台所にもう一人
階下で、食器の触れ合う音がした。
エドガーは寝台の上で目を開けた。
窓の隙間は、もう明るい。
誰かが台所にいる。
そう思った後で、昨日からレオンが住んでいることを思い出した。
身体を起こし、椅子に掛けていた服を取る。廊下へ出ると、向かいの部屋の扉が開いていた。
棚には畳んだ服が収まり、壁際には背負い袋が置かれている。
昨日まで物置に使っていた部屋だった。
エドガーは階段へ向かった。
*
「おはようございます」
レオンはかまどの前にいた。
鍋から湯気が上がり、作業台には切ったパンが並んでいる。
「おはよう。早いな」
「明るくなったら目が覚めて。先に火を使わせてもらいました」
「ああ、構わん」
水差しから水を注いで飲む。
台所の窓は開けられ、庭に積んだ木材が見えた。椅子の部材に掛けた布は、昨日のままだ。
「昨日の煮込み、温めてます。朝に食べてもよかったですか?」
「そのつもりだった。助かる」
「じゃあ、パンも焼きますね」
レオンは火の具合を見て、薪を一本動かした。
手つきに迷いはない。
エドガーは食器棚から皿を出した。二枚重ねて持ち、卓へ置く。
戻ったところで、レオンが振り返った。
「パンを切るナイフ、これで合ってました?」
「ああ」
「洗って、そこに置いてあります」
作業台の端に、木の柄のナイフがあった。
エドガーは空の右手を見た。
一人の時なら、必要な形の刃物をその場で作っていた。使い終われば消せるので、洗い物も減る。
今朝も、残ったパンを切ろうとして、いつものように手を出しかけた。
ナイフを取り、二切れ足した。
こういうことも、気をつけなければならない。
「その厚さの方がよかったですか?」
「いや。腹が減っただけだ」
「なら、もう少し焼きます」
レオンは切った分を受け取った。
どうして、一緒に住むなんて言ったのだろう。
焼けるパンを見ながら、ふと考えた。
家に人がいれば、気を使うことは増える。そんなことは、誘う前から分かっていたはずだった。
「エドガーさん、そこの布、取ってもらえます?」
「ああ」
鍋を下ろすための布を渡す。
レオンが両手で鍋を持ち、エドガーは卓の鍋敷きを寄せた。
*
「今日は仕事か?」
食べ始めてから尋ねると、レオンは頷いた。
「ギルドへ行きます。まだ受けてないので、何があるか見てからですね」
「そうか」
「エドガーさんは?」
「午前中に矢を受け取りに行く。後は、道具の手入れだな」
買ってある弩の矢が、そろそろ出来上がる。
使わずに済む仕事も多いが、携帯するだけというわけにはいかない。傷んだ物を入れ替え、数をそろえておく必要があった。
「帰りに卵を買ってきます。昨夜の、六つで」
「ああ。金を渡す」
「ほかに何かあります?」
「今のところはないな」
レオンは頷き、パンを煮込みに浸した。
「昼は外で食べます。仕事によっては、夕方までかかるかもしれません」
「俺も昼は出る。夕飯は戻ってからでいいか」
「はい。遅くなる仕事なら、受ける前に一度知らせに来ます」
エドガーは匙を動かしながら聞いた。
何時までに帰れとも、毎晩一緒に食べろとも決めていない。
それでも予定を知っていれば、鍋の量を考えられる。自分も外で食べるなら、一言伝えて出ればいい。
そこまで考えてから、こんな相談をする朝は久しぶりだと思った。
「この煮込み、昨日より味が馴染んでますね」
「少し水を足したか?」
「煮詰まりそうだったので」
「ちょうどいい」
レオンが鍋へ手を伸ばした。
「まだ食べます?」
「半分残してくれ」
残っていた分を二人で分けた。
*
レオンが火を起こしたので、皿はエドガーが洗った。
その間にレオンは庭へ出て、作りかけの椅子を確かめていた。戻ってくると手を洗い、上着を取る。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ」
