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幕間 まだ見たいものがある・後編


「冒険者になりたい」


 十五歳になった年、夕食の後でそう言うと、父は椅子に座り直した。


 母は拭きかけの皿を持ったまま、レオンを見た。


「街へ行くのとは違うぞ」


 父が言った。


「分かってる」

「何が分かってるんだ」


 怒鳴られたわけではなかった。


 だからこそ、レオンもすぐには答えられなかった。


 魔物と戦うことがある。怪我もする。仕事がなければ金も入らない。


 知っていることを一つずつ話すと、父は最後まで聞いた。


「泊まる所は?」

「街の宿に」

「一晩いくらだ」

「それは、まだ」


 父は頷いた。


「まず、そこから調べてこい」


     *


 一度話して、許してもらえるとは思っていなかった。


 父に連れられて街へ行くたび、ギルドへ寄った。登録の仕方を聞き、初めてでも受けられる仕事を教えてもらう。


 紹介された宿で値段を尋ね、食事代も確かめた。


 日雇いの仕事だけで暮らせるか計算すると、思っていたほど金は残らなかった。


 剣を一本買えば終わりでもない。靴も、雨をしのぐ外套も、手入れの道具もいる。


 畑を手伝いながら、村へ来る護衛に頼んで剣の扱いを教わった。


 力任せに振れば、木剣は速く動いた。


 だが、空振りの後、構え直す前に肩を叩かれた。


「今ので終わりだ」


 もう一度頼むと、今度は足を払われた。


 土を落として立ち上がり、また向かっていった。


 教わったことを父に話すと、どこを打たれたのかと聞かれた。


 上達したところも聞いてほしかったが、父は先に怪我を確かめた。


     *


 家を出る朝、荷物は前の晩から入口に置いてあった。


 父は背負い袋の留め具を引き、水袋の口を確かめた。


「自分でも見たよ」

「もう一度見たって減るもんじゃない」


 母が食べ物の包みを渡してきた。


 受け取ると、思ったより重かった。


「こんなに?」

「今日の分と、明日の朝の分」

「宿でも食べられるって」

「じゃあ、昼に食べなさい」


 背負い袋の上へ包みを収める。


 最初の街までは、顔見知りの行商人と一緒に行く。泊まる宿も決めてある。しばらくは街の中の仕事を受け、剣の稽古を続ける約束だった。


 何度も話したことなのに、父はもう一度だけ確かめた。


 レオンは一つずつ頷いた。


 外から、行商人の呼ぶ声がした。


「じゃあ、行ってくる」


 荷物を背負うと、母が襟の折れたところを直した。


 父は入口を空けてから、言った。


「いつでも帰ってこい」

「うん。街で何か買ってくる」

「土産がなくても帰ってこいってことだ」


 レオンは父を見た。


 父はいつもの仕事着を着ていた。今日も、これから畑へ行くのだろう。


「分かった」


 今度は、そう答えた。


 村の道を歩きながら振り返ると、二人はまだ家の前にいた。


 手を上げる。


 母が大きく振り返した。


     *


 最初にもらった報酬は、倉庫の荷運びだった。


 働いて金を受け取ること自体は、前にもしていた。


 それでも、掌に置かれた硬貨を見ると嬉しかった。


 宿代と食事代を分け、残った分を数える。すぐに剣を新調できる額ではなかったが、少しずつ貯めればいい。


 翌日も同じ倉庫へ行くと、昨日より重い荷が待っていた。


 仕事を覚えるにつれ、街の外へ出る依頼も受けるようになった。


 初めて討伐に同行した日は、帰ってから服を洗うだけで日が暮れた。泥が乾いて縫い目に入り込み、何度すすいでも水が濁った。


 それでも翌朝には、また依頼の掲示板を見に行った。


 そこでよく顔を合わせる二人と、自然に仕事を組むようになった。


 槍を使う青年のヨハンは、パン屋の息子だった。野営の朝、硬くなったパンを少し湿らせて焼き直してくれた。


