帰るための仕事
トマスが荷馬車のそばから戻ってきた。
「車輪も車軸も、見えるところは無事です。ただ、荷を下ろして引き上げるとなると、時間がかかりますね」
エドガーは木々の隙間から空を見た。
日が傾き始めている。荷車を直したところで、引く馬がいなかった。
「担架に使えそうな材は?」
「細い角材があります。毛布があれば、形にはできます」
「まず、それを見よう」
御者に断ると、荷台の前に毛布を置いてあると教えられた。
「使ってくれ。材のことも、店には俺から話す」
「借りるぞ。あんたはここで休んでてくれ」
エドガーはトマスと小屋を出た。
*
荷台を支えている若木は、幹が大きくしなっていた。
その下を避け、道に近い側から積み荷を見る。細い角材は、太い板の束とは別の縄で固定されていた。
トマスが指さす。
「この二本なら、長さも――」
斜面の下で枝が折れた。
二人とも口を閉じた。
葉が擦れ、茂みの奥から灰色の背がせり上がる。
背の高さは、エドガーの腰ほどもあった。短い首の後ろに肩が盛り上がり、樽のように太い胴を、泥に汚れた四本の脚が支えている。
肩を覆う骨板が枝を押し曲げた。頬の下から、黄ばんだ牙が覗く。
灰猪だった。
荷馬車の縁を割ったという話にも納得がいった。まともにぶつかられれば、人間など簡単に跳ね飛ばされる。
エドガーは弩を構えた。
「小屋から出るな!」
呼びかけに、灰猪が鼻先を上げる。
トマスは剣を抜き、荷馬車から離れた。
「道へ寄せます」
エドガーも横へ動いた。傾いた荷のそばでは、避けられる方向が限られる。二人とも道へ出て、トマスが前に立った。
灰猪は鼻を鳴らし、土を掻いた。
肩の骨板は厚い。正面から弩を撃っても、矢を無駄にするかもしれない。
エドガーは構えたまま待った。
魔物が地面を蹴る。
重い身体が、斜面を駆け上がってきた。
トマスは正面で受けず、道端の太い木を回り込んだ。灰猪の牙が樹皮を削る。追って向きを変えたところで、その脇腹が見えた。
エドガーは引き金を引いた。
弦が鳴り、矢が刺さる。
灰猪は激しく身を振った。
だが、止まらない。
土を蹴散らし、再びトマスを追った。横腹から突き出した矢が、動くたびに揺れている。
エドガーは弩を下ろし、装填具に手をかけた。
「引き直す」
「はい!」
トマスは木を挟んで動いていた。
灰猪が回り込もうとすると、剣先を向けて牽制する。それでも魔物は牙を振り、間合いを詰めようとした。
トマスの靴が落ち葉を滑らせる。
すぐに踏み直したが、エドガーはその動きを見逃さなかった。
長くは任せられない。
弦を引き直し、次の矢を載せる。
「いけるぞ」
トマスが木から離れた。
灰猪が後を追い、大きく向きを変える。エドガーは仲間の位置を確かめ、魔物の胴へ狙いを移した。
二射目を放つ。
命中した灰猪はよろめいたが、脚を踏ん張った。低い唸り声とともに、今度はエドガーへ頭を向ける。
その隙に、トマスが踏み込んだ。
骨板を避けた一撃を加え、すぐに離れる。
魔物が牙を振り回す。トマスは追い打ちを欲張らず、再び木のそばへ下がった。
エドガーも距離を取り、次の矢を用意した。
灰猪はまだ立っていた。
荒い息を吐き、二人を交互に睨む。前へ出ようとして、脚が一度もつれた。
それでも近づかなかった。
二人で逃げ場を残しながら間合いを保つうちに、魔物の動きは鈍くなっていった。やがて前脚が折れ、重い胴が地面へ沈む。
トマスはエドガーが弩を構え直したのを確かめてから、慎重に近づき、とどめを刺した。
*
「怪我は?」
「ありません」
トマスは息を整えながら答えた。
「一度、足が滑りました。もう少し草の少ない方へ出ればよかった」
「立て直せたならいい。どこか捻ってないか?」
