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幕間 まだ見たいものがある・前編

洗濯機が止まった音で、顔を上げた。


 焼いた食パンを最後の一口まで食べ、皿を流しへ運ぶ。水につけてから、ベランダに洗濯物を干した。


 空は晴れていた。


 友人との待ち合わせまで、まだ一時間ほどある。


 部屋へ戻り、壁際の板を見た。先週の日曜に切って、やすりをかけたところで終わっている。


 本棚を一つ、増やすつもりだった。


 市販の物では机と壁の隙間にうまく収まらない。なら作ればいいと思って始めたのだが、板をまっすぐ切るだけでも案外難しかった。


 床に座り、二枚の板を合わせてみる。


 少しずれている。


 組み立てれば気にならないかもしれない。いや、毎日見る場所だから、たぶん気になる。


 帰りに、もう一度やすりを買おう。


 携帯電話が鳴った。


『昼、何食べる?』


 友人からだった。


『駅の裏のカレーは?』

『この前もカレーだったろ』

『じゃあ任せる』


 返事を送り、板を壁際へ戻す。


 二十四歳になっていた。


 会社勤めにも慣れ、給料から家賃や生活費を引いた後、どれくらい遊びに使えるかも分かってきた。


 面倒な仕事はあったし、休み明けの朝は眠かった。それでも、仕事帰りに同僚と食事をしたり、週末に友人と出かけたりする暮らしは、悪くなかった。


 やりたいことは、いくつもあった。


 途中まで進めたゲーム。読みかけの小説。友人と話している、少し遠くへの旅行。


 棚ができたら、今度は小さな机も作ってみたい。


 財布と鍵を確かめ、玄関で靴を履いた。


 今日は帰りが遅くなるかもしれない。棚の続きは、明日でもよかった。


     *


 駅へ向かう途中の交差点だった。


 信号が青に変わり、前にいた人に続いて歩き出した。


 横から、クラクションが聞こえた。


 顔を向ける。


 車が、近かった。


 避けようとしたのか、立ち止まったのか。


 そこから先は、覚えていない。


     *


 次に目を開けた時、知らない女の人が泣いていた。


 すぐ近くに顔がある。


 何かを言っているが、言葉が分からない。


 病院だろうか。


 身体を起こそうとしても、思うように動かなかった。声を出そうとすると、喉から頼りない音が漏れた。


 視界の端に、小さな手が見えた。


 指を動かそうとすると、その手が動いた。


 何度試しても、同じだった。


 女の人が身体を抱き寄せる。


 温かかった。


 何が起きたのか考えようとしているうちに、ひどく眠くなった。


     *


 自分が赤ん坊になったのだと認めるまでには、時間がかかった。


 目が覚める。腹が減る。泣く。抱き上げられる。


 考えている途中で眠り、次に起きた時には、さっきまで何を考えていたのかも曖昧になった。


 夢にしては、腹が減った。


 放っておかれると心細くなったし、誰かが来れば安心した。


 毎日そばにいる女の人が母親で、夕方になると顔を覗き込んでくる男の人が父親らしい。


 二人は何度も、同じ言葉で呼びかけた。


 レオン。


 それが自分の名前だと、やがて分かった。


 部屋には照明も、テレビもなかった。夜は小さな明かりが灯され、窓の外を通る車の音もしない。


 言葉を少しずつ覚え、家の中を歩けるようになっても、知っている国の名前は聞こえてこなかった。


 そしてある日、父に抱かれて出た村の道で、荷車を引く獣を見た。


 馬に似ていた。


 ただ、額に短い角が二本あり、首から背にかけて鱗が並んでいた。


 レオンは父の服をつかんだ。


 獣が通り過ぎるまで、目を離せなかった。


 父は怖がったと思ったらしい。背中を軽く叩き、道の端へ下がった。


 もう少し近くで見たかった。


 そう伝えられないのが、もどかしかった。


     *


 前の家を思い出すことはあった。


 両親はどうしているだろう。


 待ち合わせていた友人は、あの日、どれくらい待っただろう。


 夜中に目が覚め、携帯電話を探すつもりで手を伸ばしたこともある。


 そこには毛布しかなかった。


 一度だけ、母に日本語で話しかけた。


 母は首を傾げ、それから膝の上へ抱き上げてくれた。


 伝わらないのだと分かった。