 弓を持つマルタは、革細工屋の娘だった。レオンの背負い袋を見るなり、肩紐の縫い目が切れかけていると指摘した。


「まだ使えると思うけど」

「切れてからじゃ、中身を拾うことになるよ」


 その晩、直し方を教わった。


 針を通す場所がずれ、三度やり直した。


 ヨハンは横でパンを食べながら眺めていた。


「自分のも見といた方がいいよ」

「昨日直してもらった」


 レオンが顔を上げると、マルタがもう一本、針を出した。


「次から二人とも自分でやってね」


     *


 三人で、いくつもの街を回った。


 川沿いの街では、仕事のない日に船へ乗った。対岸へ渡るだけの短い船旅だったが、岸が離れていくのをいつまでも眺めた。


 山の街では、坂道の多さにヨハンが文句を言った。


 海を初めて見たマルタは、波打ち際で靴を濡らした。レオンが笑うと、次の波で自分も濡れた。


 楽な仕事ばかりではなかった。


 雨で川が増水し、足止めされたこともある。依頼先で聞いていた数より魔物が多く、他の冒険者を呼びに戻ったこともあった。


 戦いでは、レオンが前へ出ることが増えた。


 二人が避ける攻撃を受け止めても、踏みとどまれる。傷の治りも早く、長く動けた。


 もっと難しい依頼を受けられるのではないかと思うこともあった。


 掲示板の前でそう言うと、ヨハンは報酬を見た後、依頼の場所と魔物の名を確かめた。


「今の三人なら、こっちだろ」


 指したのは、いつも受けている程度の仕事だった。


 レオンは少し迷い、それから頷いた。


 仕事の後、三人で飯を食べながら次に行く街を決める。


 その時間が好きだった。


 何年も一緒にいるうちに、宿を探す時には、誰に言われなくても三人分の空きを尋ねるようになった。


 朝はマルタが先に起き、レオンが荷物をまとめている間に、ヨハンが食堂の様子を見に行く。出発が早ければ、前の晩に買っておいたパンを分けた。


 食事の好みも、疲れた時に口数が減るのが誰かも、いつの間にか覚えていた。


 それが毎日続いていることを、特別に考えたことはなかった。


     *


 ヨハンが家へ戻ると話したのは、宿の食堂が空き始めた頃だった。


「次の護衛が終わったら、帰ろうと思う」


 レオンは杯を置いた。


「何かあった?」

「いや。前から考えてたんだ」


 ヨハンは卓上のパンをちぎった。


「この前の街で、窯を見せてもらっただろ」

「ああ。ずっと出てこなかった時?」

「そんなに長くなかった」

「昼を食べ損ねたよ」


 ヨハンは笑ってから、手元へ目を落とした。


「父さんにも見せたかったんだ。あの窯も、焼き方も。帰ったら、試してみたい」


 旅の途中、ヨハンはパン屋を見つけると必ず覗いていた。


 食べ歩きが好きなのだと思っていたが、それだけではなかったらしい。


「店、継ぐの?」

「そのつもり。すぐ任せてもらえるとは思わないけどな」


 向かいにいたマルタが、杯を両手で包んだ。


「私も、そろそろ帰りたい」


 レオンは彼女を見た。


 家から手紙が来ていたことは知っている。店を手伝ってほしいと書かれていたことも、聞いていた。


 ただ、こんなに近い話だとは思っていなかった。


「旅用の袋を作りたいんだ。実際に使ってみると、変えたいところが結構あって」


 マルタは足元の背負い袋を持ち上げた。


 途中で縫い足した小さな物入れが、脇についている。


「これ、店でも作る?」

「もう少し直してから」

「できたら買うよ」

「まだ値段も決めてないのに」

「高かったら、その時に考える」


 三人で笑った。


 話が途切れると、厨房で皿を重ねる音が聞こえた。


 レオンは杯を持ち直したが、飲まずに置いた。


 次の街を決めるつもりだった。


 北へ向かう街道が通れるようになったと聞いていたから、その話をしようと思っていた。ヨハンなら道中の宿を気にするだろう。マルタは、途中にある市へ寄りたがるかもしれない。


