遅い朝食
長椅子を壁際へ運ぶと、宿の食堂に人が通れる幅ができた。
リゼが負傷した男を座らせ、その隣へ膝をつく。左の上腕には、袖の上から生成りの腕章が巻かれていた。深緑の糸で刺繍された、翼を広げる渡り鳥。巡療会の者が身につける印だ。
エドガーは邪魔にならないように離れ、入口から外を見た。
通りでは、村人が落ちた荷物を拾い集めていた。
割れた籠から豆がこぼれている。戸板の外れた家の前では、女がしゃがみ込み、散らばった豆を一握りずつ戻していた。
広場へ向かった巡療会の隊員は、まだ戻らない。
「エドガーさん」
商人に呼ばれ、食堂の隅へ寄った。
「今日は出られそうですか」
急かす口調ではなかった。商人の膝の上には、小さな帳面が開かれている。
「今は勧められん。逃げた連中が、街道に出てるかもしれない」
「……そうですね」
「村の外を見た連中の話を聞きたい。それから決めよう」
商人は帳面を閉じた。
「先方には、一日くらい遅れても構わないように伝えてあります。無理はしないでください」
エドガーは頷いた。
日暮れまでに着こうとして出発を急げば、途中で何かあった時に余裕がなくなる。馬を追い立てても、道が安全になるわけではない。
「御者にも話しておく」
「お願いします」
*
庭へ出ると、若い御者が荷台の縄を締め直していた。
父親は厩の中にいる。
「出発は、まだ決めてない。馬は繋がなくていいぞ」
若い御者は手を止めた。
「ああ、はい。これ、緩んでたので」
「荷は動いてたか?」
「いえ。……念のためです」
エドガーは縄を見た。
きつく締まっている。昨日、宿へ着いた時にも確かめた箇所だった。
若い御者は結び目に触れ、もう一度引こうとした。
「それなら大丈夫だ」
声を掛けると、ようやく手が離れた。
厩から父親が顔を出す。
「中で座ってこい。こっちは済んだ」
「でも」
「馬より先に、お前が水を飲め」
息子は少し迷い、父親に手を振られて宿へ戻っていった。
その背を見送り、年配の御者が息を吐く。
「荷を運ぶようになってから、ああいうのは初めてでな」
「無事でよかった」
「ああ。あんたらがいてくれて助かった」
御者は厩の柱へ手を置いた。
「馬を見に行こうとした時、止めてもらってよかったよ。外がどうなってるかも分からなかった」
エドガーは、閉じたままの庭門を振り返った。
「気になるのは分かる。だが、次も先に声を掛けてくれ」
「そうする」
御者は頷き、息子の後を追って宿へ入った。
*
部屋へ戻ったのは、日が窓から差し込むようになってからだった。
エドガーはコートを脱ぎ、椅子の背へ掛けた。
脇の裂け目が、明るいところではよく見える。指先で布を寄せてみると、縫い合わせれば当面は使えそうだった。
隣では、レオンが剣を布で拭いている。
先に水で汚れを落としてきたらしい。柄の近くまで丁寧に拭き取り、窓へ向けて刃を傾けた。
「欠けたか」
「小さいのが一つ。使うのに困るほどじゃありません」
レオンは答え、それからエドガーを見た。
「剣も使えたんですね」
「使えなきゃ、困ることもある」
「いつも弩だったので」
驚きは残っているようだったが、話し方は普段に戻っていた。
「あの剣は、宿で借りたんですか」
「ああ。手近にあったんでな」
そう答え、エドガーは弩へ目を落とした。
「近くに来られる前に済むなら、その方がいい」
「それは、そうですね」
レオンが短剣を手に取る。
幅のある刃を拭き終えると、鍔の付け根に布を当てた。そこには、まだ汚れが残っていた。
エドガーも弩を膝に置き、弦と留め具を確かめる。
しばらく、布の擦れる音だけが続いた。
「さっきの話なんですが」
先に口を開いたのはレオンだった。
「逃げた男を追った時、すぐ戻れると思ってました」
エドガーは手を止めずに聞いた。
「実際、呼ばれてからはすぐ戻れたな」
「はい。でも、その間に二人来ていた」
レオンは短剣を鞘へ納めた。
「一人捕まえる間くらいは、と思ったんです」
「相手も、その間じっとしてるとは限らんからな」
声を掛ければ済む、と言い切れる話でもない。
知らせたところで間に合わないことはある。持ち場を守っていたせいで、逃がした相手が別の誰かを襲うこともあるだろう。