 それでも、背中を撫でられているうちに、少し落ち着いた。


 前の暮らしを忘れたわけではない。


 けれど、こちらでも毎日、朝が来た。


 腹が減り、食卓に呼ばれ、外へ出れば近所の子供が遊んでいた。


 知らなかった言葉が分かるようになり、昨日まで届かなかった棚に手が届いた。


 父と母は、当たり前のようにそこにいた。


     *


「そっちは、まだ抜くなよ」


 父に言われ、レオンは伸ばしかけた手を止めた。


「こっちと何が違うの?」

「葉の根元を見ろ。太さが違うだろう」


 隣り合う二株を見比べる。


 言われれば、確かに違っていた。


 父が一つ抜いて見せた。土の中から、丸々とした根菜が現れる。


 レオンも真似をして引いた。


 勢いがつきすぎて、尻餅をついた。


 父が笑った。


「抜けたら、そこで力を緩めるんだ」

「先に言ってよ」

「今、覚えただろ」


 立ち上がって尻の土を払う。


 次は転ばなかった。


 家の畑を手伝うのは、嫌いではなかった。


 種をまいた場所から芽が出て、少しずつ葉が増える。雨が続けば父は空を気にし、晴れが続けば水を運ぶ回数が増えた。


 前の暮らしでは、野菜が高くなった理由を、買い物の時に少し考える程度だった。


 今は、雨の降り方で食卓が変わった。


 収穫した物を運び、洗い、母の横で皮をむく。


 初めて小刀を持たせてもらった時は、妙に緊張した。使い方を知っていても、子供の手では勝手が違う。


 皮を厚くむきすぎて、母に止められた。


「それじゃ、食べるところがなくなるよ」


 隣で父が笑ったので、いちばん小さくなった物を父の皿に入れておいた。


     *


 畑仕事の後でも、一人だけ元気が残っていることが増えた。


 水桶を運ぶのが楽になり、坂道を走っても息が切れにくい。


 最初は、この世界の子供はみんなそうなのだと思った。


 けれど、同い年の子と荷物を運ぶと、そうではないと分かった。


「レオン、こっちも持てる?」


 頼まれれば、引き受けた。


 重い袋を運ぶと大人が驚き、礼を言ってくれる。


 役に立てるのは嬉しかった。


 父には、持てるからといって一度に積むなと叱られた。袋で足元が見えなくなっていた。


 中身をこぼせば拾うのは自分だと言われ、次からは二度に分けた。


 村では、知らないことを教えてくれる人がいくらでもいた。


 道具の柄が緩めば直し方を見せてもらい、刃物が切れなくなれば研ぐところを覗いた。


 知っているつもりのことでも、やってみるとうまくいかない。


 それが面白かった。


     *


 村へ来る行商人は、荷物のほかにも話を持ってきた。


 川を行き交う大きな船。


 村の家を全部並べても届かないほど長い城壁。


 人間だけでなく、耳の長い者や、獣の耳を持つ者が行き交う街。


 話を聞くたび、レオンの質問は増えた。


「そこまで何日かかる?」

「荷車なら十日だな。雨が降れば、もっとだ」

「船には乗れる?」

「金を払えばな」

「魔物は出る?」


 商人は隣に座っていた護衛を指した。


「出ることもある。だから、この人たちに頼むんだ」


 護衛の男は、欠けた茶碗を片手に苦笑した。


「見物に行くようなもんじゃないぞ」

「でも、いろんな街に行くんでしょう?」

「ああ。それは行く」


 レオンは、男が壁に立てかけた剣を見た。


 飾りではなかった。鞘には擦れた跡があり、握りの革も黒ずんでいる。


 ゲームや本の中にあったものが、この人の毎日の仕事になっていた。


 その晩、父に街までの道を尋ねた。


 父は食事の手を止めた。


「行きたいのか?」

「見てみたい」


 父は少し考え、次に作物を売りに行く時は連れていくと言った。


「朝は早いぞ」

「起きる」

「途中で眠くなっても、帰れないからな」

「起きるって」


 母が、まずは明日の朝から一人で起きてみなさいと言った。


 レオンは頷いた。


 寝床に入ってからも、しばらく眠れなかった。


 街へ行ったら、何から見よう。


 市場も、鍛冶屋も、冒険者の集まる場所も見たかった。


 聞きたいことを順番に考えているうちに、窓の外が少し明るくなった。


 結局、その朝も母に起こされた。

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