紙の鳥
翌朝、レオンは朝食を済ませると、棚の寸法を書いた紙を持って出かけていった。
エドガーは家に残り、昨日使った装備を片づけた。
弩の手入れは昨夜のうちに終えている。今日は背負い袋から残った食料を出し、底に入り込んだ枯れ葉や土を払った。
二人で暮らすようになっても、休みの日まで同じことをする必要はない。
レオンが工房へ行く日は、自分の用事を済ませる。昼に戻ると言えば、その分も食事を用意する。帰りが分からない時は、それぞれで食べる。
決め事らしい決め事もないまま、そうなっていた。
昼前、買い物から戻ると、レオンが台所の壁を眺めていた。
卓の上には板が二枚と、短い角材が並んでいる。
「もう帰ってたのか」
「少し前です。今日は板を選んで、切るところまで教わりました」
エドガーは買ってきた物を、板のない方へ置いた。
「取り付けは?」
「まだです。先にこっちを仕上げてから、ブルーノさんに見てもらいます。壁に留めるところは、一緒にやってもらうことになりました」
「そうか」
「落ちたら、器も割れますから」
そう言いながら、レオンは板を重ねた。
作りかけの物を持ち帰るたびに、すぐ使いたそうな顔をしている。それでも、勝手に先へ進めなくなったのは、何度か職人に教わったためだろう。
エドガーが布包みを開くと、レオンが覗き込んだ。
「それ、何ですか」
「玉葱とチーズを詰めて焼いたやつだ。パン屋で売ってた」
「いい匂いがしますね」
「まだ温かい。先に食うぞ」
板を壁際へ寄せると、卓が空いた。
*
午後は、裏庭で板の角を削った。
エドガーが布を敷いた台の上で板を押さえ、レオンが小さな刃物を動かす。薄い木屑が、足元へ落ちていった。
「そんなに丸くするのか」
「ここ、手が当たりそうなので」
「物が落ちなきゃいい」
「そこまでは削りませんよ」
レオンは一度手を止め、指先で角を確かめた。
それから削った面をエドガーへ向ける。
「どうですか」
「引っかからなくなったな」
「こっちは、もう少しですね」
使えるようになれば、それでいいと思っていた。
だが、手を滑らせてみれば違いは分かる。指に当たる硬い角がなくなるだけで、毎日使う時の具合も変わるのだろう。
椅子を作った時も、レオンはこうした細かいところを何度も直していた。
面倒なことを楽しめるのは、得なのかもしれない。
片方の板が済む頃、塀の向こうから近所の女が顔を出した。手をつないだ幼い子供が、母親の脇からこちらを覗いている。
「音がすると思ったら、棚?」
「ああ。台所の」
「便利になるねえ」
女がエドガーと話している間、子供は足元に散った木屑を見ていた。
レオンが長く丸まったものを拾って見せる。
「触ってみる?」
子供は母親を見上げ、頷いてもらってから手を伸ばした。
木屑を指に巻きつけ、ほどいて、また巻く。
「切れるから、強く引っ張っちゃ駄目だよ」
レオンが言うと、子供は両手でそっと持ち直した。
帰り際まで、それを離さなかった。
*
日が傾く前に、作業は終わった。
仕上げた板を家へ運び込み、道具を片づける。レオンが木屑を集めている間に、エドガーは湯を沸かした。
卓には、昼に買った焼き物を包んでいた薄い紙が残っていた。
パン屋では、油が染みないよう布の内側に一枚敷いていたものだ。端の方は汚れていなかったので、火をつける時にでも使おうと取っておいた。
戻ってきたレオンが、その紙を手に取った。
「これ、使っていいですか」
「何にだ」
「ちょっと、折ってみようかと」
「汚れてないところならな」
エドガーは二つの器へ湯を注いだ。
乾かした葉の匂いが立つ。
卓へ運ぶと、レオンは紙の端を折り合わせていた。余った部分に折り目をつけ、丁寧に裂いている。
「何を作るんだ」
「鳥です。さっきの子に見せたら、喜ぶかなと思って」
エドガーは自分の器を置いた。
紙が四角く整えられる。
レオンは角と角を重ね、指で折り目を押さえた。開いて向きを変え、また折る。
その手元を、何となく見ていた。
途中で、見覚えがあると思った。
四角く畳まれた紙の一枚を持ち上げ、内側へ指を入れる。細く尖るように開き直し、裏側も同じ形にする。
器へ伸ばしかけた手が止まった。
レオンは気づかず、紙の縁を中心へ寄せていた。
「久しぶりだと、途中で分からなくなりますね」
小さく笑い、一度折ったところを戻す。
その失敗にまで、見覚えがあった。
細い二本が上へ折り返される。
一方の先を曲げる。
最後に、両脇をゆっくり広げた。
紙の鳥が、レオンの指の間にいた。
折り鶴だった。
エドガーは息を吸った。
吸ってから、何を言うつもりだったのか分からなくなった。