エドガーは弩を机へ置いた。
「前に、速く走れる奴と仕事をしたことがある」
レオンが顔を上げた。
「足場が悪くても平気でな。俺たちが道を選んでる間に、先まで行って戻ってきた」
「便利ですね」
「ああ。何度も助かった」
エドガーは弦に指を添え、擦れたところがないか確かめた。
「そいつは別の依頼で死んだ。先へ出たところを囲まれたと、一緒にいた奴から聞いた」
「……逃げられなかったんですか」
「詳しくは知らん。追いついた時には、もう倒れてたそうだ」
レオンは黙っていた。
「速いのは確かだった。それでも、戻れないことはあったんだろう」
机の上から布を取り、エドガーは弩の胴を拭いた。
「お前が前にいると、俺は弦を掛け直せる。さっきもそうだった」
「はい」
「離れるなら、そのつもりで動く。だから先に分かると助かる」
レオンは少し考え、頷いた。
「俺が戻れるかだけじゃなくて、残った方が何をしているかも、ですね」
「ああ」
廊下から食器の触れ合う音が聞こえた。
誰かが部屋の前を通り、階段を下りていく。
エドガーは弩を持って立ち上がった。
「町に着いたら、剣を一本買っておくか」
「今日みたいな時のために?」
「ああ。いつでも借りられるわけじゃない。自分で持っておくべきだった」
レオンは机の脇に置いた自分の剣を見た。
「店で選ぶ時、一緒に見てもいいですか」
「構わんが、お前はもう頼んであるだろ」
「見るだけです」
「それで済めばいいけどな」
レオンが少し笑った。
*
食堂では、空いた卓に朝食が並べられていた。
厚く切ったパンと、焼いた卵。大皿には昨夜の豚肉を細かく切り、玉葱と一緒に温め直したものが載っている。
宿の主人が、空の皿を二枚差し出した。
「ある物で悪いな。まだ台所まで手が回らん」
「十分だ」
エドガーは受け取り、壁際の卓へ座った。
レオンも隣へ腰を下ろす。
卵の縁は少し焦げていた。パンに載せて齧ると、腹が減っていたことをようやく思い出した。
商人と御者の親子は、向かいの卓で食べていた。若い御者は両手でパンを持ち、父親の話へ時折頷いている。
入口から、巡療会のドワーフが入ってきた。
頬の傷には小さな布が当てられていた。ずり落ちかけた左腕の腕章を直しながら、卓へ近づいてくる。
「村長が役人へ知らせるそうだ。捕まえた連中は、ひとまず空き納屋に集める」
「見張りは?」
「村の奴と、こっちから一人。今、交代を決めてる」
ドワーフは空いた椅子に腰を下ろした。
宿の主人が何も聞かず、前へ皿を置く。
「街道はどうだ」
「村の外れまでは見た。先はまだだな」
「なら、今日は残るか」
エドガーが商人へ目を向けると、相手も頷いた。
「宿の方には、私から話します」
予定は一日延びる。
それで困る者への連絡や、増えた宿代の勘定はある。それでも、ここで椅子に座って話し合える程度のことだった。
リゼが奥の部屋から出てきた。
食堂を見渡し、空いた席を探している。レオンが荷物を足元へ移し、椅子を引いた。
「ここ、空いてます」
「ありがとうございます」
彼女は座る前に、二人の顔を見た。
「お二人とも、怪我はありませんか」
「ない」
「俺も大丈夫です」
返事を聞いてから、リゼはようやく腰を下ろした。
宿の主人が置いた皿へ手を伸ばしかけ、不意に入口を振り返る。
そこに立っていた村の女が、首を横に振った。
「呼びに来たんじゃないよ。布を持ってきただけ。食べておくれ」
腕には、畳んだ古い敷布が積まれていた。
リゼは礼を言い、今度こそパンを手に取った。
エドガーは大皿を彼女の方へ押した。
残っていた肉が少なくなっているのを見て、レオンが自分の皿へ伸ばしかけた匙を止める。
「まだ鍋にあるよ」
台所から声が飛んだ。
「食べるなら、皿を持ってきな」
レオンはリゼに先を譲り、それから立ち上がった。
「エドガーさんも、いりますか」
「少し頼む」
渡した皿を、レオンが受け取る。
食堂の戸口は開いていた。外を通る村人が宿の主人を呼び、また別の者が水桶を運んでいく。
エドガーは通りの様子を確かめてから、冷めかけた卵の残りをパンに載せた。




