帰れる場所
トマスが宿へ戻る日、荷物は思っていたより少なかった。
背負い袋が一つ。毛布と着替えをまとめた包み。それに、剣と革鎧。
エドガーが最後に盤を持ち上げると、隣の寝台の男が名残惜しそうに言った。
「そいつも持っていくのか」
「また来る時に持ってきますよ」
トマスが答える。
「次は負けんぞ」
「それ、昨日も聞きました」
二人が笑う間に、エドガーは駒の袋を盤と一緒に包んだ。
*
宿の女将が用意したのは、一階の奥にある部屋だった。
以前の部屋より狭いが、階段を使わずに済む。洗い場も近かった。
「水差しは、空になったら食堂へ持っておいで。重けりゃ声をかけな」
「ありがとうございます」
「礼はいいから、困ったことを黙ってないでおくれ」
女将が出ていくと、トマスは寝台へ腰を下ろした。
エドガーは壁際に荷を置く。剣もその横へ立てかけた。
「他に出す物は?」
「着替えだけ。鎧は、まだしまっておきます」
紐をほどき、棚へ収める。
窓を開けると、裏庭で洗濯物を取り込む音が聞こえた。治療院の薬の匂いは、もうしない。
トマスは部屋を見回してから、息をついた。
「落ち着きますね」
「飯も選べるぞ」
「それが一番ありがたいです」
「治療院じゃ食ってなかったのか」
「食ってましたよ。ただ、同じ煮込みが続くと、焼いた肉が恋しくなります」
エドガーは空になった包みを畳んだ。
「今度、うちへ来るか」
トマスが顔を上げた。
「いいんですか」
「肉くらい焼ける」
「じゃあ、お願いします」
*
それから二週間ほど、トマスは宿から治療院へ通った。
エドガーは日帰りの仕事をいくつかこなし、一度は二泊の討伐へ出た。
戻って宿へ寄ると、トマスが食堂で若い冒険者の荷物を見ていた。
「予備の紐は、底じゃなくて上に入れとけ。荷がほどけた時、全部出すことになるぞ」
見覚えのある若者だった。畑の調査へ連れていった一人だ。
若者は頷き、袋の中身を並べ直した。
「これでいいですか」
「ああ。雨除けの布も、すぐ取れるようにな」
エドガーは向かいの空いた席に座った。
「今度はどこへ行くんだ」
「東の村です。柵の修理をする人たちの護衛で」
若者が答えた。
出発日と帰る予定を聞くと、今度は迷わず返事があった。
トマスは横から何も言わず、水を飲んでいた。
若者が荷をまとめて出ていくと、食堂が少し静かになった。
「よく来るのか」
「時々。仕事の帰りに話を聞かせてくれるんです」
トマスは杯を左手で卓へ置いた。
右手の添え木は外れていた。指は曲がっていたが、杯には添えなかった。
「手はどうだ」
「軽い物なら持てます。ただ、力を入れると痛むところがあって。握ったつもりでも、緩むんです」
「医者は?」
「まだ良くなる余地はある、と。でも、どこまで戻るかは約束できないそうです」
エドガーは頷いた。
すぐに掛ける言葉は出てこなかった。
トマスは困ったように笑うでもなく、卓の上の右手を見ていた。
「剣は、まだ試してません。許可も出てないんで」
「ああ。焦ることはない」
「ええ」
短く答えてから、トマスは懐へ左手を入れた。
「家から返事が来ました」
*
手紙には、違う筆跡で二人分の文章があった。
読んでもいいと言われ、エドガーは紙を受け取った。
父親の文は短かった。
治療を続けること。金が足りなければ知らせること。帰るつもりなら、迎えを頼める商人がいること。
その下に、兄からの文が続いていた。
父は相変わらず山へ入っているが、重い物を運ぶのは人に任せるようになった。仕事は忙しい。人手は欲しいが、手が落ち着くまでは養生していろ、とあった。
村の誰が屋根を直したとか、道のぬかるみに荷車がはまったとか、そんな話も書いてあった。
「親父さん、山には入ってても、重い物は任せるようになったんだな」
「兄がうるさく言ったんでしょうね。前は、自分で運んだ方が早いって聞かなかったんで」
代筆した時にも、父の働き方を気にしていた。エドガーはそのやり取りを思い出し、父親の短い文へ目を戻した。
「お前のことも、心配してるな」
「父は、心配している時ほど手紙が短いんです」
トマスが言った。
「怒ってる時は、もっと長いんで」
エドガーは手紙を返した。
「帰ることも考えてるのか」
「……考えてます」
トマスは紙の折り目を指で押さえた。
「まだ決めたわけじゃないですけど」
*
その日の夕方、トマスはエドガーの家へ来た。
約束どおり肉を焼き、柔らかく煮た根菜を添えた。肉は卓へ出す前に切り分けておいた。
トマスは左手でフォークを持ち、一口食べた。
「これですよ」
「何がだ」
「焼いた肉」
「そんなに食いたかったなら、もっと早く言え」
「宿でも食べました。でも、こっちの方が好きです」
「そりゃどうも」
エドガーも腰を下ろした。
食事の間は、若い冒険者たちの話をした。荷物を詰めすぎることや、安い靴を買って修理代の方が高くついたこと。トマス自身にも、身に覚えがあるらしかった。
皿が空く頃、トマスが部屋の隅へ目を向けた。
エドガーの弩が、壁に掛かっていた。
「弩を覚えれば、って考えたんです」
「右手の代わりにか」
「ええ。剣よりはと思って。でも、弦を引くにも、矢を扱うにも手は使いますよね」
「ああ。撃つところだけじゃ済まん」
「ですよね」
エドガーは杯を置いた。
「別の武器を覚えることはできる。だが、今の手で何ができるか分からんうちに、次を決めてもな」
「そうなんです」
トマスは小さく頷いた。
「武器を変えたとして、前と同じように動けるまで、どれくらいかかるのか。それで、また街の外へ出たいのかって考えると……まだ、自分でも分からなくて」
エドガーは急かさず、続きを待った。
「兄が一人で売り先を回ることが増えたって、前に話したでしょう。材の数を合わせたり、買い手と話したり、そっちなら手伝えるんじゃないかと思うんです」
「街を回ってきた分、昔より分かることもあるだろうな」
「ええ。それに、村の連中にも教えられることはありそうです。獣の跡とか、見張りの置き方とか」
トマスはそこで言葉を切った。
「……帰る話ばかりしてますね」
「考えてるんだろ」
「そうですね」
窓の外を荷車が通った。車輪の音が遠ざかるまで、二人とも黙っていた。
「仕事は、好きなんです」
トマスが言った。
「知ってる」
「だから、戻れるなら戻りたい気もある。でも、家の手紙を読んだ時、ほっとしたんですよ」
エドガーは頷いた。
「帰ってもいいんだな、って」
*
食後、トマスが皿へ手を伸ばしたので、エドガーは台所を指した。
「運ぶだけでいい。洗うのはやる」
「じゃあ、そうします」
一枚ずつ運び終えると、トマスは卓へ戻った。
エドガーは洗い桶に皿を浸し、袖をまくった。
「次に家へ書く時は、帰ったら何ができるか聞いてみます」
背後から声がした。
「まだ、帰るとは決めずに」
「それでいいんじゃないか」
「ええ」
エドガーは皿を洗い、布で拭いた。
振り返ると、トマスは持ってきた手紙を広げていた。兄の書いた長い方を、もう一度読んでいる。
湯を沸かし、二人分の茶を淹れた。
今夜は、もう少し話していくつもりらしかった。




