幕間 教わる楽しみ
洗ったシャツを広げると、袖口にまだ薄く汚れが残っていた。
レオンは日に透かし、少し迷ってから洗い桶へ戻した。
前の暮らしなら、洗剤をつけて洗濯機に放り込んでいた。洗っている間に朝食を済ませ、終わったら干す。それでも休日には、後でやろうと洗濯物を溜めたものだ。
今となっては、随分と贅沢な面倒くさがり方だった。
濡れた袖を両手で揉む。
旅の途中なら多少の汚れには目をつぶるが、家で洗える時くらいは落としておきたい。力任せに擦れば早く済むわけでもなく、先に布の方が傷みそうだった。
こういう時に使う板があったはずだ。
そこまで考えて、手が止まった。
洗濯板。
名前も、おおよその形も思い出せる。板の表面に溝が並び、そこへ濡れた衣類を擦りつける道具だった。
自分で使った記憶はない。溝がどのくらい深かったのかも曖昧だ。それでも、洗濯機を一から作ろうとするよりは、ずっと手が届きそうに思えた。
「そっちは終わりそうか」
先に洗い終えたエドガーが、空いた桶を持って声をかけた。
「これを干したら終わりです」
「昼は残ったパンでいいか。卵もある」
「はい。午後、少し出てきます」
「分かった」
レオンは袖口をすすぎ、汚れを確かめた。
さっきよりは薄くなっている。今日はこれくらいでいいだろう。
水を絞って干すと、シャツの裾が風に揺れた。
明日も晴れていれば、出かける前には取り込めそうだった。
*
昼食を済ませて向かったのは、ブルーノの工房だった。
開いた戸の向こうから、鉋を引く音がする。削られた木の匂いを吸うと、入り口に立っただけで何か作りたくなった。
ただ、今日は教わる約束をしていたわけではない。
レオンは戸口で声をかけ、作業が一区切りつくのを待った。
「どうした」
顔を上げたブルーノに、畳んだ紙を見せる。
「また教わりたいんですけど、空いてる日はありますか」
「何を作る」
「小さい箱です。道具を入れるような」
紙には、蓋のついた浅い箱を描いてあった。
中に仕切りを入れ、細かな物が混ざらないようにする。使う物だけ取り出して、卓の上へ置けるようにしたかった。
ブルーノは紙を受け取り、しばらく眺めた。
「家で使うのか」
「はい。持ち歩くのは、別にした方がいいかなと」
「中に入れる道具は?」
「……まだ、あまり持ってません」
「そっちを先に考えろ。入らなかったら、箱をもう一つ作ることになるぞ」
レオンは笑って頷いた。
形ばかり考えていた。
「今日は長くは見られんが、板の組み方くらいなら教えられる。端材でやるか」
「お願いします。教わる代金は、前と同じで大丈夫ですか」
「ああ。使う材料はこっちで選ぶ。箱に使う板を買うのは、寸法を決めてからだ」
金額を確かめてから、レオンは上着を脱いだ。
*
最初の線を引くところで、もう止められた。
「どこから測った」
「こっちの端です」
「次もそこから測れ。端を変えると、ずれるぞ」
ブルーノが二枚の板を並べる。
同じ幅に見えたが、端を揃えると、片方だけわずかに出ていた。
動画なら、ここは数秒で終わるところだった。
寸法を測り、印をつけ、鋸で切る。
見ている時には、その通りにやればできると思っていた。実際に手を動かすと、どちらの線を残すのか、何を基準に揃えるのか、一つずつ迷う。
前世で小さな棚を作った時もそうだった。
部屋の隅に収まる物が欲しくて、休みの日に板を買いに行った。店で見た時は手頃な大きさに思えたのに、持って帰る道では、何度も持ち替えることになった。
組み上げてから、棚が少し傾いているのに気づいた。
床のせいかもしれないと思い、置く場所を変えてみたが、どこへ動かしても同じだった。結局、脚の下に折った紙を挟んだ。
人に見せれば、買った方が早かったと言われたかもしれない。
それでも、本を並べて使い始めると、思っていた以上に気に入った。棚を買い替える理由はいくらでもあったのに、そのまま使い続けていた。
「刃を倒すな。腕だけで追うから曲がる」
ブルーノの声で、目の前へ意識を戻す。
足の位置を変え、切りかけた溝へ鋸を戻した。
「これくらいですか」
「そうだ。そのまま」
短い返事が、妙に分かりやすかった。
今、自分が間違えたところを見て、その場で言ってもらえる。見本を何度も再生して、自分の動きと比べる必要がない。
分からなければ聞けるし、聞く前に直されることもある。
切り終えた板を合わせると、角に細い隙間ができた。
「ああ、こっちが高いのか」
削ろうとすると、ブルーノが手を止めた。
「一度に落とすな。少しずつだ」
「はい」
