坂を越えた先
宿を出る頃には、朝露がまだ草の先に残っていた。
先頭の荷馬車で、年配の御者が手綱を握り直す。その後ろへ、息子の操る二台目が続いた。
エドガーは道の端を歩きながら、靴底につく土を確かめた。表面は乾いているが、轍の底にはところどころ水が残っている。
昨日聞いた坂も、まだ乾いてはいないだろう。
「昼までには、あの坂に着けそうだな」
御者が言った。
「ああ。手前で一度止めてくれ」
「分かってる。下りで滑らせたくはないからな」
荷台では、商人が膝に広げていた帳面を閉じた。
「時間がかかりそうか?」
「道を見てからだな」
「そうか。荷を下ろす必要があれば言ってくれ」
エドガーは頷いた。
後ろを見ると、レオンは二台目の脇を歩いていた。若い御者と何か話しながらも、時折、道沿いの林へ目を向けている。
こちらに気づくと、片手を上げた。
エドガーも手を上げ返し、前へ向き直った。
*
坂の手前で、荷馬車を止めた。
道は緩く上った後、林の間へ下っている。頂上までは見えるが、その先は歩いて確かめる必要があった。
「見てくる。レオンは荷車のそばにいてくれ」
「はい」
年配の御者も御者台から降りた。
「道を選ぶなら、一緒に見たい」
「ああ。頼む」
二人で坂を上がる。
頂上を越えた先では、道の左側に深い轍が続いていた。流れた雨水がそこへ集まったらしく、土が黒く濡れている。右側は比較的浅いが、外へ寄り過ぎれば車輪が路肩を踏む。
御者は少し先まで歩き、振り返って道幅を見た。
「右を通す。ただ、曲がる所で荷車の後ろが左へ振れるな」
「そこは見ておく」
「頼む。下り終わるまで、次の荷車は待たせよう」
坂の下には、二台を止められる平らな場所があった。
エドガーはそこまで確かめてから、荷馬車へ戻った。
「一台ずつ通す。先の荷車が下り切るまで、こっちは動かさない」
「押した方がいいですか?」
レオンが尋ねた。
「今のところ、その必要はないそうだ。後ろの荷車を頼む」
「分かりました」
商人が荷台から降りた。
「私も歩こう」
「荷車の後ろには入らないでくれ。少し離れてついてきてくれればいい」
年配の御者が馬に声を掛けた。
車輪がゆっくりと回り始める。
エドガーは曲がり角の内側へ先に立ち、後輪を見た。車体が傾くたびに、荷を覆う布の下で木箱が小さく鳴った。
「そのままでいい」
御者は前を向いたまま、片手をわずかに上げた。
後輪が濡れた轍の縁を通る。土が少し崩れたが、車輪は沈まずに進んだ。
エドガーは荷車から距離を保ち、足元を確かめながら坂を下りた。
平らな場所まで来て、ようやく御者が馬を止める。
「これなら、もう一台も通る」
「ああ。知らせてくる」
戻り際、商人が道の脇で靴底の泥を落としていた。
「歩くと、思ったより急だな」
「荷台だと分からない所もある」
「これからは坂で急かさないようにするよ」
エドガーは少し笑い、坂を上がった。
*
二台目も、同じ道を通した。
若い御者は父親から車輪を通す位置を聞くと、一度、坂の先を見てから手綱を取った。レオンは荷車の横へ近づき過ぎず、後方から様子を見ている。
一台目より時間はかかったが、途中で止まることはなかった。
下り終えた若い御者が、大きく息を吐いた。
「上から見ると、もっと狭く見えました」
「慣れても狭く見える時はある。そういう時は降りて見ればいい」
父親が言って、水袋を渡した。
馬を休ませる間に、人も遅めの昼食を取った。
パンに硬いチーズを挟み、干した果物を分ける。レオンは座る前に靴についた泥を木切れで落とし、それから荷台の縁へ腰を掛けた。
「何も起きなくてよかったですね」
「ああ」
「押すくらいなら、役に立てると思ったんですけど」
年配の御者が、パンを持ったまま笑った。
「はまった時には頼むよ。今日は馬も働けてるからな」
「じゃあ、出番がない方がいいですね」
レオンも笑った。
エドガーは水を飲み、坂の方を見上げた。
車輪の跡が二本ずつ、下まで続いている。
