持ち帰った手掛かり
ヨストが戻ってきた時、レオンは水桶の前で手を洗っていた。
右手で水をすくい、左の指に残った血を落としている。包帯を濡らさないよう、肘は曲げたままだった。
「傷はどうだ?」
ヨストが尋ねた。
「浅いそうです。今日は休ませろと言われました」
「そうか。なら、飯は自分で食えるな」
その手には、器が二つあった。
レオンが顔を上げる。
「ありがとうございます」
「持てる方で持ってくれ」
渡された器から、麦と肉を煮た匂いがした。
ヨストはもう一つをエドガーへ差し出した。
「ほかの組も戻った。今のところ、怪我人はいない」
「そうか」
エドガーは器を受け取った。
レオンの肩から、少し力が抜けたように見えた。
三人で羊舎の壁際へ腰を下ろす。
予定では、持ってきたパンを森の中で食べるはずだった。まだ昼前だというのに、腰には剣を下げたまま、温かい飯を前にしている。
レオンは匙を取り、一口食べた。
それから、器を見たまま言った。
「途中で戻ることになって、すみませんでした」
ヨストは口の中の物を飲み込んだ。
「怪我をしたら戻ると決めてた。戻った。それでいい」
「でも――」
「次に一緒に歩く時、今日の分も分かって動いてくれ。こっちも、あの魔物は知らなかった」
慰めるような口調ではなかった。
ヨストはそれだけ言い、自分の飯を食べ始めた。
レオンも匙を動かした。
エドガーは何も足さず、温かい汁を飲んだ。
*
食事を終える頃、オズワルドから呼びに来た。
レオンにも、見えたことを聞きたいという。
羊舎の隣にある物置には、作業用の卓が運び込まれていた。壁際に農具を寄せ、中央へ周辺の図を広げている。
アデラは先に来ていた。
盾を卓の脇へ立てかけている。その表に残った溝を、ヴィクトルとマティアスが見ていた。
「ここを、横に擦ったのか」
マティアスの問いに、アデラが頷いた。
「受け流したつもりだったけどね。正面で止めてたら、どうなったか分からない」
レオンの目が盾へ向いた。
エドガーは隣の椅子を引いた。
「座れ。立って話す必要はない」
「はい」
オズワルドが全員を見渡した。
「まず、ほかの組から聞いたことを伝える」
森の縁では、別の場所でも牙犬の足跡が見つかっていた。
実際に見た組も二つある。どちらも少数で、声をかけたり矢を射たりすると、森の奥ではなく横へ逃げたという。
ただし、群れを追った者はいない。
「お前たちが会った魔物と関係があるかは、まだ分からん。だが、森の手前に牙犬が寄っているのは確かだ」
オズワルドは図の一か所へ指を置いた。
「こちらの組が、土を掘り返された場所を見つけた。根が切れ、獣の骨が残っていたそうだ」
エドガーたちが魔物に遭遇した所から、それほど遠くない。
ヨストが身を乗り出した。
「掘った跡は、どれくらいだった?」
「人が横になれるくらいの幅があった。深さは、膝より下だと聞いている」
あの胴なら、収まりそうだった。
だが、エドガーは頷くだけにした。
穴の大きさが似ていることと、同じ魔物が掘ったことは別だった。
ヴィクトルが口を開いた。
「地中から出たと言っていたな。どこでも潜れるのか?」
「そこまでは見てない」
エドガーは答えた。
「追ってきた時は、地面の上だった。木の間では肩が引っかかって、遅くなった」
「潜って回り込んではこなかった?」
「ああ。ただ、出来ないとは言えん」
ヴィクトルは図を見た。
その横でマティアスが、木々の描かれた辺りへ指を滑らせる。
「柔らかい土を選んでいる可能性はありますね。根の多い場所でも、同じように掘れるとは限らない」
「確かめるまでは、退路を土だけの場所へ取らない方がいいな」
オズワルドが言った。
*
次に、魔物の動きを確かめた。
エドガーが前脚の太さを手で示し、ヨストが頭と胴の大きさを補う。
最後に、オズワルドがレオンへ向いた。
「爪を見た時のことを、話せるか」
レオンは頷いた。
「最初は、横に払う動きでした。見えていた爪は避けました。その後、脚の内側から鉤のような爪が出てきて……戻る方に引っかけられました」
右手を前へ出し、指を曲げて動きを示す。
「腕ごと戻ってきたのか。それとも、その爪だけか」
マティアスが尋ねた。
レオンは一度手を止めた。
「両方、だと思います。でも、爪がどこから動いたのかまでは、見えてません」
「分かりました。見えなかった所は、そのままで」
マティアスは卓上の木片を使い、前脚の向きを置き直した。
アデラがそれを見て、盾を指す。
「あたしが受けたのは、その後だね。太い爪も鉤も、まとめてこっちへ来た」
ヴィクトルが腕を組んだ。
「払い終わりに入ると、戻りで捕まるわけか」
「俺は、そうなりました」
レオンの声が少し硬くなった。
