空いた椅子
採集の護衛から戻った翌日、エドガーは一人で受けられる討伐の依頼を選んだ。
場所も相手も、経験のある範囲だった。
準備をして出かけ、魔物を仕留め、処分を済ませて帰る。報酬を受け取り、足りなくなった食料を買う。
そうした日を幾度か挟むうちに、三週間が過ぎた。
*
「帰ったら、まず靴屋だな」
隣を歩く男が、右足を少し持ち上げて言った。
街道の護衛をよく引き受ける、古馴染みのオットーだった。五十を過ぎても仕事を続けているが、最近は泊まる場所の決まった依頼しか受けない。
「底が剥がれたのか」
「まだだ。だが、右だけ水が入る」
「縫い目じゃないか」
「靴屋もそう言ってた」
「直せよ」
「今回が終わったら持ってこいと言われたんだよ」
オットーが笑った。
二人の前では、布地を積んだ荷車がゆっくりと進んでいる。
近隣の町との往復で五日。帰りに一度雨に降られたが、それ以外に困ったことはなかった。
街の門をくぐると、エドガーは肩の荷を掛け直した。
商会で荷下ろしを見届け、依頼の完了を確かめる。そこからギルドへ向かう途中、オットーは本当に靴屋へ寄った。
「先に行っててくれ」
「報酬を受け取る前に使うのか」
「使う先が決まってるだけだ」
エドガーは手を上げ、一人でギルドへ向かった。
*
窓口のマルクは、完了の書付に目を通してから顔を上げた。
「予定どおりだな」
「ああ。途中の道も問題なかった。オットーは靴の修理だ」
「本人が来たら、そっちの分も渡す」
差し出された報酬を確かめ、受け取る。
エドガーが窓口を離れようとした時、マルクが声を落とした。
「トマスのことは聞いたか」
「何かあったのか」
「仕事で怪我をした。一昨日、戻ってきてる」
エドガーは袋の口を結ぶ手を止めた。
「どこにいる」
「西通りの治療院だ。見舞いには行ける。お前が戻ったら、居場所を伝えてくれと言われてる」
「……分かった」
「詳しいことは、本人から聞いてくれ」
エドガーは頷き、背負い袋を担ぎ直した。
*
治療院の受付で名前を告げると、荷物を置いて手を洗うように言われた。
案内された部屋には寝台が三つあり、そのうち二つが使われていた。
トマスは窓際にいた。
背中に丸めた毛布を当て、身体を起こしている。顔色は思ったほど悪くない。エドガーに気づくと、いつものように笑った。
「お帰りなさい。早かったですね」
「今、ギルドで聞いた」
「それじゃ、帰り道ですか」
「ああ」
寝台の横に椅子が一脚あった。
エドガーはそこへ腰を下ろし、トマスの右手へ目を向けた。
指の付け根から手首にかけて、厚く布が巻かれている。添え木ごと、腹の前に置いた枕へ載せていた。
「右か」
「ええ。利き手の方をやりました」
「何があった」
「山道の護衛です。斜面から石が落ちてきて、荷車の馬が暴れたんです」
トマスは左手で、掛け布の端を直した。
「道の山側に寄ったところで、足元が崩れて。倒れた時に、右手が岩の間へ入ったらしいです。引き抜く前に、上からもう一つ」
「一緒にいた連中は?」
「皆、帰ってます。御者が頭を切りましたが、そっちは縫ってもらって。ひどいのは俺だけですね」
軽く言ってから、トマスは包帯へ視線を落とした。
エドガーも、しばらく黙っていた。
「医者は何と?」
「骨は治してもらいました。ただ、指を動かす方は、まだ分からないそうです。腫れが引くのを待って、少しずつ確かめるって」
「そうか」
「今すぐ試すなと、何度も言われました」
「言われたとおりにしとけ」
「してますよ」
トマスは左手を上げてみせた。
右手は動かさなかった。
*
しばらくすると、治療院の職員が水差しを替えに来た。
食事は取れているかと尋ねられ、トマスは頷いた。夜は痛みで目が覚めることがあるらしく、後で薬を持ってくるという話になった。
職員が出ていくのを待って、エドガーは聞いた。
「金は足りてるか」
「貯めてあります。すぐ困るほどじゃないです」
「宿の荷物は?」
「仲間がまとめてくれました。部屋は一度引き払って、荷だけ預けてます」
必要なことは、すでに手をつけていた。
エドガーは椅子の背へ体重を預けた。
「何か持ってくる物はあるか」
トマスは少し考えた。
「櫛を。荷物に入れたままで」
「お前、そんなに髪を気にしてたか」
「手で直すのと、櫛で梳かすのじゃ違いますよ」
寝癖のついた後頭部を、左手で撫でる。
「宿の女将に言えば分かると思います。小物を入れた革袋があるんで、それを」
「分かった」
「あと、暇を潰せるものがあれば」
「字の細かい帳簿でも借りてくるか」
「それなら、天井を見てます」
エドガーは笑った。
トマスも笑ったが、すぐに息を吐いて寝台へ背を戻した。
疲れたのだろう。先ほどより瞼が重そうだった。
「今日は帰る。また明日来る」
「忙しかったら、櫛だけ預けてくれれば」
「明日は空いてる」
椅子を元の位置へ戻す。
入口へ向かいかけたところで、トマスが声をかけた。
「エドさん」
「何だ」
「前に村へ連れていった二人、覚えてます?」
「ああ。畑の調査の時の」
「昨日、来たんです。今度は自分たちで、同じ村の依頼を受けたって」
「そうか」
「泊まる場所も、先に聞いたそうです」
トマスは少し得意そうに笑った。
「なら、教えた甲斐があったな」
「ええ」
*
治療院を出ると、通りは夕飯の買い物をする人で混み始めていた。
エドガーはトマスの泊まっていた宿へ寄り、女将に事情を伝えた。
預かっている荷物のうち、小物の袋だけなら渡していいと、トマスから話があったらしい。女将は奥から革袋を持ってきて、受け取りの帳面を開いた。
「どうだった?」
「話はできた。飯も食ってるそうだ」
「そうかい。あの子、何でも大丈夫って言うからね」
エドガーは名前を書き、袋を受け取った。
家へ戻る前に、露店で小さな盤と木の駒を買った。
酒場でよく見かける陣取り遊びだ。片手でも動かせるし、途中でやめても構わない。
*
家へ着く頃には、日が傾いていた。
窓を開け、旅の荷をほどく。洗うものと、手入れするものを分けた。
卓の端には、トマスの革袋と、買ってきた盤を置いた。
エドガーは水を飲み、椅子に腰を下ろした。
あの手で、また剣を握れるのか。
考えても、答えは出なかった。医者にもまだ分からないというものを、ここで決めつけても仕方がない。
目の前の盤を引き寄せ、包みから駒を出す。
最後に遊んだのは、随分前だった。まずは並べ方を思い出さなければならない。
エドガーは向かいの席にも駒を置いた。
明日は、トマスに聞けばいい。




