覚えている文字
レオンが図を持ってきたのは、三日後だった。
ギルドで会った時に、午後なら家にいると伝えておいた。約束より少し早く、戸を叩く音がした。
「二つ、考えてみました」
挨拶を済ませると、レオンは丸めた紙を卓へ広げた。
一つは、座面の低い椅子だった。
幅が広く、背もたれは少し後ろへ傾いている。肘掛けもあり、座る所には厚い敷物が描き込まれていた。
「足を上げて座れるようにしたいんです。靴は脱ぎますけど」
「ずいぶん幅を取るな」
「このくらいあると、姿勢を変えられるので」
レオンが両手で広さを示す。
エドガーは紙へ目を戻した。
前の世界なら、家具を売る店に置いてあっても不思議ではない形だった。だが、こちらで見たことがあるかと言われると、思い当たらなかった。
「宿に置けるのか」
「置けても、かなり狭くなると思います」
「作ってから困るなよ」
「はい。ただ、一度こういうのを作ってみたくて。できたら、宿の女将さんにも相談してみます」
作る方へ気持ちが向いているらしかった。
エドガーはもう一枚の紙を指した。
「そっちは?」
「こっちです」
レオンが紙を横へずらした。
次の椅子には、脚の下に弓なりの木が描かれていた。
「揺れるのか」
「はい。前と後ろに、少しだけ」
レオンは紙の端を指で押さえ、反対の手をゆっくり傾けた。
「揺り籠みたいな感じです。ただ、大人が座るので、この曲がってる所をどう作るかが難しそうで」
ロッキングチェア。
名前は口に出さなかった。
エドガーは絵を眺めたまま、椅子の上で足を組み替えた。
「こっちも自分で使うのか」
「こっちは、エドガーさんにどうかなと思って」
「俺に?」
「足を伸ばして座りたいって言ってたでしょう。揺れるのが嫌なら、普通の脚でもいいんですけど」
エドガーは少し考えた。
窓際へ置くなら、前後に動く分の場所は取れる。床も直したばかりだった。
「面白そうではあるな」
「じゃあ、これも大工さんに聞いてみませんか」
「材料代と手間賃を聞いてからだぞ」
「はい。それで」
エドガーは、揺れる椅子の絵を指した。
「こっちの費用は俺が出す。俺が使う物だからな」
「分かりました。もう一つは、俺が作りたい物なので、自分で払います」
「お前に作ってもらう分の手間賃も決めないとな」
レオンは首を振った。
「俺の分はいいですよ。庭を使わせてもらうし、道具や材料も置かせてもらうので。その代わりでどうですか」
「簡単には終わらんかもしれんぞ」
「自分でも作ってみたいんです。ただ、仕事の合間になるので、そこは待ってもらえれば」
「それは構わん。急いで欲しい物でもないからな」
エドガーは二枚の図を見比べた。
「大工に頼む分は、椅子ごとに分けて聞こう。予算に収まるか確かめてから決めるぞ」
「はい」
レオンは頷き、紙をまとめた。
*
ブルーノの工房では、二人の職人が長い板を運んでいた。
通り道を空けて待っていると、奥から本人が出てきた。
「今度は何だ」
「椅子の相談だ。前に話しただろ」
「家の次は家具か。そっちの若いのは?」
レオンが名乗り、頭を下げた。
ブルーノは革の前掛けで手を拭き、空いている作業台を示した。
「見せてみろ」
図を広げる。
ブルーノは低い椅子の方から見た。
「この幅なら、下にも支えが要る。座る所は板か?」
「そのつもりでした。上に厚い布を敷いて」
「敷く物の厚さも考えて、高さを決めろよ。板だけで座りやすくして、後から高くなると足が落ち着かん」
レオンが頷き、紙の余白へ書き込んだ。
こちらの文字だった。
エドガーは隣で、作業台に置かれた木片を見ていた。
「お前が使うのは、こっちか」
ブルーノが揺れる椅子を指す。
「ああ。できるならな」
「作ることはできる。だが、絵のとおりに切って、すぐ座らせるわけにはいかんぞ」
「ひっくり返るか」
「そこを確かめるんだ。座る位置でも変わるからな」
ブルーノはレオンへ目を向けた。
「どこまで自分でやりたい?」
「できる所は。つなぐ所や、曲がった脚は教えてもらいたいです」
「教える時間も、ただじゃないぞ」
「はい。それも含めて、費用を教えてください」
「なら、まず寸法を決めろ。木はそれからだ」
追い返す口調ではなかった。
