踏み込む者
翌朝、レオンは集落に残ることになった。
傷は浅いが、腕を大きく動かせば開く。手当てをした男の説明を聞き、レオンは頷いた。
「分かりました」
エドガーは必要な荷物だけをまとめ、弩の弦を確かめた。
腰掛けに座っていたレオンが顔を上げる。
「気をつけてください」
「ああ。戻ったら話す」
外へ出ると、ヨストが待っていた。
エドガーは歩きながら、昨日のレオンの動きを思い返した。
前へ出ると言った時、任せられると思った。
牙犬を斬った速さも、石を軽々と運ぶ力も知っていた。あの身体なら、敵を横へ向けて戻ってこられると見積もった。
相手は、見たこともない魔物だった。
レオンには、何を見て足りると決めたのかと尋ねた。
自分も、同じ問いから逃げられなかった。
弩を持つ手に力が入る。
あいつなら大丈夫だと、勝手に決めた。
その結果を見た時、自分が何を間違えたのか分かった。
遅かった。
「エドガー。こっちだ」
ヨストの声に顔を上げる。
「ああ」
握っていた手を一度緩め、歩調を合わせた。
*
魔物が見つかったのは、昨日の掘り跡に近い場所だった。
ヨストと、ヴィクトルの仲間である獣人の弓手が姿を確かめた。犬の耳を持つその男は、キリアンと名乗った。
「倒木の向こうだ。牙犬を食ってる」
キリアンが木の間を指した。
エドガーは幹の陰から覗いた。
今度は、身体の形がよく見えた。
頭はアナグマに似ていた。幅広い額から太く短い鼻先が突き出し、小さな丸い耳が泥の中に埋もれている。
ただし、その口はアナグマよりもずっと大きい。
顎が動くたび、咥えた牙犬の身体が揺れた。
胴は荷車の荷台ほどもある。腹が地面に近く、後ろ脚は短い。そこから太い尾が伸び、落ち葉の上へ横たわっていた。
後半身に比べ、肩と前脚が異様に大きかった。
立ち上がれば、肩はエドガーの胸近くまで来る。短い首の両脇に筋肉が盛り上がり、その表を硬い瘤のような隆起が覆っている。
前脚の先は、土を掻くための幅広い手だった。
その内側に、一本ずつ長い鉤爪が畳まれていた。
レオンを引っかけた爪だ。
左頬には、昨日ヨストが射た矢の折れた軸が残っている。
エドガーは息を吐いた。
胸の奥が、じりじりと熱くなっていた。
*
集落と退路の警戒を残し、討伐に当たる者が集まった。
ヴィクトルの五人に、エドガーとヨスト。
アデラは後方の道で待ち、退いてきた者を迎える。
倒木の手前には、かつて木を伐ったらしい空き地があった。切り株はあるが、人が動く幅は十分に取れる。
「ここへ出す」
ヴィクトルが言った。
「ベルタが前。マティアスは脇から。爪を振らせても、戻るまで入るな」
盾を持つドワーフの女と、槍を持つ男が頷く。
「イレーネ、前衛が下がる時に壁を頼む」
「間を空けて。近すぎると、そっちまで巻き込むから」
杖を持つ若い女が、土の露出した場所を見た。
エドガーは弩へ矢を置いた。
「顔を撃って、こっちへ向ける」
「頼む。キリアンは反対側から。ヨストは周囲を見てくれ」
それぞれが位置につく。
エドガーは幹へ肩を寄せ、狙いを定めた。
昨日のように、傷をつけただけで帰るつもりはなかった。
ただし、そのために誰かを傷つけるつもりもない。
前に立つ二人の位置を確かめ、引き金を引いた。
*
矢が顎の付け根へ刺さった。
魔物が咥えていた牙犬を落とす。
頭を振ったところへ、キリアンの矢が飛んだ。鼻先を裂かれた魔物が、低く唸った。
ベルタが盾を構え、空き地へ出る。
小さな目が、彼女を捉えた。
魔物が走った。
短い後ろ脚で胴を押し、太い前脚を交互に突き出す。低い身体が、土を跳ねながら迫ってくる。
「ベルタ、支えるぞ!」
ヴィクトルの声に、彼女が腰を落とした。
魔物の前脚が盾へ当たる。
ベルタは真正面から受けず、盾を斜めにして身体を回した。
それでも、踵が土を削った。
踏みとどまった脚が、盾ごと押される身体を支える。
「抜ける!」
ベルタが横へ動いた。
魔物の頭が追う。
その首へ、マティアスの槍が突き込まれた。
穂先が皮膚を裂く。
深く押し込まず、引く。太い前脚が槍を払った時には、柄はすでに届かない所へ戻っていた。
続いて、鉤爪が起き上がる。
マティアスはさらに一歩退いた。
爪は空を掻いた。
見えている。
昨日持ち帰った話を、彼らは戦い方へ変えていた。