卓の傷も、湯気も、向かいに座るレオンの顔も、さっきまでと変わっていない。それなのに、目の前にあるものだけが、この家から遠く離れた場所に属しているように見えた。
「……器用だな」
ようやく出た声は、普段とそう違わなかった。
「折り方を知っていれば、そんなに難しくないですよ。少し、頭が大きくなりましたけど」
レオンは曲げた先をつまみ、形を整えた。
「どこで覚えた」
聞く前に考えたわけではなかった。
レオンの指が止まる。
ほんの一瞬だった。
「小さい頃です。ずっと前なので、誰に教わったかは、ちょっと」
「子供の遊びか」
「そうですね。紙があれば作れますし」
エドガーは腰を下ろした。
膝に置いた手を、ゆっくり開く。
たかが紙の鳥だ。
似た物を作る者が、この世界にいないと決まったわけではない。自分が知らない土地も、習慣も、いくらでもある。
それでも、目が離れなかった。
「鳥なら、ほかにも折るのか」
「俺が覚えてるのは、これくらいです。昔はもう少し作れた気がするんですけど」
レオンが折り鶴を卓へ置いた。
片方の翼が下がっている。
「これ、病気が治るようにって、たくさん折ることもあるんです」
「……お守りみたいなものか」
「そんな感じです。作ったから治るわけじゃないですけど、よくなってほしいって」
胸の奥で、何かが強く脈打った。
エドガーは器を持ち上げた。
まだ熱かった。指に触れる熱さだけが、妙にはっきりしていた。
「お前の村じゃ、よくやるのか」
レオンが顔を上げる。
「いえ。村では、やってなかったです」
それまで滑らかだった返事に、少しだけ間があった。
エドガーは頷いた。
「家によっても、違うんだろうな」
「……そうですね」
それ以上は聞かなかった。
レオンは自分の器へ手を伸ばした。ひと口飲み、思ったより熱かったのか、そっと卓へ戻す。
いつもの仕草だった。
エドガーは、その顔を見ていた。
読めるはずのない文字を、読んだ。
この街では見たことのない道具を作り、その使い方を最初から知っていた。
それだけなら、別の土地で覚えたのだと思うこともできた。
だが、今、卓の上にいる鳥を、エドガーは知っている。
その形も。
病気の回復を願って、幾つも折るという話も。
「エドガーさん?」
呼ばれて、顔を上げた。
「疲れましたか」
「ああ。座ったら、少しな」
「板、ずっと押さえてもらいましたからね」
「それで疲れるほどじゃない」
返事をすると、レオンは笑った。
追及はされなかった。
*
夕食の支度を始める頃には、紙の鳥は窓際へ移されていた。
レオンが置いたのだ。
子供に渡すには紙があまりきれいではないから、今度、別の紙で作り直すと言っていた。
エドガーは野菜を切った。
包丁の先が、いつもよりゆっくり動く。
隣では、レオンが昼に残ったパンを切り分けている。
「明日、ブルーノさんに板を見てもらってきます」
「ああ」
「よかったら、そのまま取り付けの日も相談してきますね」
「頼む」
明日の話をしている。
この家の棚を、いつ取り付けるか。
エドガーは切った野菜を鍋へ入れた。
湯が跳ね、手の甲に当たった。熱さに指を引き、布で拭う。
「大丈夫ですか」
「少しかかっただけだ」
窓際の鳥が目に入った。
白くもなく、形も少し歪んでいる。
それでも、向こうで見たものと同じだった。
――日本。
頭の中で、その言葉を口にした。
長い間、誰にも言わずにいた国の名前だった。
懐かしい、だけでは済まなかった。
目の前の青年に、聞きたいことがあった。
どこに住んでいた。
いつまで、あそこにいた。
どうして、ここにいる。
お前も、帰れないのか。
「エドガーさん。塩は、まだですよね」
レオンの声がした。
エドガーは鍋を見た。
「ああ。まだだ」
塩の壺を渡す。
その手を、いつもと同じように動かすことに意識を向けた。
今、何かを聞けば、余計なことまで口から出そうだった。
レオンは匙で少しずつ塩を加え、味を確かめている。
エドガーは空いたまな板へ目を落とした。
そこに、全く別の台所が浮かんだ。
今より明るい照明。
蛇口から流れる水。
何かを尋ねて、こちらを振り向いた妻の顔。
足元へまとわりついてきた、小さな息子。
喉が詰まった。
もう一度見ようとすると、顔の細かなところが思い出せない。
それが、たまらなかった。
「味、見てもらえますか」
差し出された匙を受け取る。
エドガーは少し口に含み、飲み込んだ。
「……これでいい」
「じゃあ、器を出しますね」
レオンが棚へ向かった。
エドガーは鍋の前に残ったまま、息を吐いた。
この世界で、三十五年を生きた。
妻も息子も、もう会えない遠い記憶になっていたはずだった。
それなのに今は、二人に会いたくてたまらなかった。