「もう一度見ないと、毎回同じ動きかは分かりません。でも、脚を振った後も近づかない方がいいです」
ヴィクトルは頷いた。
「ベルタにも、そう伝える」
レオンが顔を上げた。
ヴィクトルは盾の溝をもう一度見ている。
「盾で止めて、槍を入れるつもりだった。鉤があるなら、盾の縁も引っかけられるかもしれない。位置を変える必要があるな」
レオンは何か言いかけたが、結局、頷くだけだった。
卓の上で、マティアスが木片の間隔を広げた。
自分たちが持ち帰った話に合わせて、次に戦う者の立ち位置が変わっていく。
エドガーはそれを見てから、矢が当たった場所を指で示した。
「肩は硬い。弩の矢が浅くしか入らなかった。ヨストの矢は頬に刺さってる」
「頭の横は狙えるか」
「止まってればな。走る時は低い。前に人が立つと、こっちからは見えなくなる」
ヴィクトルがマティアスへ目を向ける。
二人は短く頷き合った。
*
すぐに討伐へ向かうことにはならなかった。
今いる場所も、魔物の行動範囲も分からない。全員で森へ入れば、それだけ集落側の守りが薄くなる。
オズワルドは、今日の残りの動きを組み直した。
森の奥へは入らず、道と牧草地の間を警戒する。村の者には、単独で柵の外へ出ないよう伝える。
掘られた跡と目撃を整理し、翌朝、捜索する範囲を絞る。
「捜す組と、当たる組は引き続き分ける。見つけた者が、そのまま戦う必要はない」
その言葉に、ヴィクトルが頷いた。
「こちらも、逃げる先が分からないまま追い立てる気はない。居場所と、近づける道が分かってからだ」
レオンは黙って聞いていた。
オズワルドがこちらへ向く。
「お前たち四人は、今日は休め。夕方に傷を見てもらって、明日のことを決める」
「分かった」
エドガーが答えると、アデラとヨストも頷いた。
誰も、レオンの返事を待っているようにはしなかった。
それでもレオンは、皆より少し遅れて頭を下げた。
*
物置を出ると、外の明るさに目が細くなった。
ヨストは矢を補充しに行き、アデラは盾の裏の留め具を確かめるため、荷物の所へ戻った。
レオンは物置の前で足を止めた。
「エドガーさん」
「何だ」
「話せてよかったです。あの爪のこと」
「ああ。次に行く連中は、知った上で動ける」
レオンは左腕へ目を落とした。
「でも、見つけたから怪我をしてよかった、とは思えません」
「思わなくていい」
エドガーはすぐに答えた。
「分かったことは使う。それと、怪我をしなくて済んだか考えるのは、別だ」
レオンはしばらく黙っていた。
やがて、右手で左の指先に触れる。指を曲げる動きは、朝と変わらなかった。
「……はい」
その返事の後、物置からヴィクトルたちが出てきた。
マティアスはレオンへ軽く頷き、仲間の待つ場所へ向かった。
ヴィクトルはエドガーの前で止まった。
「弩は、まだ使えるか」
「ああ。傷んじゃいない」
「明日、捜索へ出られるなら、射手の位置も相談したい。こちらの弓と、射線を分ける必要がある」
エドガーは少し考えた。
「俺たちの配置は、オズワルドが決める。その後でよければ」
「それでいい」
ヴィクトルはレオンにも目を向けた。
「腕は治しておけ。鉤の話は助かった」
それだけ告げ、マティアスの後を追った。
レオンは二人の背を見送った。
エドガーは、羊舎の壁際を指した。
「座ってろ。水を取ってくる」
「自分で――」
レオンは言いかけ、止めた。
「お願いします」
*
午後、集落を出る組を、エドガーは羊舎の入口から見送った。
アデラは盾を脇へ置き、革紐の傷んだ所を切り直している。ヨストは木箱に腰を掛け、回収した矢の軸を一本ずつ確かめていた。
レオンも手を出そうとしたが、アデラに止められた。
「それ、両手を使うから。今日は見てて」
彼女は淡々と新しい紐を通した。
レオンは隣へ座り直した。
エドガーも自分の矢を出した。
肩に弾かれた一本は、回収できていない。森に残してきた牙犬の死骸も、今は取りに戻れなかった。
いつもの討伐なら、処分を済ませて帰り道を歩いている頃だ。
今日は、その仕事も途中だった。
レオンが、アデラの盾へ手を伸ばした。
今度は手伝うためではなかった。
表に刻まれた深い溝へ、指を触れずに近づける。
「あの時、盾がなかったら」
アデラが顔を上げた。
レオンはそこで言葉を切り、指を引いた。
「間に入ってくれて、ありがとうございました」
「次は、あたしが下がる時に頼むよ」
アデラは留め具を引き、緩みがないことを確かめた。
「その腕が治ってからね」
「はい」
レオンは姿勢を正した。
その後は手を出さず、彼女が盾を直すところを見ていた。
エドガーは矢筒の口を閉じた。
前の晩、同じ場所で装備を確かめていた時には、レオンは明日の道を楽しみにしていた。
今も、森の方へ目は向く。
ただ、腰を浮かせることはなかった。