エドガーは弩を巻き上げながら横へ動いた。幹を避け、首の側面が見える位置を探す。
魔物は前脚を地面へ戻すと、今度は身体ごとベルタへ迫った。
彼女の背後には切り株がある。
「壁を出す! 下がって!」
イレーネが杖を振った。
ベルタが後ろではなく横へ跳ぶ。
直後、魔物との間で地面が割れた。
土が噴き上がり、人の背丈ほどの厚い壁となった。
振り下ろされた前脚が、その壁へ食い込む。
鈍い音が響いた。
壁の上端が砕け、土の塊が四方へ飛ぶ。だが、残った壁が魔物の胸を止めた。
ベルタは切り株から離れ、盾を構え直した。
魔物が壁を掻き崩す。
その脇から出てきた鼻先を、マティアスの槍が押し返した。
エドガーは狙いを上げた。
「マティアス、引け!」
槍が退く。
首の横へ、矢を放った。
刺さった軸が震え、魔物の口から荒い息が漏れた。
*
魔物は土壁から離れ、鼻を地面へ押しつけた。
両前脚で土を掻く。
「潜るぞ!」
ヨストが叫んだ。
「顔を上げさせろ!」
ヴィクトルの声とともに、キリアンが矢を放った。
耳の付け根へ刺さる。
魔物が顔を背けたところへ、マティアスが槍を入れた。鼻先を突き、頭を上げさせる。
そこへベルタが斧を振り下ろした。
狙ったのは、土を掻いていた右の前脚だった。
刃が硬い皮膚へ食い込む。
魔物が吠え、身体をひねった。
ベルタは斧を引き抜き、すぐに退く。
鉤爪が、彼女のいた場所を払った。
エドガーは飛んできた土を肩で受けながら、魔物の脚を見た。
右を地面につく時だけ、身体が傾く。
傷が利いていた。
だが、まだ頭は高い。あの太い首へ刃を通すには、横へ回るだけでは足りなかった。
魔物がこちらへ顔を向ける。
エドガーは弩を構えたまま、一歩横へ動いた。
小さな目が追ってくる。
見ろ。
こっちを見ていろ。
前脚の動きを目で追いながら、ベルタの位置を確かめる。
「盾を、二歩こっちへ寄せてくれ!」
声が、自分でも驚くほど鋭く出た。
ベルタがこちらを見た。
ヴィクトルも、エドガーと魔物の間へ目を走らせる。
「ベルタ、寄せろ。マティアスは逆へ!」
二人が動く。
魔物は盾を追って向きを変えた。
傷んだ右脚で踏ん張り、左脚を浮かせる。
エドガーは、その姿を見逃さなかった。
左を大きく振れば、身体はさらに右へ傾く。
その先を塞げば、横へ逃げられない。
戻る鉤を越えたところに、首が来る。
「横へ逃がしたくない。壁を作れるか」
エドガーが言うと、イレーネが魔物の脇を見た。
「その場所なら」
「頭が下がったら、入る」
ヴィクトルがこちらを見た。
エドガーは短く告げた。
「仕留める」
若い指揮官は一瞬だけ黙った。
それから、仲間へ向き直った。
「ベルタ、左を振らせろ。マティアスは頭を押さえる。イレーネ、横へ壁だ」
間を置かず、次の声が飛ぶ。
「強化を二人へ寄せる。キリアンは、回り込むものがいないか見てくれ!」
エドガーは弩を肩へ当てた。
*
ベルタが盾を突き出した。
魔物の鼻先へぶつけ、すぐに引く。
頭が持ち上がった。
左の前脚が、大きく開く。
エドガーはその瞬間、頬へ矢を放った。
魔物の顔がこちらへ振れた。
前脚は、すでにベルタへ向けて動いている。
頭と脚の向きがずれ、爪が大きく空を払った。
ベルタが退く。
鉤爪が伸びる。
盾の縁へ届く直前、彼女は身体ごと横へ抜けた。
爪が戻る。
エドガーはまだ動かなかった。
昨日、レオンの腕を裂いた鉤が、太い前脚の内側へ畳まれていく。
最後まで見た。
その時、魔物の右脇へ土壁が立ち上がった。
厚い壁が、逃げようとした肩を受け止める。
マティアスの槍が、反対側から首の付け根へ入った。
魔物が頭を振る。
横へは動けない。
傷んだ右脚が滑り、重い頭が地面近くまで下がった。
エドガーは弩を背へ回した。
左手で鞘を押さえる。
右手を、コートの陰へ入れた。
腰の剣は抜かなかった。
その脇へ、同じ形の柄を作る。
手を引き上げる動きに合わせ、刃を伸ばした。
外から見えるのは、抜かれた一振りだけだった。
魔力を注ぐ。
硬い皮膚も、骨も、まとめて断つ。
足りるだろう、では済ませなかった。
エドガーは踏み込んだ。
巨体が目の前を埋める。
鉤爪は戻った。反対の脚は傷み、胴の動きは壁に止められている。
作ってもらった隙は、まだ開いていた。
昨日、見誤った。
レオンも。
自分も。
その怒りが、刃を握る手へ集まった。
