出発までの一日
朝食の皿が片づく頃には、宿の前を通る者が増えていた。
家族を迎えに来た者。怪我人の様子を尋ねる者。盗まれた荷を探して、拾い集められた品を一つずつ確かめる者。
エドガーは食堂の窓際に座り、矢筒の中身を数えていた。
宿の前で使った矢は、まだ戻していない。回収できても、そのまま使えるとは限らなかった。
残りを確かめていると、商人が宿の庭から入ってきた。
「荷を少し開けます。見ていてもらえますか」
「何を出す?」
「麻布を。手当てに使う布が足りなくなりそうだと聞いたので」
朝、村の女が持ち込んだ敷布を思い出す。
「あんたの荷だろ。売り物じゃないのか」
「全部に買い手が決まっているわけではありません。少しなら融通が利きます」
商人はそう言って、卓の端に置いていた帳面を取った。
「ただ、どれでも同じように使えるのか分からないので。見てもらってからですね」
エドガーは矢を筒へ戻し、立ち上がった。
*
宿の庭に停めた荷馬車の覆いをめくると、布を包んだ荷が現れた。
年配の御者が縄を緩め、商人が包みの印を確かめる。呼ばれてきたリゼは、差し出された布の端を指で挟んだ。
「こちらなら使えます。洗ってから用意しますので」
「どのくらい要りますか」
リゼは少し考え、必要な長さを伝えた。
商人はそれより余裕を持たせて切り分けると、残りを包み直した。
「お代は、うちの者に確認します」
「今回は結構です」
「ですが」
「宿だけ守っていただいても、村を出られなければ困っていましたから」
商人は切り分けた布を畳んだ。
「帰りの分まで差し上げる余裕はありませんが、今日使う分くらいは」
リゼは両手で受け取り、頭を下げた。
「ありがとうございます。大切に使います」
エドガーは二人のやり取りを聞きながら、庭門へ目を配った。
門は、人が一人通れる程度に開けられている。夜番をしていた男に代わり、今は別の村人がそばに腰を下ろしていた。
荷の覆いを戻すと、商人は自分で帳面に書きつけた。
渡した分を曖昧にはしないらしい。
エドガーが見ているのに気づき、苦笑する。
「戻った時、数が合わないと困りますので」
「そうだな」
損を承知で布を渡すのと、勘定を忘れるのは別の話だった。
*
昼前に、村長が宿を訪ねてきた。
エドガーとレオンは食堂へ呼ばれ、宿の前で見たことを話した。
野盗が現れた路地や、逃げていった人数。笛が鳴った時刻は正確には分からなかったので、空が明るくなり始めていた頃とだけ伝えた。
「宿の辺りは、お二人が?」
「巡療会もいた。中へ人を入れたのは宿の主人だ」
エドガーが答えると、村長は頷き、隣にいた男へ書き留めるよう促した。
分からないことを重ねて聞かれることはなかった。
話が終わると、村長は深く頭を下げた。
「助かりました」
「こっちも泊まってたんだ。無事に済んでよかった」
村長が出ていった後、レオンは窓の外へ目を向けた。
宿の向かいで、二人の男が外れた戸板を起こそうとしている。一人は肩に布を当てており、片手しか使えていなかった。
「エドガーさん。あれ、手を貸してきてもいいですか」
エドガーは商人たちの卓を見た。
今は外へ出る予定もない。荷も閉じたままだ。
「行ってこい。こっちは見てる」
「すぐそこにいます」
レオンは宿を出る前に、商人にも一言告げた。
通りを渡り、男たちへ声を掛ける。戸板のどこを持つか尋ねてから、下端へ手を入れた。
持ち上げるだけなら、一人でも足りる。
それでも、取り付ける位置は家の者に確かめてもらい、言われたところで止めていた。
エドガーは窓から目を戻した。
商人が同じ方を見ていた。
「力がありますね」
「ああ」
「荷を傷めないように持ってくれるのも、助かっています」
それなら、本人に聞かせてやればいい。
そう言いかけた時、商人は既に窓越しにレオンへ声を掛けていた。
戻ったら水を飲んでいくように、と。
*
午後になると、巡療会の隊員が二人、ハーゼンへ続く街道を見て戻ってきた。
宿の前で、エドガーも報告を聞いた。
「石橋まで行った。道を塞ぐものはない。人が潜めそうな所も見たが、その範囲では見つからなかった」
槍を持った隊員が言った。
「橋から先は?」
「見ていない。ハーゼンから来た荷車とは会った。向こうは何も見なかったそうだ」
その荷車は、少し遅れて村へ入ってきた。