身体強化があっても、こういうところは都合よく進まなかった。
力を込めれば削りすぎる。硬い木を切れることと、狙った形に仕上げることは別だった。
もう一度合わせると、さっきより隙間が小さくなった。
「さっきより合いました」
「まだ向こうが浮いてる」
「本当だ」
レオンは板を持ち上げ、光に透かした。
今度は言われる前に、高く残ったところが見えた。
*
練習が終わる頃には、作業台の端に小さな削り屑の山ができていた。
箱の形には、まだなっていない。二枚の板を合わせるところまでだった。
それでも、レオンは持ち帰っていいと言われた端材を、紙で包んだ。
「次は寸法を決めてこい。道具を増やすつもりなら、少し余裕を見ておけ」
「仕切りも外せるようにしたいんです」
「その話も次だ。まず外側を決めろ」
ブルーノは紙の絵を指で叩いた。
「決まったところから描き直せ」
「分かりました」
代金を払い、帰り支度をしながら、レオンは朝の洗濯を思い出した。
「もう一つ、相談してもいいですか」
「何だ」
「板に、浅い溝を何本も彫ることってできますよね。そこへ濡れた服を擦って洗いたいんですけど」
ブルーノの視線が、包んだ端材へ落ちた。
「それを使うつもりか」
「いえ、もっと大きい板で。桶に入れて使えるくらいの」
「水に浸けるなら、使う木も考えんとな」
レオンは箱の絵の脇に、板の形を描き足した。横向きの線を何本か引く。
「こんな感じです」
「角が立っていたら、布を傷めるぞ」
「そこは丸くしたいです。手で揉むより、少しでも楽にならないかと思って」
「溝の形次第だな。いきなり大きい物を作らず、まず小さいので試せ」
思い出した時には簡単そうに見えたが、話してみれば決めることがあった。
どの木を使うか。どのくらいの間隔で溝を彫るか。濡れた時、どれほど重くなるか。
形を覚えているだけで、作れるわけではない。
だが、相談できる相手はいる。
「次に来るまでに、もう少し考えてきます」
「ああ。試す布も持ってこい。着る服でいきなりやるなよ」
ブルーノに言われ、レオンは頷いた。
冒険者の仕事が入れば、次に来るまで少し空くかもしれない。それを伝えると、日程が分かってから知らせに来ればいいと言われた。
工房を出ても、指先に木の感触が残っていた。
*
通りを歩きながら、レオンは紙の包みを持ち直した。
箱ができたら、少しずつ道具を揃えたい。
小刀は欲しい。穴を開ける道具も、自分の物があれば便利だろう。だが、明日は剣を見る約束をしている。
鍛冶屋で持たせてもらった剣の重さを、まだ手が覚えていた。
前世のゲームなら、攻撃力の数字を見て買い替えられた。見た目が好きなら、多少性能が劣っていても使うことがあった。
実物は、もう少し悩ましい。
格好いいと思った剣が、手に合うとは限らない。自分の力なら振れる重さでも、振った後に戻しにくければ、その分だけ隙ができる。
五年間、剣を使ってきたから分かる違いもある。まだ使ってみなければ分からないこともある。
それでも、選ぶ楽しさは変わらなかった。
今より扱いやすい一本が手に入れば、できることが増えるかもしれない。遠くへ行くなら、その前に十分馴染ませておきたい。
そう考えるだけで、明日の店先が待ち遠しくなる。
道具も剣も、ただではない。
家賃と食費を払い、次の旅の備えも残した上で、何から買うか。
レオンは腰の財布へ触れ、少し笑った。
働く理由には困らなかった。
*
家へ戻ると、エドガーは卓で弩の手入れをしていた。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
レオンは荷を脇へ置き、紙の包みを開いた。
「ブルーノさんのところへ行ってきました。今日は、これだけですけど」
エドガーが手元の布を置く。
レオンは二枚の板を合わせて見せた。
「箱を作ろうと思って。その練習です」
「そこを組むのか」
「はい。こっちは一度削りすぎました」
隙間のある方を向けると、エドガーが顔を近づけた。
「後から埋められるのか」
「できなくはないそうですけど、今回は練習なので、もう一度やります」
「なるほどな」
それだけのやり取りだったが、見せてよかったと思った。
できあがった物なら、誰でも何に使うか分かる。
まだ箱にもなっていない板を見せて、どこが難しかったのか話せるのは嬉しかった。
洗濯に使う板のことは、もう少し形が決まってから話そう。まだ、自分でもうまくいくか分からない。
「明日は、朝飯の後でいいですか」
「ああ。店が開く頃に行こう」
「分かりました」
レオンは包みを持って、自分の部屋へ上がった。