エドガーは首の横へ剣を叩き込んだ。
硬い隆起を越え、肉を断ち、骨へ達する。
刃は止まらなかった。
両手で柄を握り、踏み込んだ脚を軸に身体を回す。
太い首を、深く斬り抜いた。
魔物の胴が跳ねた。
「離れろ!」
エドガーは叫び、自分も後ろへ退いた。
マティアスが槍を抜く。
ベルタが盾を前へ出す。
魔物は頭を持ち上げようとしたが、前脚が身体を支えなかった。
顎が地面へ落ちた。
巨体が壁を擦り、横倒しになる。
土が揺れた。
エドガーは剣を下げず、前脚を見ていた。
鉤爪が二度、土を掻く。
やがて、それも止まった。
*
「怪我はないか」
エドガーが声をかけた。
ベルタが最初に答えた。
「ないよ」
「こちらも」
マティアスが続く。
キリアンとヨストも返事をした。イレーネは杖へ体重を預け、息を整えながら頷いた。
「まだ近づくな。周りも見てくれ」
エドガーが言うと、キリアンが森へ顔を向けた。
ヨストは後ろの道を確かめる。
ヴィクトルはイレーネを木の根元へ下がらせてから、魔物の動かない身体を見た。
誰も、すぐには近づかなかった。
エドガーも待った。
胸の奥には、まだ怒りが残っていた。
倒したからといって、昨日の判断が正しかったことにはならない。
それでも、今は前へ進める。
あの魔物が生きたまま、誰かの来る道へ戻ることはなかった。
死を確かめた後、エドガーは巨体の向こうへ回った。
腹側を確かめる間、身体が周囲から手元を隠す。
生成した剣を下げ、そのまま消した。
鞘へ戻す動作をして、コートを直す。
顔を上げると、マティアスが首の傷へ目を向けていた。
槍を持つ手が、少し止まっている。
エドガーは彼に言った。
「いいところで押さえてくれた」
「……そちらこそ」
マティアスは返してから、ヴィクトルを見た。
指揮官は何も言わず、土壁と、前脚が削った地面を見比べていた。
*
討伐の知らせを送り、交代が来るまでその場に残った。
死骸を調べ、特徴を記録する者も必要だった。牙犬の動きも、これで落ち着くと決まったわけではない。
エドガーは倒木へ腰を下ろした。
右手を開くと、指が少し強張っていた。
ヨストが水袋を差し出す。
「飲んどけ」
「ああ」
水を飲み、弩の具合を確かめる。
そばでは、ベルタが盾に付いた土を落としていた。
「最後、よく入ったね」
彼女が言った。
エドガーは首を振った。
「壁と槍がなければ、入れなかった」
「壁と槍があっても、入らない奴はいるよ」
返す言葉を探す前に、ベルタは立ち上がった。
エドガーは水袋を閉じた。
視線を上げると、少し離れた所でヴィクトルと目が合った。
若い男は何か考えている様子だったが、問いかけてはこなかった。
代わりに、交代を待つ間の見張りを割り振り始めた。
その声を聞きながら、エドガーは肩の力を抜いた。
今日の決着は、自分一人では作れなかった。
頼んだ場所に盾があり、欲しい時に槍が入り、逃げる先には壁が立った。
最後の一撃だけを、自分のものだと思う気にはなれなかった。
*
集落へ戻ると、レオンは羊舎の前にいた。
出迎えるために走ってくることはなく、立ち上がって二人を待った。
「戻りましたか」
「ああ。仕留めた」
レオンの目が、エドガーとヨストを順に見た。
「皆さん、怪我は?」
「ない。イレーネが魔力を使ったが、歩いて戻ってる」
そう答えると、レオンは息を吐いた。
「よかったです」
エドガーは荷物を下ろした。
「腕はどうだ」
「血は止まってます。動かさなければ痛みもあまり」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
レオンも、すぐに戦いの話を求めてはこなかった。エドガーの顔を一度見てから、荷物を置く場所を空ける。
エドガーは弩を壁へ立てかけた。
「あの鉤の話が役に立った。皆、戻るところまで見て動けた」
「……はい」
レオンが頷いた。
そこでヨストが、後ろから声をかけた。
「エドガー。報告が先だそうだ」
「今行く」
エドガーは水を一口飲み、器を置いた。
通り過ぎる時、レオンが道を空ける。
エドガーはその肩を叩くことも、何か言い聞かせることもしなかった。
ただ、いつもの調子で声をかけた。
「詳しい話は、飯の時にな」
「はい」
レオンの返事を背に聞き、オズワルドの待つ物置へ向かった。




