溝のある板
出発の三日前、エドガーは台所の卓に旅の荷を広げていた。
替えの衣類、火口箱、針と糸。雨に備える布は、畳む前に窓へ透かして穴を確かめた。
今回は道中も宿に泊まる予定だが、予定どおりに着けるとは限らない。外で一晩過ごす用意まで省く気にはならなかった。
玄関の扉が開いたのは、補修した布を袋へ収めた時だった。
「ただいま戻りました」
レオンが、布に包んだ物を抱えて入ってきた。
「剣はどうだった」
「柄は、あれでよさそうです。巻き革と鞘を仕上げてもらって、受け取るのは帰ってからにしました」
「そうか」
今朝、レオンは鍛冶屋へ行くと言って出かけていた。
抱えている物は、剣には見えない。
エドガーが目を向けると、レオンは卓の空いたところを指した。
「これ、置いてもいいですか」
「ああ」
布の中から出てきたのは、小さな木の板だった。
片面に、横向きの溝が何本も並んでいる。
エドガーは、袋の口を閉じる手を止めた。
見覚えのある形だった。
「何に使うんだ」
「洗濯です。ここへ布を当てて、擦れないかと思って」
レオンは溝のある面を掌で撫でた。
「鍛冶屋の後、ブルーノさんのところへ寄ってきたんです。先に小さいので試そうって話になっていて」
「作ってきたのか」
「ほとんど手伝ってもらいました。溝を揃えるのが難しくて」
近くで見ると、溝の幅にはわずかな違いがあった。角は丸めてあり、表面も丁寧に滑らかにしてある。
洗濯板。
名前はすぐに浮かんだが、エドガーは口に出さなかった。
*
試すのに使ったのは、掃除用に取ってあった古い布だった。
レオンが桶へ水を入れ、布を浸す。少量の石鹸をつけてから板に当てた。
擦るたび、板まで一緒に動く。
「ああ、押さえにくいな」
レオンは持つ位置を変えた。
小さな板なので、布を擦れる面も狭い。何度か試してから、片端を桶の底へつけ、斜めに支えた。
それで、ようやく動かしやすくなったらしい。
「こう持てばいいか」
「手が濡れると滑らんか」
「少し。大きくする時は、持つところを残した方がよさそうですね」
エドガーは桶のそばへしゃがんだ。
レオンが布をすすぎ、広げてみせる。
汚れは薄くなっていた。ただ、一度試しただけで、普段よりよく落ちたとは言い切れなかった。
「そっちも洗ってみろ。同じくらい汚れてる」
エドガーがまだ洗っていない端を示すと、レオンは頷いた。今度は板を使わず、手で揉んで洗う。
両方をすすぎ、並べた。
「落ち方は、そんなに変わりませんね」
「やりやすさは?」
「板が動かなければ、こっちの方が楽そうです。細かいところを洗うには」
レオンは濡れた布の表を確かめ、裏返した。
「引っかかったところは、なさそうかな」
「乾いてからも見た方がいいな」
「はい。ブルーノさんにも、服で試すのは後にしろって言われました」
布を干すために立ち上がったレオンを見送り、エドガーは板へ目を戻した。
この程度の木工なら、この世界の職人にもできる。
だが、これまで立ち寄った町や村で、同じ形の道具を見た記憶はなかった。
衣類を洗う場所も、道具を売る店も、それなりに見てきた。衛生に関する不便は、こちらで生まれ育ったからといって、何でも気にならなくなったわけではない。
どこかには、似た物があるのかもしれない。
自分の知らない土地は、いくらでもある。
それでも、レオンの持ち帰った板は、エドガーの前世の記憶にある物によく似ていた。
「エドガーさんも使ってみますか」
振り返ると、レオンが別の布を持って立っていた。
「ああ。貸してくれ」
エドガーは手を伸ばし、レオンが置いていたのと同じように板を桶へ立てかけた。
*
板を洗って乾かす頃には、窓から差す日の位置が変わっていた。
レオンは紙を出し、使ってみて気づいたことを書きつけている。