机へ置く前に、板の隙間をもう一度確かめる。工房では小さくなったと思ったのに、こうして見ると、まだ目についた。
次は、もう少しうまくできるはずだ。
紙を広げ、箱の横へ欲しい道具を書き足していく。
その下に、新しい剣。
少し離して、旅のための金。
並べてみると、すぐには全部揃いそうにない。小刀の脇へ印をつけ、剣の予算を考えようとしたところで、昨日のエドガーの言葉を思い出した。
また一緒にどうだ。
仕事に誘われること自体は、初めてではない。
それでも、エドガーから言われたのは嬉しかった。
初めて二人で依頼を受けた時は、こちらから声をかけた。暮らす場所を貸してもらうことと、仕事を任せてもらうことは別だと思っていた。
昨日は、次も一緒にと向こうから言ってくれた。
今回の仕事ぶりを見て、また組んでもいいと思ってもらえたのかもしれない。
そう考えると、自然に頬が緩んだ。
そこで、机の端に置いた失敗した板が目に入った。
仕事で認められたかどうかも、まだ自分の想像だ。明日、浮かれて報酬の安い依頼に飛びついたら、呆れられるだろう。
レオンは紙へ視線を戻した。
行き先だけで決めない。
それでも、行ったことのない町へ続く依頼があれば、詳しく聞いてみたかった。
*
前世では、旅行の予定を立てるたび、まず休める日を確かめていた。
金曜日の仕事が終わってから出れば、少し遠くまで行ける。日曜日は早めに帰らないと、翌朝がつらい。
行きたい場所を調べているうちに、二泊では足りなくなり、結局一つ諦めることもあった。
あの暮らしが嫌だったわけではない。
仕事帰りに友人と食事をするのも、休みの日に何もせず過ごすのも好きだった。便利な物は沢山あったし、また食べたい物も、会いたい人もいる。
それでも今は、昔なら画面や本の中でしか見られなかった場所へ、自分の足で行ける。
街道を何日も歩けば足は痛む。雨が続けば寝具まで湿るし、魔物が出れば命に関わる。
五年も冒険者をしていれば、楽しいことばかりではないと知っている。
その上で、まだ行きたいと思っていた。
街の門を抜けた先に、何があるのか。
遠くから見えた山の向こうに、どんな人が暮らしているのか。
酒場で聞いた冒険者の話は、どこまで本当なのか。
自分もいつか、難しい依頼を任せてもらえるようになりたかった。仲間と相談して行き先を決め、帰ってきた時には、出発前より少しできることが増えている。そんな旅を、まだ続けたい。
ヨハンとマルタも、一緒に歩いた道を覚えているだろうか。
考えるまでもなく、覚えているはずだった。
それなのに、食事の時に何を話しているのか、朝は誰に起こされるのか、今はもう知らない。
レオンは筆を置いた。
二人が家へ帰ると決めた時、応援したいと思った気持ちは変わっていない。
けれど、面白いことがあると、先に二人へ話そうとしてしまう。
今日もブルーノに板のずれを指摘された時、マルタならすぐ見つけただろうと思った。ヨハンなら、少しくらい隙間があっても道具は逃げないと笑ったかもしれない。
そんな声まで、簡単に思い浮かぶ。
レオンは引き出しから、手紙用の紙を取り出した。
返事が届くのを待っている間に、また書いてもいい。
前の手紙と同じことを書かないよう少し考え、それからヨハンの名を記した。
最近、材木を運び出す仕事をしたこと。
今は箱作りを教わっていること。
帰り道にパンを買う時、ヨハンの実家の店では何を焼いているのか気になったこと。
そこまで書いて、最後に一文を足した。
また会った時は、朝に店へ行くから、一番うまく焼けた物を取っておいてほしい。
読み返すと、随分と勝手な注文だった。
だが、ヨハンなら何か言い返してくる気がした。それが楽しみだった。
マルタには、道具を入れる革袋のことを書こう。
寸法も決めずに頼めば、まずそこからだと叱られそうだ。買う道具が決まったら相談したい、と先に書いておけばいい。
まだ話したいことはあったが、階下から声がした。
「レオン、飯にするぞ」
「今、行きます」
レオンは筆を置き、書いたところの墨が乾くのを少し待った。
机の上には、作りかけですらない箱の図と、洗濯に使いたい板の絵がある。横には、旅に持っていく金の覚え書きも並んでいた。
留守にする間は、工作は進まない。
それでも帰ってきたら、続きを作れる。
宿を移るたびに持って歩かなくても、板も道具も、ここへ置いておけるのだった。
レオンは紙の端に重しを置き、椅子を引いた。
明日は剣を見て、その後は二人で依頼を探す。
手紙の続きは、夕食が済んでから書こうと思った。