荷主から直接話を聞くと、町を朝に出て、途中で一度休んだという。道中で争った跡も、行く手を遮る者も見なかった。
エドガーは礼を言い、商人のところへ戻った。
「明日は、明るくなってから出よう。今のところ、ハーゼンまでの道で野盗を見た話はない」
「分かりました」
「途中で様子がおかしければ戻る。着く時刻は、まだ約束できん」
「ええ。それでお願いします」
出発を決めると、御者たちも動きやすくなった。
父親は飼葉の残りを確かめ、息子は車輪の軸へ油を差しに行く。レオンが一緒に庭へ出たので、エドガーは食堂に残った。
椅子へ腰を下ろすと、ようやく背中の張りに気づいた。
大して歩いてはいない。
それでも、朝から座ったまま気を抜ける時間は、ほとんどなかった。
*
夕方、エドガーは宿の庭に腰掛けを出し、コートを繕っていた。
部屋よりも外の方が、まだ手元が明るい。
裂け目を寄せて針を通す。厚い布なので少し力が要ったが、細かい仕上がりを求めなければ、難しい仕事ではなかった。
「そこ、切れていたんですね」
顔を上げると、空の桶を持ったリゼが立っていた。
「布だけだ」
「それならよかったです」
彼女は傷を見せるようには言わず、庭の井戸のそばへ桶を置いた。
「そっちは、落ち着いたか」
「今夜も様子を見る方はいます。私たちは、もう少しここに残ることになりました」
エドガーは針を止めた。
「次の村は?」
「明日、予定が変わったことを伝えに行きます。待っている方がいるので」
診るべき相手は、この村だけではない。
ここで足を止めれば、その先で待つ者にも影響が出る。
「人が足りんな」
「皆、同じことを言っています」
リゼが小さく笑った。
井戸の縄に手を掛けようとしたところで、厩から出てきたレオンが声を掛けた。
「水ですか。引き上げますよ」
「ありがとうございます。あの桶へお願いします」
レオンが縄を引く間に、リゼは桶の位置を直した。
エドガーは縫いかけのコートへ目を戻す。
以前、この一行と会った時は、何を聞かれるかばかり気にしていた。魔物の傷について尋ねられれば、曖昧に答え、早めにその場を離れた。
今日も、尋ねられれば同じようにしただろう。
だが、リゼが気にしていたのは、裂けたコートの下に傷がないかということだけだった。
少なくとも、今は。
「エドガーさん。糸、絡んでます」
桶を運びかけたレオンに言われ、手元を見る。
余った糸が、コートの釦に引っかかっていた。
「見えてる」
「なら、いいんですが」
レオンは笑って、桶を持ち直した。
エドガーは釦から糸を外し、最後の数針を通した。
*
翌朝は、宿の主人が戸を開ける音で目が覚めた。
窓の隙間から差す光は、昨日よりずっと明るい。
隣の寝台では、レオンが既に上着を着ていた。
「おはようございます」
「ああ。眠れたか」
「はい。途中で一度、起きましたけど」
エドガーも夜中に廊下の足音を聞いた。
その後は、朝まで眠っていたらしい。
簡単に朝食を済ませ、宿の庭へ回る。
馬は落ち着いていた。御者の親子がそれぞれの荷馬車で、綱と馬具を確かめている。
商人が宿代を払い終え、荷台の後ろへ来た。
「こちらは済みました」
「じゃあ、最後に荷を見る」
エドガーが一台目、レオンが二台目を確かめた。
覆いも縄も問題はない。
庭門が開かれると、通りの向こうからリゼが歩いてきた。袖の上に巻いた腕章の渡り鳥が、朝の光にはっきりと見えた。
「出発ですね」
「ああ。世話になった」
「こちらこそ。ハーゼンへ着いたら、村のことを伝えていただけますか。知らせは出していますが、直接見た方からも話していただけると」
「門で話す。ギルドにも寄るつもりだ」
「お願いします」
レオンも頭を下げた。
「皆さんも、無理をしすぎないでください」
「ええ。そちらもお気をつけて」
御者が手綱を取り、一台目がゆっくり動き出した。
エドガーは通りへ出て、荷馬車が曲がり終えるのを待つ。二台目が続き、その脇へレオンがついた。
昨日、戸板を取り付けていた家の前を通った。
戸は閉まっている。内側から掛けた閂を外す音がして、家の男が顔を出した。
「気をつけてな」
レオンが手を上げて応じた。
村の端まで来ると、畑の向こうに街道が続いていた。
エドガーは先の道を見てから、後ろの荷馬車へ目を戻した。御者と目が合い、小さく頷く。
車輪が、村を出た。




