、眠って起きたら元に戻っているのではないかと思った。夢なら、いずれ覚めるはずだと。
だが、朝になるたびに同じ天井があり、この世界の母親が顔を覗き込んだ。
言葉を覚え、歩き、背が伸びた。
腹が減れば食べ、病気をすれば寝込んだ。前の暮らしを思い出している間にも、この身体は育っていった。
魔法のある世界なら、何か方法があるかもしれない。
そう考えたこともあった。
けれど、何を探せばいいのか分からなかった。遠くへ移動することと、別の世界へ行くことが同じなのかさえ知らない。
そもそも、自分はどうやって来た。
前の人生の最後を辿ろうとすると、記憶がまとまらなくなる。
覚えている日常の一場面が、最後の日のものなのか。それより前の記憶なのか。三十五年が過ぎた今では、自信を持って切り分けられなかった。
死んだのだと考えてきた。
そうでなければ、別の親から生まれ、別の身体で育ったことを説明できなかった。
だが、その瞬間を確かめることはできない。
もし戻れたとして、どうなる。
向こうの自分の身体に戻るのか。
それとも、エドガーのままなのか。
この顔で家を訪ねたところで、妻には見知らぬ男だ。家族しか知らないことを話せば、信じてもらえるのだろうか。
信じてもらったとして。
そこまで考えて、先へ進めなくなった。
妻にも息子にも、自分の知らない年月があるかもしれない。
その生活へ、突然帰っていいのかどうかすら分からなかった。
会いたいという気持ちだけは、少しも弱まらなかった。
*
灯りの芯が小さくなっていた。
エドガーは手を伸ばし、少しだけ整えた。
卓の向こうには、レオンの椅子がある。壁際には、今日仕上げた棚板が立てかけてあった。
この家を買った時には、こんなふうになるとは思っていなかった。
一人で飯を食い、一人で眠る。仕事から戻れば道具を片づけ、気が向いた時に知り合いと飲む。
それで不自由はなかった。
武器を見られる心配もない。留守にする時、誰かに予定を伝える必要もない。
一人の方が楽だと、何度も思った。
それは嘘ではなかった。
ただ、それだけでもなかったのだろう。
同じ家に誰かがいて、明日のことを話す。
食事の支度をしていると、横から手が伸びてくる。
出かけた相手が戻る頃になると、戸口の音に耳が向く。
そういう暮らしを、一度失っていた。
また欲しいと思うことを、避けていたのかもしれない。
エドガーは折り鶴を見た。
レオンを誘った日のことを思い返す。
一緒に住むか。
口にした時、自分でも少し驚いた。
部屋が余っているから。宿代がもったいないから。理由なら、いくつか挙げられた。
だが、誘わなくても困らなかった。
それでも言ったのは、レオンが帰った後の家を、また静かだと思うのが嫌だったからではないか。
そこまで考えると、ようやく、あの時の自分が少し分かった気がした。
*
二階で床が鳴った。
エドガーは顔を上げた。
足音が階段へ向かい、ほどなくレオンが下りてくる。水差しを片手に持っていた。
「まだ起きてたんですね」
「ああ。少し考え事をしてた」
レオンは台所へ向かい、水を汲んだ。
「灯り、もう少し要りますか」
「いや。じきに寝る」
「分かりました」
それだけ言って、戻ろうとする。
「レオン」
呼び止めてから、エドガーはわずかに迷った。
青年が振り返る。
「はい」
「明日、昼は戻るのか」
「戻るつもりです。ブルーノさんのところで長くなりそうなら、出る前に言います」
「ああ」
レオンは卓の上の折り鶴に目を留めた。
「それ、気に入りました?」
「よくできてると思ってな」
「次は、もう少しきれいに作りますよ」
エドガーは紙の鳥へ視線を落とした。
「これは、置いといていいか」
「いいですよ」
返事はあっさりしていた。
「おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
足音が階段を上がっていった。
エドガーは、その音が止むまで聞いていた。
息子も大きくなれば、こんなふうに父親と言葉を交わしたのだろうか。
顔も、声も似ていない。
それでも、今の短いやり取りに、自分が知らないままになった息子との時間を、ほんの少し重ねてしまった。
レオンには、レオンの親がいる。
帰れば迎えてくれる家があり、これから行きたい場所も、やりたいこともある。
その話を聞けるのは、嬉しかった。
知らないままで終わることばかりではない。
この青年が明日何をするのかは、聞けば答えが返ってくる。作った棚を見せてもらうことも、一緒に仕事へ行くこともできる。
エドガーは、息をゆっくり吐いた。
*
この世界での三十五年も、確かに自分の暮らしだった。
親の手伝いで荷を運び、弟と喧嘩をした。冒険者になってからは、うまくいった仕事も、思い出したくない失敗もある。
帰郷するたびに大きくなる姪を見るのは、楽しみだった。
フェルデンには、顔を合わせれば声をかけてくる者がいる。トマスの帰った故郷にも、いずれまた訪ねたい。
前の世界を覚えているからといって、それらを仮のものだと思うことはできなかった。
ここで暮らす人間に教わり、助けられながら生きてきた。
自分だけが世界の外にいるような顔をして、何もかも変えようとは思わなかった。
不便なものは、不便だった。食事にも衛生にも、今でも文句はある。変えられる範囲では、変えてきた。
それでも、自分が知っていることだけで、この世界の人間より何でもうまくやれるとは思わない。
レオンがブルーノから教わる姿を見ていると、そのことがよく分かる。
ここで働き、知り合いを増やし、帰る家を持つ。
そうやって生きてきたことを、後悔してはいなかった。
ただ、向こうの家族にも会いたい。
どちらかを思えば、もう片方を忘れられるわけではなかった。
今夜は、それをどうにかしようとするのをやめた。
答えの出ない問いを、無理に片づける必要はない。
レオンのことも、今までどおりにする。
故郷の話を聞き出すために、言葉を仕掛けるのはもうやめようと思った。何気なく口にした思い出まで、探られていると感じさせたくなかった。
自分にも、話さずにおきたいことがある。
あの青年にも、同じようにあっていい。
エドガーは立ち上がり、折り鶴を窓際へ戻しかけた。
夜露で湿るかもしれないと思い、戸棚の上へ置き直す。
翼が壁に当たらないよう、少しだけ向きを変えた。
それから灯りを消し、階段を上がった。
眠れるかどうかは、まだ分からなかった。
明日の昼には、二人分の飯を作ろうと思った。