「大丈夫です」
足首を動かしてみせ、トマスは魔物へ目を戻した。
「やっぱり、しぶといですね」
「あの身体だからな」
弩で当てれば、それで終わるとは限らない。
トマスが前を引き受けてくれたから、二射目を撃てた。そのトマスも、矢で傷を負わせた後まで踏み込まなかった。
どちらかが焦っていれば、無傷では済まなかっただろう。
エドガーは小屋へ声をかけた。
「片づいた。怪我はないから、そこで待っててくれ!」
中から返事があった。
トマスが剣の汚れを拭う。その手元を見ながら、エドガーは言った。
「担いで戻るのは、やめておこう」
「ええ。途中でまた出られたら、御者を下ろすところからです」
荷馬車からここまで、僅かな距離でも灰猪はすぐに詰めてきた。
二人とも手が塞がった状態で出会いたくはない。疲れて足元がおぼつかなくなれば、なおさらだった。
「俺が人を呼んできます」
トマスが街の方へ目を向けた。
「帰りは道が分かってます。今からなら、日があるうちに街道まで出られます」
「街までは?」
「暗くなると思います。ただ、途中に農家がありました。遅くなったら、あそこで一度休ませてもらいます」
エドガーは歩いてきた道を思い返した。
捜索では、何度も足を止めていた。荷を軽くして戻るだけなら、森を抜ける時間は取れそうだった。
「途中で異変があったら、引き返せよ」
「はい」
「迎えは馬車で頼む。御者を乗せる分と、護衛も」
「ギルドで手配してもらいます」
エドガーは頷いた。
今から人を集め、馬を用意して来るとなれば、森へ入るのは夜になる。そんな迎えを急がせるつもりはなかった。
「明るくなってから来てくれ。こっちは小屋で待つ」
「分かりました」
*
話を聞いた御者は、しばらく自分の足を見ていた。
「もう一晩か」
「ああ。その方が安全だ」
エドガーが答える。
御者は小屋の中を見回した。昨夜もここで、物音を聞きながら夜明けを待ったのだろう。
「俺も残る。水と食い物もある」
そう付け加えると、男は顔を上げた。
「……悪いな」
「迎えが来た時に、乗れるよう休んでてくれ」
トマスが自分の荷から食料を出し、二人のそばへ置いた。帰りに必要な分だけを残し、水袋も分ける。
荷馬車にあった毛布は、出発前に取ってきてくれた。御者の上へ掛けると、男は礼を言って布を引き寄せた。
「では、行ってきます」
トマスが荷を背負い直す。
「馬のことも伝えておいてくれないか」
御者が言った。
「途中で見つけたら、無理のない範囲で確かめます。店にも話しておきますよ」
エドガーは入口まで見送った。
「気をつけてな」
「そっちも。明日、戻ります」
トマスは道へ下り、街の方へ歩き出した。
その姿が見えなくなるまで、エドガーは小屋の前に立っていた。
*
日暮れまでに、やることは残っていた。
死骸は獣を寄せつけないよう見張り、処分には火と時間を使う必要がある。小屋の隙間を塞ぎ、薪を集め、御者の様子も確かめなければならない。
まずは、夜を過ごす場所だ。
エドガーは入口の戸板を調べた。立てかけるだけだった板を直し、開け閉めできるよう収まりを確かめる。風が通り抜けていた穴には、御者に断って荷台の油布を使うことにした。
「手慣れてるな」
作業を見ていた御者が言った。
「外で寝ることは多い」
「俺は昨日、あの板を立てるだけで精いっぱいだった」
「足を痛めてたんだ。それだけできれば十分だろ」
板を支えていた木片を拾い、使いやすい位置へ置き直す。
今夜、宿の寝台では眠れない。明日は家の工事を覗くつもりだったが、それも遅くなる。
どちらも、帰ってからでいい。
エドガーは御者の水袋を手の届く場所へ寄せ、弩を持って入口の外へ出た。
森の中は、少しずつ暗くなり始めていた。




