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届かないはずの爪

 牙犬の群れは、四人の脇を抜けていった。


 一頭がアデラへ牙を剥いたが、盾を向けられると身を翻し、そのまま仲間を追った。


 エドガーは弩を構えたまま、群れが出てきた藪を見た。


「道へ戻る。奥から何か来るぞ」


 ヨストが先に動いた。


 レオンとアデラが、森へ向いたまま下がる。


 木の根元で、土が持ち上がった。


 落ち葉が滑り、盛り上がった地面が崩れる。


 そこから突き出したのは、平たく幅のある頭だった。


 続いて、黒ずんだ前脚が土を掻いた。


 魔物が、地面から這い上がってくる。


 エドガーは見たことがなかった。


 背は低いが、胴は荷車ほどの長さがある。首は短く、頭から肩までが一続きに膨らんでいた。毛のまばらな皮膚には泥が張りつき、その下に硬そうな隆起が並んでいる。


 何より大きいのは、前脚だった。


 後ろ脚に比べて異様に太く、幅広い爪が土をまとめて押しのける。


 魔物は穴から腹を引き出すと、走り去った牙犬の方へ頭を向けた。


「知ってるか」


 エドガーが尋ねる。


「いや」


 ヨストの返事は短かった。


 アデラも首を振った。


 エドガーは弩の狙いを頭へ置いた。


 まだ撃たない。


 このまま群れを追ってくれるなら、こちらから注意を引く必要はなかった。


 四人が下がる間に、魔物の鼻先が動いた。


 小さな目が、こちらを向いた。


     *


 魔物は、這うように走り出した。


 低い姿勢のまま、太い前脚で地面を押す。


「来る。木の間へ下がれ!」


 エドガーは声を上げ、矢を放った。


 矢は肩へ当たった。


 硬い音がして、軸が斜めに跳ねる。


 浅い。


 魔物は止まらなかった。


 アデラが盾を構える。


 だが、その前へレオンが出た。


「俺が横へ向けます!」


 集落へ続く道は、ヨストの背後にある。レオンはそこから魔物を外すように、切り株の間へ動いた。


 足元を一度見ている。


 根の出ていない、乾いた土だった。


 無闇に飛び込んだわけではなかった。


 魔物の頭がレオンを追った。


 レオンが斜めへ踏み込む。


 前脚が振り上がるより早く、剣先が首の横をかすめた。魔物は頭を引き、片方の前脚を大きく払った。


 レオンは退いた。


 土を削る爪の先が、身体の前を通り過ぎる。


 避けた。


 エドガーにも、そう見えた。


 次の瞬間、前脚の内側から、細長い爪が起き上がった。


 泥に伏せられていた鉤爪だった。


 太い前脚が折り畳まれるように戻り、その鉤がレオンの上腕へ届いた。


 布が裂けた。


 レオンの左肩が、後ろへ引かれる。


 短い息が漏れた。


「レオン!」


 アデラが盾を前へ突き出した。


 レオンは踏ん張らず、引かれた方へ身体を寄せた。左腕をひねって鉤から外し、そのまま地面を蹴る。


 さっきまでとは、速さが違った。


 大きく間が開いたところへ、アデラの盾が入った。


 魔物の爪が盾の表を擦り、耳障りな音がした。


 彼女は受け止めようとせず、盾を斜めに向けたまま退いた。


 ヨストの矢が魔物の頬へ刺さった。


 頭が振れる。


「道へ! 戦うな!」


 エドガーは弩を肩から逃がし、剣を抜いた。


 レオンは立っていた。


 左腕から血が流れている。だが、剣を握る右手は下がっていない。


「まだ――」

「アデラを下がらせろ!」


 言葉を遮ると、レオンの目が盾へ向いた。


 彼はすぐに動いた。


 魔物の頭を剣先で牽制し、アデラが下がる分だけ横へ移る。もう、爪の届く所へは入らなかった。


 エドガーは二人の背後で、退く道を確かめた。


 荷道の入口まで、あと少しだった。


     *


 ヨストが笛を吹いた。


 長い音が、木々の間へ伸びた。


 魔物は追ってきたが、太い幹の間では大きな肩が邪魔をした。身体を斜めにして通り、そのたびに前脚で根を掻いた。


 四人はその間に距離を広げた。


 エドガーは一度だけ足を止め、コートの陰へ手を入れた。


 このまま距離を詰められるなら、撃つ。


 魔物が幹の脇から顔を出した。


 こちらを見ている。


 エドガーも、その目を見たまま下がった。


 やがて鼻先が別の方を向いた。


 遠くで牙犬が鳴いた。


 魔物は頭を低くし、落ち葉を嗅ぐようにして横へ歩いた。太い尾が幹を擦り、その姿が藪の奥へ隠れる。


 エドガーは手を戻した。


「止まるな。見えなくなっただけだ」


 誰も返事に時間を使わなかった。


 荷道へ出ても、足を緩めずに下る。


 後ろから枝の折れる音は来なかった。それでもエドガーは何度も振り返り、道の脇の土にも目を配った。


 ようやく、先の方で人の声がした。


 合図を受けた別の組が、道を上がってくるところだった。


     *


