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幕間 できること、やりたいこと

 胸に触れた木剣の感覚が、まだ残っていた。


 痛かったわけではない。


 気づいた時には、もうそこにあった。


 レオンは自分の部屋で椅子へ座り、手のひらを開いた。右肘に添えられた手の位置を思い出しながら、ゆっくり腕を引いてみる。


 あの時、エドガーは下がるはずだった。


 そう思っていたのは、自分だけだ。


 右で追い、左で押さえる。その先へ進もうとしたところへ、逆に入ってこられた。


 強化を使えば、腕を引くのは間に合ったかもしれない。


 だが、下がると思った理由まで変わるわけではなかった。


「……うまいなあ」


 誰もいない部屋で、声が漏れた。


 悔しくないと言えば嘘になる。


 自分も五年、冒険者を続けてきた。剣の扱いも、最初の頃とは違う。強化を使わなければ何もできない、というつもりはなかった。


 それでも、ああいう入り方は思いつかなかった。


 エドガーは、こちらの速さを見てから動いたのではない。こちらが動きたくなるところで、待っていた。


 もう一度やれば防げるだろうか。


 防いだら、次は何をしてくるのだろう。


 考えていると、また木剣を握りたくなった。


 レオンは卓へ紙を広げた。


 忘れないうちに、今日のことを書いておこう。


     *


 もっと速く動けたら。


 もっと力があったら。


 前の人生の終わりに、そう思ったことは覚えている。


 事故の瞬間の記憶は、今でもところどころ抜けていた。順番に思い返そうとしても、途中がつながらない。


 ただ、身体が間に合わなかった。


 動け、と思った。


 それだけは、はっきり残っている。


 その時には、まだ終わるつもりなどなかった。


 仕事もしていたし、一人暮らしにも慣れていた。休みの日にやりたいことも、買おうか迷っていた物もあった。


 特別な人生ではなかったが、続きを楽しみにしていた。


 だから、この世界で自分の力に気づいた時は嬉しかった。


 強化すると、重い物を持てる。


 脚がよく動く。


 転んでも、思ったほど痛くない。


 最後に欲しかったものが、今度は身体の中にあった。


 初めから上手に使えたわけではない。それでも、できることが増えていくのは、たまらなく面白かった。


 レオンは紙へ一行書き、そこで手を止めた。


 力があるだけでは済まないと、最初に教えてきたのは、敵でも先輩でもなかった。


 地面だった。


     *


 まだ実家で暮らしていた頃、畑から離れた空き地で走ったことがある。


 人がいないのを確かめ、端まで歩いて、窪みや石を見て回った。


 それまでより強く身体を強化したら、どのくらい速く走れるのか。


 試してみたかった。


 腰を落とし、脚へ力を込めた。


 勢いよく踏み出した、そのつもりだった。


 靴の下で土が崩れた。


 片足だけが沈み、身体が前へ倒れる。慌ててもう片方を出したが、そこも踏み荒らして、結局両手をついた。


 顔を上げると、走り出した場所がすぐ後ろにあった。


 あれだけ力を込めたのに、ほとんど進んでいない。


 しばらく、自分の足跡を見つめていた。


 身体は強くなっていた。


 地面は、いつもの地面だった。


 当たり前のことだったのに、まったく考えていなかった。


 帰ってから泥のついた服を見られ、母に何をしていたのか尋ねられた。


 走る練習、と答えると、畑には入らないようにと言われた。


 入っていなくてよかった、と心から思った。


 別の日には、乾いて踏み固められた場所を選んだ。


 少しずつ速さを上げる。


 今度は、足が地面を捉えた。


 風が耳元で鳴った。


 見ていた景色が、思ったより早く後ろへ流れる。前世で走っていた時とは、まるで違った。


 自分の脚だけで、こんなに速く動ける。


 笑いそうになった。


 止まろうと思うまでは。


 目印にしていた場所が迫り、脚を緩めた時には遅かった。何歩も先まで走り抜け、身体を起こしながらようやく速度を落とした。


 十分に先まで空いている場所を選んでおいてよかった。


 その後、目印を二つに増やした。


 止まり始める場所と、止まる場所だ。


 曲がる練習では、もっと速さを落とす必要があった。真っすぐ走れるからといって、そのまま横へ向きを変えられるわけではない。


 今でも、戦う時にいつも最大の速さを出すことはない。


 止まれない速さでは、剣の届く場所まで行っても通り過ぎてしまう。


     *


 重い物も、幾つか試した。


 倒木の端を持ち上げた時には、腕より先に足元が沈んだ。持てると思って力を増すほど、靴が土へ食い込んでいく。


 腕にはまだ余裕があった。


 そこでやめたので、結局どこまで持てたのかは分からない。


 強化を続けられる時間も確かめた。


 普段使う程度なら、動きながらでも余裕がある。


 だが、強くすると魔力の減り方が違った。もう少し続けられると思っていたのに、急に余裕がなくなる。解除した後は脚が重く、しばらく座っていたくなった。


 帰る分を残しておくことも、その時に覚えた。


 頑丈さは、さらに分かりにくい。


 転倒や、戦いの中で受けた打撃から、普通より丈夫なのは知っている。思わず身構えた衝撃でも、痣さえ残らなかったことがあった。


 それでも、自分の腕へ刃を当てて確かめる気にはならなかった。


 知らないままで困るかもしれない。


 知るために怪我をするのも、何か違う。


 レオンは紙の端へ、足場、と書き足した。


 できることは、少しずつ分かってきていた。


 条件が変われば、できなくなることも。


 今日、エドガーが話していたのも、それに近い気がした。


 ただし、考えるのは自分の身体と地面だけではない。


 敵がもう一人いる。


 後ろに誰かが残っている。