卵の代金を渡すと、レオンは普段の財布と分けてしまった。
「釣りは帰ってから渡します」
「頼む」
扉が閉まった。
エドガーは洗った皿を拭き、棚へ戻した。
火を落とした台所は静かだった。
卓の向こうに、さっきまでレオンの使っていた椅子がある。背もたれが少し斜めになっていたので、手を掛けて直した。
部屋は余っていた。
借り手がいれば、家賃も入る。レオンも宿代を抑えられる。
そう考えれば、悪い話ではない。
だが、家を買った時には、人へ貸すつもりなどなかった。
椅子を作る場所なら、庭を使ってもらうだけでよかった。食事に呼びたければ、そう言えば済んだ。
それなのに、宿の話を聞いた時、空いている部屋のことが口から出た。
エドガーは布巾を畳んだ。
あの文字を見たせいだろうか。
図面の端に書かれていた、日本語。
こちらへ生まれてから三十五年も経つのに、読もうとするまでもなく意味が分かった。字の形だけで、昔使っていた机や、紙の手触りまで思い出しかけた。
あれについて、レオンには何も尋ねていない。
尋ねれば、自分が読める理由も話さなければならなくなる。
話すつもりはないまま、同じ家には住もうとしている。
自分でも、妙なことをしたと思った。
しばらく卓の前に立っていたが、考えはまとまらなかった。
窓から風が入り、掛けてある布が揺れた。
そろそろ出ないと、店が昼の休みに入ってしまう。
エドガーは窓を閉め、上着を取りに行った。
*
注文した矢を受け取り、昼は通りの店で済ませた。
帰宅後は弩の弦と留め具を確かめ、使った矢の羽を見直した。
途中で庭へ出て、小さな刃物を生成した。
細く裂けた革紐の端をそろえ、すぐに消す。
使うところを見られたくなければ、場所を選べばいい。
エドガーは切りそろえた紐を指で挟んだ。
手間ではある。
だが、そのためにレオンへ出ていってもらおうとは思わなかった。
紐を道具袋へ収め、次の矢を取った。
*
日が傾き始めた頃、玄関の扉が開いた。
「戻りました」
レオンが包みを抱えて入ってきた。
「おかえり。仕事はあったか?」
「倉庫の荷運びが。昼過ぎには終わったんですが、市場と、紙を売ってる店に寄ってきました」
作業台へ卵の包みを置き、小銭を取り出す。
「これ、お釣りです」
「ああ」
受け取る間に、レオンは懐から畳んだ紙も出した。
「手紙か?」
「実家と、前に組んでた二人に。しばらくここに住むって、知らせておこうと思って」
エドガーは頷いた。
「返事はギルドへ預けてもらえばいい。留守にしても受け取れる」
「そうします」
卵をしまっていると、レオンが作業台の上の矢へ目を向けた。
「それ、今日受け取ってきた分ですか?」
「いや、前から使ってるやつだ。こっちが新しい方」
二本並べて見せると、レオンは羽の付け根を覗き込んだ。
「結構、傷むんですね」
「茂みに落とすと、こうなる。見つからんこともあるしな」
「矢を探すの、時間かかりますよね。前の仲間にも、踏むなってよく言われました」
エドガーは手元の羽を整えた。
「踏んだのか」
「一度だけ。探すのを手伝ってたんですけど」
「それは言われるな」
レオンが苦笑した。
エドガーも笑い、手入れを終えた矢を箱へ戻す。
「卵、今夜使っていいですか?」
「何にする?」
「玉ねぎと焼こうかと。昼に見た店で出してて、うまそうだったんです」
「玉ねぎなら、そこの籠にある」
レオンが袖をまくった。
エドガーは卓に広げていた道具を片づけ、代わりにまな板を出した。
誘った理由は、まだうまく説明できない。
けれど今夜何を食べるかは、もう決まった。
「切るのは俺がやる。火を頼む」
「はい」
レオンがかまどの前へしゃがんだ。
エドガーは作業台の端から、木の柄のナイフを取った。