 事情を伝えると、駆けつけた三人のうち二人が森側を見張り、残る一人が集落へ知らせに走った。


 四人は道の見通しのよい場所まで下がった。


 アデラがレオンを座らせる。


「腕を見せて」


 レオンは剣を鞘へ収め、裂けた袖へ手をかけた。


 指に血がついている。


 袖の裂け目を広げると、上腕の外側に傷が走っていた。


 深く抉られてはいない。だが、傷口から流れた血で、肘まで濡れていた。


「指は動く?」


 レオンが左手を開き、握る。


「動きます」

「痺れは?」

「ありません」


 アデラは頷き、畳んだ布を傷へ当てた。


「押さえてて。巻くから」


 レオンが右手で布を押さえる。


 エドガーはそばへしゃがみ、顔を見た。


 血の気は失っていない。


 呼吸も戻っていた。


「ほかは」

「大丈夫です。ここだけです」


 レオンの視線が、エドガーからアデラへ移った。


「盾、すみません」

「盾はそのために持ってる。今は腕を押さえて」


 アデラは手を止めなかった。


 盾の表には新しい溝ができていたが、割れてはいなかった。


 ヨストが少し離れた所から戻ってきた。


「追ってくる気配はない。だが、今日は戻ろう」

「ああ」


 エドガーが答える。


 レオンは何か言いかけ、口を閉じた。


 包帯が巻かれる間、その目は道の奥へ向いていた。


     *


 集落へ戻ると、オズワルドが待っていた。


「負傷者は?」

「レオンだ。左腕をやられた。歩ける」


 エドガーが答えると、オズワルドはレオンを見た。


「先に手当てを受けろ。報告は三人から聞く」


 レオンは頷いた。


 救護を担当する者が羊舎の脇へ案内する。アデラも、使った布と傷の状態を伝えるためについていった。


 エドガーとヨストは、卓へ広げられた図の前に立った。


 出会った場所。


 牙犬が逃げてきた方向。


 地面から現れた魔物の大きさと、前脚の爪。


 分かったことを順に話した。


 オズワルドは途中で何度か問い返し、印をつけていった。


「その区画は閉じる。隣の組も道まで戻す。ヴィクトルたちを、いきなり入れることはしない」


 そばの者へ指示を出してから、エドガーへ向き直る。


「牙犬を追っていたと思うか」

「そう見えた。だが、確かなのは群れがあいつの前から逃げてきたことと、俺たちへの追跡を途中でやめたことだけだ」

「分かった。ほかの目撃と合わせて考える」


 ヨストが、土から現れた時の様子を補足した。


 エドガーは自分の矢が刺さりきらなかった肩を思い出した。


 見たことのない相手だった。


 レオンだけではない。自分にも、分からないことが多かった。


     *


 報告を終えて羊舎の脇へ行くと、レオンは低い腰掛けに座っていた。


 傷は洗われ、新しい布で覆われている。


 救護の男からは、今日は腕を休め、血が滲むようならすぐ知らせるよう言われたという。


 エドガーは隣へ腰を下ろした。


「深くなかったそうだな」

「はい」


 レオンは包帯を見た。


「……あの爪、見えてませんでした」

「泥に隠れてた。俺にも見えなかった」


 少し間が空いた。


 羊舎の向こうで、誰かが水桶を置いた。捜索から呼び戻された者たちの声が、入口の方から聞こえてくる。


「でも、それだけじゃないです」


 レオンが言った。


 エドガーは待った。


「あれで避けられると思ってました。最初の脚が遅く見えたので」


 右手が、膝の上で握られる。


「強化も、牙犬の時から、ほとんど変えてませんでした」

「上げる余裕はあったか」

「ありました」


 返事はすぐに出た。


「近づく前に、出来ました。下がる時は……出来たんですから」


 エドガーはレオンの腕から顔へ目を戻した。


「何を見て、あれで足りると決めた?」


 レオンは答えなかった。


 視線が地面へ落ちる。


 やがて、短く息を吐いた。


「前に戦った魔物なら、避けられる距離でした」


 そこで言葉が切れた。


 エドガーは先を促さなかった。


 レオンが、自分で続けた。


「初めて見る相手なのに、それで決めました」


 離れた場所で、出発の指示が飛んだ。


 伝令が道へ向かい、待機していた者たちが荷を持ち直す。


 レオンはその動きを見ていた。


「俺の腕で、四人とも戻ることになりましたね」

「ああ」


 軽い調子で否定する気にはならなかった。


「でも、戻ると決めてからは動けた。アデラも下がれた。そこは間違えるな」

「……はい」


 レオンは右手を開いた。


 指の間に、乾いた血が残っていた。


「まだ、魔力は残ってるんです」


 声は小さかった。


 エドガーは返事をせず、隣に座っていた。


 レオンはしばらく自分の手を見つめ、それから、傷のない方の手でゆっくり袖を下ろした。

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