考えるための時間
ギルド裏の稽古場には、壁際にだけ湿った土が残っていた。
エドガーは靴底で地面を擦り、滑らないことを確かめた。上着を脱ぎ、弩と剣を荷物のそばへ置く。
レオンは借りた木剣を二本、手の中で持ち替えていた。
右には長いもの。左には、普段使う短剣に近いものを選んでいる。
「それでいいか」
「はい。少し軽いですが」
「割れがないかも見ておけ」
エドガーも自分の木剣を確かめた。
刃の代わりになる部分を指でなぞり、ささくれがないことを見る。それから、互いに剣が届かない距離まで離れた。
「最初は強化なしで、ゆっくりだ。頭と喉は狙うな」
「分かりました」
「止めと言ったら、途中でも止めろよ」
レオンが頷き、構えた。
*
右の木剣が近づいてきた。
エドガーは軽く合わせ、半歩下がった。
続けて左が出る。こちらの木剣を押さえ、その間に右を使おうとしていた。
エドガーは押し返さず、さらに下がった。
レオンは追いすぎずに足を止める。
構え直すまでに、余計な動きは少なかった。
「そのまま、少し速くしていい」
「はい」
次は、木の打ち合う音が続いた。
片方を受けても、もう片方が動く。エドガーは長く剣を合わせず、受けては離れた。
強化がなくても、腕の力はレオンの方が強い。
押し合えば崩される。右を避けて近づこうとすると、短い木剣が間へ入ってきた。
エドガーは一度離れ、握りを直した。
「やりにくいですか」
「ああ。二本とも、ちゃんと使ってるな」
レオンの表情が少し明るくなった。
「もう一度お願いします」
「来い」
右の木剣を受けた。
左が動く。
エドガーはその短い木剣が戻るところまで見てから、距離を取った。
もう一度、同じように右を受ける。
レオンが踏み込み、左を出した。
今度は、エドガーが離れなかった。
短い木剣を自分の木剣で外へ流し、その手が戻るより先に足を進める。レオンの右肘へ左手を添え、長い方を振る場所を塞いだ。
木剣の先が、レオンの胸へ触れた。
「止め」
レオンが息を止めた。
エドガーはすぐに手を離し、下がった。
「……今、下がると思いました」
「二度、下がったからな」
レオンが自分の両手を見た。
「左を出すのを待ってたんですか」
「ああ。右で追って、左で押さえる。その後、お前はもう一歩入ってくる」
「分かります?」
「今は、分かりやすかった」
エドガーは木剣を肩へ担がず、下へ向けた。
「同じ動きが悪いわけじゃない。だが、相手も見てる」
レオンは頷いた。
次に向かい合うと、すぐには踏み込んでこなかった。
エドガーが近づく。
レオンの左手がわずかに上がった。その短い木剣を意識して、エドガーが足を止める。
そこで右が伸びてきた。
受けきれず、木剣の先が上腕へ触れた。
「止め」
エドガーは腕を動かし、異常がないことを確かめた。
「今のはよかった」
「さっきのを、そのままやられたくなくて」
「ああ。それでいい」
覚えが早い。
同じ手で何度も取れる相手ではなかった。
*
水を飲んでいると、稽古場の入口にベルトが立っていた。
以前、木材の護衛で一緒になった槍使いだ。肩に担いでいた槍を持ち直し、二人を見ている。
「剣を教えてるのか」
「こっちも当てられたところだ」
「見てたよ」
ベルトが笑った。
エドガーは水袋の栓を閉める。
「少し付き合えるか。二人で来る役が欲しい」
「受付に呼ばれるまでならな」
ベルトは槍を壁際へ立て掛け、稽古用の棒を借りてきた。
エドガーはレオンへ向き直った。
「昨日は宿の入口を守る話をしたが、あれだけやっても、次が同じ場所とは限らん」
「はい」
「今日はまず、二人いたらどう変わるか見ておこう」
エドガーとベルトが、少し間を空けて並んだ。
レオンは二人を見比べ、剣を構える。
「速くは動かん。強く打つ必要もない」
「分かりました」
エドガーが前へ出た。
レオンの右の木剣と合わせる。その間に、ベルトが横へ回った。
レオンはすぐに気づき、二人を前へ置き直すように下がった。
その足に合わせ、エドガーも動く。
ベルトの棒が伸びると、レオンは短い木剣で逸らした。長い方をエドガーへ向け、さらに距離を取る。
「止め」
三人が構えを解いた。
「前にもやってるな」
「魔物に囲まれかけたことはあります。背中へ回られるのは嫌なので」
「なら、今のはいい。次は少し変える」
エドガーは地面へ線を引いた。
「この後ろに、怪我をして歩けん仲間がいる」
「下がれないんですね」
「下がるなら、そいつをどうするかも考える」