 そこまで、勝手に考えていた。


「あと一つくらい、別の街を回ってからでも……」


 言いかけて、二人の顔を見た。


 ヨハンは困ったように眉を下げていた。マルタもすぐには答えなかった。


 引き止めれば、考えてくれるかもしれない。


 けれど、一つ回れば、また次へ行きたくなる。それはレオン自身がよく分かっていた。


「ごめん。今のは、こっちの都合だな」


 ヨハンが首を振った。


「急に言ったからな」

「ううん。手紙の話も聞いてたのに、まだ先だと思ってた」


 レオンは背もたれに身体を預けた。


 二人のやりたいことを応援したかった。それは本当だった。


 同じくらい、まだ一緒にいたかった。


「寂しくなるよ」


 言ってしまうと、さっきまで笑えていたのが不思議なくらい、胸が詰まった。


 マルタが伏せていた目を上げた。


「私も」


 ヨハンはちぎったパンを皿へ戻し、小さく頷いた。


 しばらく、誰も次の話をしなかった。


 レオンは卓の木目を見ながら、初めて三人で受けた仕事を思い出していた。報酬を分ける時、小銭が足りず、食事代と一緒に何度も計算し直した。


 あの時は、こんなに長く組むとは思っていなかった。


 いつの間にか、次も三人でいるつもりになっていた。


「レオンは、どうする?」


 少しして、ヨハンが聞いた。


 実家へ戻れば、きっと喜んでもらえる。畑の仕事もある。


 それでも、まだ行っていない街があった。


 今より難しい討伐をこなし、自分の腕がどこまで通じるのかも確かめたかった。


「もう少し、続けるよ」


 二人は頷いた。


「じゃあ、有名になったら店を宣伝してくれ」

「パン屋を?」

「そう。ここのパンを食べて育ったって」

「育ってないだろ」


 ヨハンは、旅の間に何度食べさせたと思っているのだと言った。


 レオンは笑った。


 今度は少し、うまく笑えた。


     *


 受けていた依頼を終え、共用の道具を分けた。


 鍋には、ヨハンが一度焦がした跡が残っていた。砥石は三人で使って、買った時より随分薄くなっている。


 どれも手に取れば、何かしら話が出た。


 昼までに終わらせるつもりが、窓から差す光が傾くまでかかった。


 マルタは故郷へ向かう商隊の護衛に加わることになった。


 出発の朝、彼女はレオンの背負い袋の肩紐を引いた。


「ここ、そろそろ縫い直してね」

「分かってる。次に会うまでには」

「それだと遅い」


 いつもの調子で言った後、マルタは手を離した。


「二人とも、元気で」


 レオンは頷きかけて、一歩近づいた。


「マルタも」


 差し出した手を、彼女が強く握った。


 商隊が動き出し、並んで歩く姿が遠ざかる。マルタは一度振り返り、それからもう一度振り返って手を振った。


 見えなくなっても、レオンはしばらくその場にいた。


「行くか」


 隣でヨハンが言った。


「うん」


 二人で宿へ戻った。


 昼の食事を頼む時、ヨハンが三人分と言いかけて、二人分に直した。


 レオンも、向かいの空いた椅子へ置きかけた荷物を引き寄せた。


 もう、席を取っておく必要はなかった。


     *


 ヨハンの故郷へは、二人で向かった。


 道中は、以前と変わらず話した。


 昼にパンを食べれば、ヨハンは乾いていると文句を言った。坂道では、やはり口数が減った。


 それを見て笑うたび、レオンは、あと何日で着くのかを考えた。


 町の門が見えた時には、着いたという喜びより先に、もう着いてしまったと思った。


 ヨハンの家のパン屋では、朝早くから明かりがついていた。


 迎えに出た父親とヨハンが並ぶと、肩の幅も笑い方もよく似ていた。


 二晩泊めてもらった。


 翌朝、粉のついた仕事着で店の奥から出てきたヨハンを見て、レオンはようやく、彼がここで暮らしていくのだと実感した。


 出発の日には、袋いっぱいのパンを渡された。


「多くない?」

「足りるだろ」

「多いって言ってるんだよ」


 ヨハンは笑った。


 レオンは袋の口を閉じ、背負い袋へ収めた。


 これで、出発できた。


 それなのに、肩紐を直したり、剣の位置を確かめたりして、なかなか歩き出せなかった。


「……じゃあ」