 自分が速く動いた時、そこにいる人まで一緒に速くなるわけではない。


     *


 ヨハンとマルタは、その辺りをよく分かっていた。


 槍を持つヨハンが残り、弓を使うマルタが射てる位置へ動く。


 レオンが前へ出ると伝えると、ヨハンは短く返事をした。


 それだけで、任せられた。


 初めからできていたわけではない。


 レオンが横切ってしまい、マルタに矢を放つのをやめさせたこともある。急に戻って、ヨハンとぶつかりかけたこともあった。


 そのたびに言い合い、歩きながら話し直した。


 長く一緒にいるうちに、いちいち考えなくなっていた。


 自分が動けていたのは、二人が合わせてくれていたからでもある。


 それを、忘れていたつもりはない。


 だが、エドガーに尋ねられるまで、同じようには動けない理由を、そこまで考えていなかった。


 今頃、ヨハンはパンを焼いているのだろうか。


 朝の見張りでは眠そうだったのに、家に戻ったらもっと早く起きることになる、と笑っていた。


 マルタは、革を扱う道具を手にしているかもしれない。旅の最中にも、傷んだ留め具を見ると、直した方がいいと言っていた。


 次に会ったら、今日の話をしたい。


 弩を使う人だと思っていたら、剣でも一本取られた。


 そう話せば、二人は何と言うだろう。


 マルタには、下がると思い込んだ方が悪い、と言われそうだ。


 ヨハンは一度笑ってから、その動きをやってみろと言うかもしれない。


 レオンは少し笑った。


 それから、紙へ落としていた目を上げた。


 向かいに、二人はいなかった。


 別々の道へ進むことには納得している。今も、応援したいと思っている。


 それでも、話したいことができた時には寂しい。


 数年、一緒に食べて歩いてきた相手だった。


 別れたからといって、すぐに慣れるものでもなかった。


 今度、手紙を出そう。


 そう決めると、書きたいことが幾つも浮かんだ。


     *


 この町へ来てからのことだけでも、手紙は長くなりそうだった。


 今は、宿ではなく家に住んでいる。


 家主と一緒に依頼を受け、食事を作り、洗濯物を干している。


 職人に教わりながら、椅子も作った。


 その椅子は、階下にある。


 自分で作った物へ、毎日座れる。


 それは、思っていた以上に嬉しいことだった。


 前の人生でも、物を作る動画を見るのは好きだった。道具を動かす手元を巻き戻し、自分でもできそうだと思ったことが何度もある。


 しかし、画面の中で簡単そうに動く道具が、自分の手でも同じように動くとは限らない。


 ブルーノは、レオンがつまずくと手元を見る。


 少しだけ刃を直したり、木を押さえる場所を変えたりする。


 それから、もう一度やれと言う。


 すると、さっきまで引っかかっていたものが、すっと動くことがある。


 あの感覚が面白かった。


 分からなかったことが、その場で手の中に分かる。


 買いたい道具は増えた。


 明日には、新しい剣を受け取りに行く。午後にはブルーノが棚を付ける場所を見に来てくれる。


 どちらも楽しみだった。


 強い魔物を倒すことばかりが、こちらの世界でやりたかったことではない。


 知らない街を歩きたい。


 店先で気になった物を食べたい。


 見たことのない作りの道具を、手に取ってみたい。


 前の人生では、休みや財布の都合を考え、また今度にしたことが幾つもあった。


 今も金は要るし、仕事もある。


 それでも、自分の足で行ける場所が増えている。


 せっかくなら、もっと遠くまで行ってみたい。


 できるだけ長く、その先を見ていたかった。


     *


 レオンは、今日書いたものを読み返した。


 短い覚え書きばかりなのに、思ったより紙を使っていた。


 最後の行を探し、少し迷ってから書き足す。


 強化している時に、周りをどこまで見られるか。


 速く走るだけの練習は、何度もした。


 途中で誰かが動いたらどうするか。予定していた場所へ行けなくなったら、どこへ向かうか。


 そういう確かめ方もしてみたい。


 エドガーに頼むなら、先に自分ができることを伝えた方がよさそうだった。


 どの程度なら動き続けられるか。


 どんな足場が苦手か。


 転生したことまで話す必要はない。今の力についてなら、説明できる。


 今日、エドガーはレオンの強さを否定しなかった。


 自分なら退く場所でも、お前なら押し切れるかもしれない。


 そう言ってくれた。


 あれは嬉しかった。


 慎重にしろと言われると、できることまで止められたように感じる時があった。だが、エドガーは、自分の知らない力があると認めたうえで話していた。


 だから、こちらももっと聞きたくなった。


 剣を合わせた時の手の位置。


 道で見るもの。


 昔、一緒に働いた冒険者のこと。


 聞いてみたいことを、紙の隅へ小さく書く。


 階下から声がした。


「レオン。飯にするぞ」

「はい。今行きます」


 顔を上げると、窓から入る光が薄くなっていた。


 ずいぶん長く座っていたらしい。


 紙を片付け、立ち上がる。


 階段を下りると、玉葱を炒めた甘い匂いがした。エドガーが鍋をかき混ぜ、卓にはまだ皿が一枚しか出ていない。


「皿、出します」

「ああ。そこの深い方な」


 レオンは戸棚を開け、二人分を運んだ。


「書けたか」

「はい。ただ、聞きたいことも増えました」

「今日の今日でか」

「書いてたら、気になって」


 エドガーは鍋から顔を上げた。


 少し呆れたような表情だったが、話すなとは言わなかった。


「飯が冷めん程度にしろ」

「はい」


 レオンは椅子へ座った。


 自分で削った肘掛けへ、指が触れる。


 まだ行ってみたい場所は、たくさんある。


 明日、ここでやりたいこともあった。

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