同じように始めた。
レオンがエドガーの木剣を受ける。
ベルトが横へ動く。
今度はレオンの足が止まった。背後を気にして、先ほどのようには距離を取れない。
エドガーを押し返してベルトへ向く。
その間に、エドガーが線へ近づいた。
「止め」
レオンが振り返る。
エドガーは線を越えず、そこで待った。
「自分に来るなら、さっきみたいに動けます。でも、後ろへ行かれると……」
「守る物が増えると、使えん動きも出てくる」
ベルトが棒の先を地面へ下ろした。
「俺なら、歩けるうちに場所を変えたいな。ここじゃ、どっちからでも回れる」
「壁を背にするとかですか」
「ああ。ただし、後ろへ逃げられなくはなる」
レオンは地面の線を見た。
「俺なら、その仲間を抱えて動けるかもしれません」
「怪我にもよるな」
エドガーが答えた。
「だが、できるなら手は増える。俺たちと同じように守る必要はない」
レオンが顔を上げた。
「先に二人とも倒せるなら、それでもいいんですよね」
「ああ。間に合うならな」
「そこは、試さないと分かりません」
「ここで人相手に限界までやるなよ」
ベルトが言うと、レオンは慌てて首を振った。
「それは、やりません」
エドガーは小さく笑い、地面の線を靴で消した。
*
ベルトが受付へ戻った後、二人は壁際の腰掛けへ座った。
レオンが水を飲んでいる間に、エドガーは小石を三つ拾った。
二つを近くに置き、一つを離して置く。
「前に二人。離れた所に弓が一人」
「射手から何とかしたいですね」
「どうやって?」
「前の二人を抜けて、近づきます」
エドガーは離れた石へ指を向けた。
「その間、こいつは射てる」
「強化すれば、狙いをつけられる前に届く距離もあります」
「どのくらいだ」
「相手が気づいているかにもよります。足場がよければ、かなり」
エドガーは頷いた。
宿の前で見た速さは知っている。
あれが精いっぱいだったのか、まだ余裕があったのかは知らなかった。
「なら、俺より選べることは多い。ただ、今みたいに射手が見えてるとは限らん」
もう一つ、石を拾う。
少し横へ置いた。
「こっちにもいたら?」
「……最初の一人へ向かうところを狙われますね」
「ああ。だから俺は、見つけた一人だけで終わりだと思わんようにしてる」
レオンは石を見つめた。
「前に、そういうことが?」
「荷車の護衛でな。道の先に弓持ちが出た。護衛の一人が、荷車の陰からそいつへ射返そうとした」
エドガーは横へ置いた石を指した。
「もう一人は、畑の石垣に隠れてた。身を出したところを横から射られた」
「亡くなったんですか」
「生きて帰った。だが、その場では剣を持てんかった。残った人数で、負傷者と荷主を守ることになった」
レオンの手が、水袋の口を握ったまま止まった。
「最初の一人が、囮だったんですね」
「そうだったんだろうな。捕まえて聞いたわけじゃない。ただ、こっちの目はそいつに向いてた」
エドガーは石を一つ動かした。
「弓を見たら、射ってくる奴だけじゃなく、隠れられる所も見る。荷車でも壁でもいい。前を塞いでも、横が空いてりゃ射られる」
「見えない相手を、探しながらですか」
「全部探してから動けるなら苦労はない。分からん時は、分からんまま隠れることもある」
レオンがゆっくり頷いた。
「魔法でも同じですか」
「似たところはある。ただ、板一枚で防げるかは分からん。火を投げ込まれれば、隠れた場所を出ることにもなる」
エドガーは置いた石をまとめた。
「隠れる場所を決めたら、そこを使えなくなった時に、どっちへ動くかも見ておく」
「逃げ道ですね」
「ああ。戦いが始まってから探すよりは、ましだ」
*
レオンは少し考え、荷物のそばの弩を見た。
「弩なら、一度射た後に詰めるのはどうですか」
エドガーは立ち上がり、弩を持って戻った。
弦は引いていない。矢も載っていなかった。
「狙いとしては分かる。だが、射ったら必ず次の矢を用意するとは限らん」
腰掛けへ弩を置き、代わりに木剣を拾う。
「近づいてくるのが分かれば、俺も剣へ替える」
「撃ち終わったから無防備、ではないんですね」
「ああ。それに、隣の奴がまだ射ってなければ、そっちに狙われる」
レオンは口を結んでから、頷いた。
話を聞くたびに、考える相手が増えていく。
何もできなくなっても困る。
エドガーは木剣を下ろした。
「だから、近づくなと言ってるわけじゃない」
「はい」
「射手を追い立てれば、味方が動けることもある。お前なら、それができるかもしれん」