 顔を上げると、ヨハンも何か言おうとしていた。


 二人で少し笑った。


「また来いよ」

「うん。次は、自分で焼いたやつを食べさせて」

「今日のにも入ってる」

「どれ?」

「少し形の悪いやつ」


 レオンは袋を見た。


 さっき、ずいぶん不揃いだと思った。そのことを口にしなくてよかった。


「ちゃんと食べて、感想送る」

「ああ」


 握った手には、槍を使ってきた硬いまめがあった。


 何度も荷物を渡し、引き上げてもらい、稽古で向かい合った手だった。


 レオンは強く握ってから、離した。


     *


 一人になった街道は、思っていたより静かだった。


 歩く速さを合わせる必要がない。立ち止まっても、誰にも声をかけなくていい。


 分かれ道の標識を見て、レオンは横を向いた。


 どちらへ行くか相談する相手は、もういなかった。


 昼になり、道から外れた休憩場所でパンを出した。


 少しつぶれた形の物を選ぶ。


 焼き色は濃かったが、中は柔らかかった。


「うまいな」


 声に出してから、返事がないことに気づいた。


 ヨハンがいれば、どこが違うのか説明しただろう。マルタなら、食べながらではなく、飲み込んでから話せと言ったかもしれない。


 レオンはパンを膝に置いた。


 店を出る時には笑って別れられた。


 今になって、喉の奥が詰まった。


 三人で旅をしていた間、こんな昼が何度もあった。その時は、仕事の話をして、食べて、また歩き出すだけだった。


 もう一度あの卓につきたいと思った。


 行き先が決まらず、いつまでも話していた夜へ戻りたかった。


 目元を袖で拭い、残りのパンを食べた。


 食べ終わっても、すぐには立たなかった。


 休憩を終えて荷物を背負う時、肩紐のほつれが目に入った。


 次の宿で直そう。


 ヨハンにも、マルタにも、手紙を書こうと思った。


     *


 空になった背負い袋を、レオンは持ち上げた。


 底に小さな木屑が残っている。


 庭で椅子を作っていた時に入ったのだろう。指でつまみ、掃除で集めたごみの包みへ落とした。


 ここはフェルデンの、エドガーの家だった。


 夕食を済ませ、借りた部屋で最後の荷物を片づけている。


 着替えは棚へ収めた。剣と短剣は、寝台の脇に置いた。


 宿を移る時と、荷物の量は変わらない。


 ただ、今日は袋へ戻すつもりで物を置かなくてよかった。


 肩紐には、自分で縫い直した跡がある。


 マルタに見せれば、縫い目が揃っていないと言われそうだった。それでも、今のところほつれてはいない。


 階下で戸を閉める音がした。


 続いて、窓の留め具を確かめる音がする。


 エドガーは戸締まりをしているらしい。


 少し細かいところはある。


 椅子を作る時も、戸口を通るのか、材料はどこへ置くのかと、先にいくつも聞かれた。


 けれど、話は聞いてくれた。


 作りたい物を説明すれば、図面を覗き込み、分からないところを尋ねてくる。大工を紹介してくれて、出来上がった椅子は買ってくれた。


 まさか、その椅子のある家に住むことになるとは思わなかった。


 レオンは棚へ置いた紙を一枚取り出した。


 まだ完成していない、揺れる椅子の図面だった。


 明日は庭の材料を確かめよう。


 その前に、ギルドにも顔を出したい。


 階段を上がる足音がして、開いた扉の前で止まった。


「片づいたか?」

「はい。明日、帰りに市場へ寄るつもりなんですけど、何か買ってきます?」

「卵が欲しいな。代金は朝、渡す」

「六つくらい?」

「それでいい」


 エドガーは部屋を一度見て、頷いた。


「おやすみ」

「おやすみなさい」


 足音が隣の部屋へ消えた。


 レオンは図面を棚へ戻し、寝台へ腰を下ろした。


 実家にも、二人にも、手紙を書こう。


 しばらく滞在する街が決まったことと、宿から引っ越したこと。自分で椅子を作って、買ってもらったこと。


 ヨハンのパンはどうなっただろう。マルタはもう、新しい袋を作り始めているだろうか。


 返事を受け取る場所も、今なら知らせられる。


 レオンは明日買う物に、手紙用の紙を加えた。

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