エドガーが見ている前では、こちらの文字だった。
持つところを広くする。
桶に収まる大きさを確かめる。
短く書いてから、横に板の絵を描き足す。
以前、レオンの書いた紙に、漢字を見かけたことがある。
その時のことが、また頭をよぎった。
文字だけなら、誰かから教わった可能性もあった。椅子の形だけなら、たまたま似た物を考えたのかもしれない。
今度は、洗濯に使う板だった。
「箱の方はどうした」
エドガーは、レオンの手が止まったところで尋ねた。
「そっちも作ります。ただ、こっちの方が早く使いたくなって」
「洗濯は、待ってくれんからな」
「そうなんです。前に袖口を洗い直してた時、何とかならないかと思って」
レオンは紙を持ち上げ、描いた板を眺めた。
「大きいのは、帰ってからですね。明日は道具の手入れもしたいので」
「ああ。出発前に、仕事を増やしすぎるなよ」
「箱も板も、逃げませんから」
そう言って笑い、紙を畳んだ。
エドガーはそれ以上、板の話を続けなかった。
今、尋ねたいことをそのまま口にすれば、道具の使い方を聞くだけでは済まなくなる。
レオンは何も気にした様子もなく、桶を片づけに行った。
*
翌日は、それぞれ旅に必要な物を買い足した。
エドガーは矢を整え、傷んだものを外しておいた。レオンは今まで使ってきた剣を研ぎに出し、その間に靴の縫い目を直していた。
同じ旅でも、互いに確かめる物は違う。
卓を使う時間が重なると、片方が道具を寄せる。荷を広げたまま食事の時間になれば、二人で片づけた。
出発前日には、ギルドへ道の様子を聞きに行った。
街道を塞ぐような被害の報告は入っていない。二つ目の宿場に近い坂道で、雨の後に轍が深くなっているという話があった。
エドガーは場所を聞き、荷主にも伝えた。
「そこは、御者も気にしていました。通る前に降りて確かめましょう」
店主はそう答え、予定どおり翌朝出ると告げた。
帰宅すると、レオンが台所の棚を覗いていた。
「玉葱は、これで最後ですか」
「ああ。今日使ってしまおう」
「卵と焼きます?」
「頼めるか。俺は水袋を見てくる」
夕食には、玉葱を炒めて卵を流したものと、パンを並べた。
塩気のあるチーズも残っていたので、薄く切って添える。
レオンは自分の皿を見てから、台所へ顔を向けた。
「帰ってきたら、まず買い物ですね」
「その日の飯くらいは、外で済ませてもいい」
「それもいいですね。疲れてたら、作るのも大変ですし」
食後、エドガーが食器を洗う間に、レオンは干していた布を取り込んだ。
洗濯板を試した布も混じっていた。
窓辺で広げていたレオンが、指で表面を撫でる。
「変に擦り切れたりは、してないみたいです」
「なら、持っていって見てもらえばいい」
「帰ってから、ブルーノさんに見せます」
布を畳み、試作品の板と一緒に棚へ置く。
その横に、作りかけの箱の図を重ねた。
*
朝、窓を開けると、通りにはまだ人が少なかった。
レオンが先に起きて、水を温めていた。
簡単に朝食を済ませ、荷を背負う。エドガーは火の始末を確かめてから、戸と窓を見て回った。
レオンは腰の剣を確かめ、玄関で待っている。
「忘れ物は?」
「ないと思います。昨日、二度見たので」
「なら行くか」
エドガーは戸を閉め、鍵をかけた。
通りへ出ると、パン屋の方から焼けた匂いが流れてきた。荷を積んだ手車が角を曲がり、石畳の上で車輪を鳴らしている。
レオンが隣へ並んだ。
「晴れましたね」
「ああ。道も少しは乾くだろう」
家に残した溝のある板が、ふと頭に浮かんだ。
あれを使えば、帰ってからの洗濯は少し楽になるかもしれない。
エドガーは隣の青年へ一度目をやり、それから集合場所へ続く通りを見た。
荷馬車のそばで、店主が手を上げていた。