レオンは顔を上げた。
「前のパーティでは、弓を使う仲間がいたんだな」
「マルタです」
「お前が前へ出る時は?」
「先に声を掛けていました。ヨハンが残ってくれるので」
「なら、あいつらには、お前が行くと分かってたんだな」
レオンが一度瞬きをした。
それから、少し困ったように笑った。
「……当たり前にやってました」
「長く一緒にいれば、そういうこともある」
エドガーは腰掛けへ戻った。
「俺には、まだ分からん。お前がどこまで走れるかも、どのくらい強化を続けられるかもな」
「俺も、エドガーさんが剣であそこまで動けるとは思ってませんでした」
「お互い、知らんことがあるってことだ」
レオンは水袋の栓を締めた。
「前へ出るなら、先に伝えます」
「ああ。毎回、長い相談はできんが、一言あるだけでも違う」
*
その後は、二人で稽古場へ戻った。
エドガーが近づき、レオンが離れる。
次はレオンが前へ出て、エドガーが後ろに残る。
打ち合うより、互いが動いた時に、もう一人がどこへ行くかを確かめる時間が長くなった。
一度、レオンが横へ駆け出す前に声を掛けた。
「前、お願いします」
「ああ」
エドガーが立ち位置を変える。
レオンは振り返らずに動き、止まってからこちらを見た。
「これなら、戻る場所が分かります」
「俺も、お前がどっちへ行ったか分かる」
何度か繰り返したところで、エドガーは休みを入れた。
レオンはまだ動けそうだったが、こちらの腕には疲れが出ている。
「最後に一つ。退く相手を追う時だ」
レオンの表情が引き締まった。
宿の前でのことを思い出したのだろう。
「曲がり角でも、木の向こうでもいい。見えなくなった先には、何がいるか分からん」
「仲間が待っているかもしれない」
「ああ。何もいなくても、追ってる間に元の場所が見えなくなる」
エドガーは水を一口飲んだ。
「逃げる一人を追ったせいで、別の奴に荷を持っていかれたのを見たことがある。追った方は捕まえて戻ってきたが、荷主は喜ばんかった」
「追う相手を間違えたんですね」
「その時はな。逃がせば別の村を襲う奴もいる。だから、追わなきゃいいで済む話でもない」
レオンは黙って聞いていた。
「何を守る仕事なのか。誰が残ってるのか。追った先が見えるか。その辺りを、一度考えておく」
「戦っている時に、全部ですか」
「今みたいに、考える時間があるうちにだ」
エドガーは水袋を脇へ置いた。
「初めて考えることばかりだと、迷ってる間に相手が動く。似た話を知っていれば、少なくとも気づけることはある」
すべて思いどおりにはいかない。
備えていたのと違う相手が出ることも、選んだ道が悪いこともあった。
それでも、何も考えずに出た時よりは、帰れることが多かった。
*
木剣を返す前に、レオンが言った。
「今日の話、後で書いておきます」
「ああ。ただ、そのとおりにやれば助かるとは思うなよ」
レオンが顔を向ける。
エドガーは手にしていた木剣を見た。
「俺なら退くところでも、お前なら押し切れるかもしれん。強化して、相手が動く前に終わらせられるなら、話は変わる」
「できる場合はあると思います」
「だろうな。俺はまだ、お前の上限を知らん」
先ほど、木剣を合わせた時の重さを思い出す。
強化なしで、あれだ。
自分が使える方法だけを教えても、レオンの力を狭めることになる。
「今日話したのは、俺が見てきたことと、そこから考えたことだ。相手も場所も違えば、使えんこともある。いつでも通じる正解はない」
レオンはしばらく黙っていた。
「じゃあ、自分でも確かめていかないといけませんね」
「ああ。できれば、取り返しのつくうちにな」
エドガーは木剣を返却台へ置いた。
レオンも二本を揃えて置き、係の者へ礼を言う。
外へ出ると、昼前の通りは人で賑わっていた。
「また教えてもらってもいいですか」
「今日のだけでも、随分喋ったぞ」
「一度に全部じゃなくていいです。仕事の帰りとかに」
エドガーは隣を見た。
レオンは、いつもの調子でこちらを待っていた。
「……思い出したらな」
「はい」
二十年もやっていれば、話せることは幾つかある。
今までは、誰かにまとめて話そうと思ったことがなかっただけだ。
エドガーは買い物籠を抱えた女に道を譲り、通りの端へ寄った。
レオンもその隣へ並ぶ。
「まずは飯だ。話してたら腹が減った」
「俺もです」
パン屋の方から、焼けた生地の匂いが流れてきた。
二人はそちらへ足を向けた。