ブルーノは棚から短い板を取ってきて、座面と背もたれに見立てて並べた。
レオンが覗き込む。
エドガーも椅子を勧められ、座った時の膝の高さを測られた。
家具を頼みに来て、こんなふうに身体を測られるとは思わなかった。
「足をもう少し前へ出せ」
「こうか」
「それで楽か?」
「ああ」
レオンが横から確かめ、図に線を引き直した。
*
工房を出る頃には、作る順番と、おおよその費用が決まっていた。
先にレオンの椅子を作り、木のつなぎ方を教わる。揺れる方は、ブルーノに脚の部分を頼むことになった。
材料代と加工賃は、それぞれの椅子の分を払う。レオンが教わるための費用は、本人が持つことにした。
「思ったより、決めることが多いですね」
レオンが言った。
「座ってから壊れるよりいい」
「ええ。聞いてよかったです」
エドガーは自分の分の費用を書いた紙を懐へ収めた。
安くはない。
だが、毎日使う物なら、払えない額でもなかった。
「うちへ戻って、置く場所を測るか」
「そうですね。揺れる分も空けておかないと」
*
家へ戻ると、レオンは図を卓へ広げ直した。
エドガーが窓際の椅子を動かし、その前へ立つ。
「この辺りか」
「もう少し壁から離したいです。後ろへ揺れた時に、背もたれが当たるかもしれないので」
場所を確かめ、紐で幅を取った。
レオンはその長さを紙へ写し、持ってきた物差しと見比べた。
修正を重ねた紙の下から、もう一枚、折った紙が滑り出た。
初めに描いた下書きらしかった。
同じ椅子の横に、小さな文字が並んでいる。
エドガーは手を止めた。
背もたれ。
座面。
肘掛け。
線の脇に添えられた、短い言葉だった。
こちらの世界で覚えた文字ではなかった。
「この辺まで出ますけど、通れます?」
レオンが床を指していた。
エドガーはそちらを見た。
「ああ。そこなら大丈夫だ」
返事をしてから、もう一度紙へ目を落とす。
長い間、目にしていなかった。
それでも、読めた。
形の崩れた「座」の字も、続けて書かれた平仮名も、見間違えるものではなかった。
日本語だった。
*
レオンは気づかず、図を重ねた。
下書きの文字が隠れる。
「こっちは、あまり綺麗に描けてないんで。新しい方にまとめてきます」
「……そうか」
エドガーは卓から手を離した。
最初に会った時、立ち上がって頭を下げたこと。
見覚えのある椅子の形。
それだけなら、気にも留めずに済んだ。
だが、あの文字は違う。
「エドガーさん?」
「ああ。茶を淹れようと思ってな」
「あ、俺やりますよ。水、ここですよね」
「いい。座ってろ」
エドガーは鍋を取った。
水を移し、竈の前へしゃがむ。
薪の細いところを選びながら、背後の音を聞いていた。紙を畳む音。椅子を引く音。
聞けばいい。
あの文字を、どこで覚えたのかと。
しかし、返ってくる答えを想像したところで、次に自分が何を言うのか決められなかった。
なぜ読めるのか。
同じ所から来たのか。
そこまで話すつもりで、椅子の相談をしていたわけではない。
「明日は仕事か」
火がついたのを確かめてから、エドガーは立ち上がった。
「はい。朝から出ます。戻るのは夕方の予定ですけど、作業は別の日にします」
「そうだな」
「エドガーさんは?」
「俺も、明日は留守だ」
それは本当だった。
レオンは頷き、図を袋へしまった。
*
茶を出すと、レオンは礼を言って杯を受け取った。
材料をどこまで工房で切ってもらうか。道具を買うなら何から揃えるか。
話は、先ほどの続きに戻った。
エドガーは相槌を打ち、知っている店を二つ教えた。
目の前の青年は、嬉しそうに聞いていた。
何も変わっていない。
少なくとも、レオンにとっては。
帰り際、エドガーは戸口で声をかけた。
「次に来る日は、昼飯を食わずに来い」
レオンが振り返った。
「いいんですか」
「どうせ作る。二人分でも、大して変わらん」
「じゃあ、何か持ってきます」
「材料を買う前に言えよ。献立が決まらなくなる」
「分かりました」
レオンは笑って、通りへ出ていった。
戸を閉めた後、エドガーは卓へ戻った。
図は持ち帰られていた。
何もない天板へ、指で「座」と書いてみる。
途中で止まり、少し考えてから、残りを書いた。
それから手を引き、二つの杯を洗い場へ運んだ。




