手紙を書く日
翌日、トマスは持ってきた盤を見るなり、少し身体を起こした。
「これ、宿でよくやってました」
「なら、教えてくれ。並べ方を忘れた」
「忘れたのに買ってきたんですか」
「お前なら知ってると思ってな」
エドガーは先に革袋を渡した。
トマスは左手で中を確かめ、櫛を取り出した。何度か髪を梳かし、指で後ろを押さえる。
「変なところ、あります?」
「右の後ろ」
「ここ?」
「もう少し上だ」
ようやく寝癖が落ち着くと、トマスは櫛を袋へ戻した。
「これで人前に出られます」
「昨日も出てたぞ」
「昨日のことは忘れてください」
寝台の横にある小卓を寄せ、盤を置く。
トマスが左手で駒を並べ始めたので、エドガーも向かい側を同じように並べた。
*
三度目に負けたところで、エドガーは腕を組んだ。
「お前、暇になる前から強かっただろ」
「だから、宿でよくやってたって言ったじゃないですか」
トマスが取った駒を盤の端へ並べる。
「エドさんは、こっちを守りすぎなんですよ。動かさないから、ここの道が塞がる」
「開けると入ってくるだろ」
「入られても取り返せます。全部防ごうとすると、動けなくなりますよ」
指で示された場所を見れば、確かに駒が詰まっていた。
エドガーは一つ動かしてみた。
「これなら?」
「さっきなら、それでよかったです」
「今は?」
「もう負けてます」
トマスが笑った。
隣の寝台からも小さく笑う声がした。見ると、脚に添え木を当てた年配の男が、こちらを眺めていた。
「次、相手してもらっていいかい」
「どうぞ。こいつは置いていくんで」
エドガーが答えると、トマスは盤を見た。
「いいんですか」
「暇潰しに買ってきたんだ。使ってくれ」
水差しを取り、空になったトマスの杯へ注ぐ。
卓へ戻そうとすると、トマスが左手を伸ばした。エドガーは杯をその手へ渡し、飲み終わるのを待って盤を片づけた。
*
その後も、エドガーは仕事の合間に治療院へ寄った。
毎日ではない。
街を離れる依頼もあれば、戻ったところで着替えと睡眠を先にしたい日もあった。
数日ぶりに顔を出すと、盤の相手が増えていた。隣の寝台の男だけでなく、見舞いに来た冒険者まで加わり、誰が何勝したかを小さな木札に刻んでいる。
トマスはそれを見せながら言った。
「エドさんの分も、つけておきました」
「三敗だけじゃないか」
「続きをやれば増やせますよ」
「勝ちを増やしたいんだが」
「それは頑張ってもらわないと」
よく話し、食事も取っていた。
ただ、右手の話になると、返事をするまでに少し間が空くことがあった。
エドガーは、来るたびに具合を尋ねるのをやめた。代わりに仕事で見たものや、ギルドで会った連中の話をした。
トマスの方から手のことを話す日は、そのまま聞いた。
*
十日ほど経った午後、トマスは寝台を離れ、部屋の窓際に座っていた。
右手の包帯は薄くなっていたが、まだ添え木が当てられている。
「近いうちに、宿へ戻っていいそうです」
「手は?」
「こっちへ通って診てもらいます。寝泊まりまで、ここでする必要はなくなったって」
エドガーは持ってきた包みを卓へ置いた。頼まれていた替えの肌着だった。
「部屋は取れたのか」
「前の宿に。女将さんが昨日来てくれたんで、頼みました」
「なら、荷物を運ぶ時は呼べ」
「お願いします。自分で持つと、また怒られそうなんで」
トマスは窓の外へ目を向けた。
庭では、職員が洗った布を干していた。籠から持ち上げた白い布が、風を受けて膨らむ。
「……家にも、知らせておこうと思って」
「怪我のことか」
「ええ。まだ言ってないんです。治るまでに手紙が着くかもしれないと思ってたんですけど」
膝の上の右手を見る。
「何も言わないまま、人づてに聞くのも嫌でしょうし」
「手紙は書けるか」
「左で試したんですが、ひどい字で。読めなくはないと思うんですけど」
卓の端に、小さな紙があった。
文字の大きさが揃わず、途中から行が斜めになっている。何度か書き直した跡もあった。
「書こうか」
エドガーが言うと、トマスは少し迷ってから頷いた。
「頼んでもいいですか」
「ああ」
*
受付で筆記具を借り、紙を買った。
エドガーが戻ると、トマスは椅子を卓へ寄せて待っていた。
「誰宛てだ」
「父です。家族で読むと思いますけど」
宛名を聞き、書き留める。
その下でペンを止めると、トマスはしばらく考えた。
「こちらは変わりなく……いや、変わってますね」
「そうだな」
「怪我をした、から始めると驚きますよね」
「今は飯も食えて、歩けると先に書いとけばいい」
「それでお願いします」
エドガーは、聞いたとおりに書いた。
仕事中に右手を怪我したこと。
治療を受け、もうすぐ宿へ戻ること。
しばらく仕事を休むが、生活のための蓄えはあること。
指の具合は、引き続き診てもらうこと。
「そこまでで、一度読んでもらえますか」
読み上げると、トマスは頷いた。
「それなら、大丈夫そうですね」
「他には?」
「家の方は変わりないかと。それと……父が、まだ自分で山に入ってるか」
「木を伐りに?」
「ええ。人を雇ってるんだから、全部自分でやらなくてもいいのに」
トマスの実家は、村で木材を扱っていた。
伐った木を集め、使い道に合わせて分け、買い手へ渡す。子供の頃は、父について山へ入ったり、運び出した材を数えたりしていたという。
「人のことは言えんな」
「今は休んでますよ」
「今だけだろ」
トマスは笑い、やがて卓の上へ目を戻した。
「材を売りに行く時、前は父と兄で手分けしてたんです。最近は兄が一人で回ることが増えたらしくて」
「忙しいのか」
「前の手紙では、そう書いてました。ちゃんと飯を食ってるといいんですけど」
「それも書くか」
「お願いします。兄宛てに」
書き足してから、エドガーは紙をトマスの前へ滑らせた。
トマスは初めからゆっくりと読み、途中で一か所を指した。
「ここ、『心配しなくていい』じゃなくて、『また具合を知らせる』にしてください」
エドガーは顔を上げた。
「心配は、するでしょうから」
「ああ」
その部分を直し、最後に署名の場所を空けた。
トマスは左手でペンを持った。紙が動かないようエドガーが端を押さえる。
時間をかけて、自分の名前を書いた。
*
「返事は宿に届くようにしておくか」
「ええ。それでお願いします」
インクが乾くまで待ち、手紙を折る。
エドガーは帰りに、手紙を扱う商会へ寄ることにした。故郷へ向かう荷に託せるか、まず確かめる必要がある。
「助かりました」
「返事が来たら、教えてくれ」
「父の小言まで読みます?」
「そこは自分で読め」
トマスは声を立てて笑った。
手紙を濡れないよう包み、背負い袋へ収める。
帰り際、トマスは左手を上げた。
「次は一勝、取りに来てください」
「覚えとけよ」
エドガーは部屋を出た。
今日はまだ商会が開いている。ギルドへ行く前に、そちらへ足を向けた。