下見に歩いた分と、一台ずつ通した分だけ時間は使った。それでも、荷をほどいて泥の中から車輪を引き上げることを考えれば、十分に早い。
「今日の宿まで、あとどのくらいですか」
レオンが御者へ尋ねた。
「この先はそう悪い道じゃない。日が傾く頃には着くだろう」
「夕飯には間に合いそうですね」
「お前さんは、そこが気になるか」
「昼を食べたばかりなんですけどね」
商人まで笑った。
エドガーは残りのパンを口へ運び、休んでいる馬へ目をやった。
もう少し待ってから、出発すればいい。
*
村が見えてきたのは、畑の影が長くなり始めた頃だった。
街道の両側に畑が広がり、その向こうへ家々の屋根が寄り集まっている。畑から戻る男が、肩に担いでいた農具を持ち替え、荷馬車へ道を譲った。
年配の御者が挨拶をすると、男も手を上げた。
宿は村へ入ってすぐの所にあった。
通りに面した二階建てで、脇には荷馬車を入れる門がある。中庭の奥が厩になっていて、すでに一台、幌を掛けた荷馬車が止まっていた。
御者が声を掛けると、宿の主人が出てきた。
「二台だったな。奥の荷車は明日の朝には動かさないから、手前へ寄せてくれ」
「水場は変わってないか」
「ああ。桶は厩の横だ」
慣れたやり取りを聞きながら、エドガーは門の脇へ退いた。
レオンが反対側に立ち、車輪が門柱に触れないよう見ている。
二台を収めてから、商人と荷の縄を確かめた。坂で箱が少し寄っていたが、縄に緩みはない。布をめくって見える範囲にも、壊れた物はなかった。
「大丈夫そうだな」
商人が言った。
「明日の朝も確認しよう」
「ああ。先に部屋を聞いてくる」
御者の親子は馬を外し、レオンは頼まれた桶を運んでいる。
エドガーが自分の背負い袋を下ろした時、宿の裏口が開いた。
布を掛けた籠を抱えて、若い娘が出てきた。中庭を横切りかけ、その足が止まる。
「……エドガーさん?」
声に覚えがあった。
顔を見て、エドガーも思い出した。
「リゼか」
「お久しぶりです」
巡療会にいる、人間の娘だった。
以前会った時も、他の隊員と一緒に旅をしていた。魔物の死骸を処理しているところへ声を掛けられたのが、最初だったはずだ。
エドガーは背負い袋を肩に掛け直した。
「ここに泊まってるのか」
「はい。村の診療で。そちらは、お仕事ですか」
「ああ。ハーゼンまでの護衛だ」
リゼは荷馬車へ目を向け、頷いた。
「私たちも、この後はそちらへ向かう予定です。村をいくつか回ってからですけど」
町で巡療会の一隊が来ると聞いたのを思い出した。彼女たちのことだったのかもしれない。
「エドガーさん、荷物は――」
桶を置いたレオンが戻ってきて、リゼに気づいた。
「お知り合いですか」
「ああ。巡療会のリゼだ」
それから、リゼへ顔を向ける。
「一緒に護衛をしてる、レオン」
「レオンです。よろしくお願いします」
レオンが頭を下げると、リゼも籠を抱え直して会釈した。
「リゼです。よろしくお願いします」
彼女の視線が、一度エドガーへ戻った。
「今回は、お二人なんですね」
「ああ」
それ以上は尋ねられなかった。
裏口から、宿の女将が顔を出した。
「リゼちゃん、布はそれで足りそう?」
「はい、ありがとうございます。夕飯までには戻ります」
「急がなくていいよ。鍋は火に掛けておくから」
リゼは礼を言い、二人へ向き直った。
「まだ用があるので。また後で」
「ああ」
「お疲れさまです」
レオンに見送られ、リゼは門から村の中へ歩いていった。
エドガーもその背を少し見送った後、荷馬車へ向き直る。
「荷物だったな」
「はい。部屋に運びますか」
「部屋を聞いてからだ。先に靴の泥を落とそう」
「あ、それもそうですね」
入口の横に、泥落としの板が置いてあった。
二人で並び、靴底をこする。
開いた窓から、肉を焼く匂いが流れてきた。玉葱の甘い匂いも混じっている。
レオンが、ちらりと窓を見た。
「夕飯、楽しみだな」
「……顔に出てました?」
「さっきから気にしてただろう」
レオンは笑って、もう片方の靴を板へ載せた。
エドガーも泥を落とし終え、宿の扉を開けた。




