19.心を繋ぐひととき
アズファルド様が国王陛下の使者に呼ばれてから、夕食まで待っていたけれど、結局その日は戻ってくることはなかった。
ガゼボで言いかけていたことの続きを聞きたかったのに、またの機会になりそうだ。私も儀式の事について調べないといけないのだから。
「リィナ様、おはようございます」
「おはようライラ。久しぶりね」
「ええ。イザベラはアズファルド様に呼ばれておりますので」
帰って来てたんだ。そう思うよりも先に、私のことは呼んでくれないのか。そう思ってしまった。随分と心が狭くなったものだ。
私の考えていることが伝わったのか、ライラはぽんと肩を叩いてくれた。
「アズファルド様が、昨日のことで確認したいとイザベラを呼んだのです。朝食の席でリィナ様にお会いできることを、心待ちにしておいでのようでしたよ」
優しく諭すようなライラの声で、私のとげとげした気持ちがすぅっと溶けていったような気がした。待っていてくれるという事実が、寝起きでぼんやりとした私の体温を上昇させる。
その一言だけでいそいそと準備を始める私のことを、ライラが小さく笑って見守ってくれた。髪の毛をまとめるのだけお願いして、自分ではできないアレンジできれいに整えてもらう。少しでも綺麗だと思ってもらいたいから、なんて言わなくてもライラには伝わっていたみたいだ。
そうして朝食を食べるだけにしてはずいぶんと綺麗にしてもらった私は、いつもの時間よりも少し遅れて食堂へ向かった。
「おはようリィナ」
「アズファルド様、おはようございます。お待たせしちゃいましたか?」
「いや、ちょうど席に着いたところだ」
アズファルド様の言葉がその通りだと示すように、厨房からパンが運ばれてきた。アズファルド様の食べる量よりも多いと思ったら、きっと私も同じくらいにやってくるだろうという料理人たちの心遣いのおかげだった。
同じ食卓について、同じ時間にご飯を食べる。一緒に食べているというだけで、いつも以上に美味しいと思うのだから私は本当に、手の付けられないくらい重症なのだと思う。
好きとか恋とか、その辺りの感情を置き去りにして花嫁という立ち位置からスタートした私は、ようやくこの感情に名前を付けられるのかもしれない。
「昨日は戻れずにすまなかった」
「いえ。国王陛下のお話は大事です。アズファルド様も夜通し対応していたのでしょう?」
お疲れ様です、という気持ちを込めてゆっくりと頭を下げる。竜と人間の感覚は違うと思うけれど、寝ないで一夜を明かすという対応をしたときに疲れを感じるのは一緒だと思う。
「俺は竜だ。その気になればひと月だって寝ずに活動できる」
「それはすごいですけど、私の感覚だと休んで欲しいと思ってしまいます」
「リィナが隣にいてくれたら休めると思うのだがな?」
頬杖をついて私の方を見る金の瞳は、楽しそうに細められた。どきりとしたのに、からかわれたのだと感じたのは、くすくすと小さく笑うアズファルド様の声が聞こえたから。
「そんなことを言うアズファルド様には、このデザートはお預けです!」
「分かった、悪かった。すまないリィナ」
離宮に来た当初の私は、こんな風にアズファルド様と冗談を言い合える仲になるなんて、想像すらしていなかった。
私が、アズファルド様に恋をするとも思っていなかった。
この人の隣にいたい、と思えたからこうして蔵書の中から情報を見つけるようなことだって、苦ではない。
取り上げたデザートをアズファルド様の前に戻し、自分の分を食べてから席を立つ。本音ではもっとアズファルド様と一緒に話していたいけれど、今は少しでも時間を作って花嫁について調べなければいけない。
「リィナ。このあと、付き合ってくれないか」
「はい、もちろんです」
花嫁の儀式について調べなければならないということは、アズファルド様だってご存じのはず。私が、ここ最近の空き時間はずっと書斎にいることも。
そんなアズファルド様からのお誘いなのだから、きっと大切な話。断るなんて、考えられなかった。
「こんなにのんびりとして、いいんでしょうか?」
誘い出されたのは、中庭。食堂からここに来るまで、離宮の景色の移り変わりを楽しむようにゆったりと歩いていたアズファルド様に、つい疑問をぶつけてしまった。
すれ違う侍女は微笑ましく見てくれたけれど、その表情にどこか緊張したものがあるのは隠しきれていない。
儀式を行うための花嫁は不釣り合いだと思われたり再審を言い渡されたりと話題に事欠かないし、国王陛下からの使者がやって来たりするし、休まることのない忙しい日々を送っているからだろう。
横目でちらりと私の顔を見たアズファルド様は、ふっと小さく笑って中庭のベンチに腰掛ける。隣をぽんぽんと軽く叩くので、少しだけ距離を空けて座る。向かい合って食事をしたり手を繋ぐことには慣れてきたのに、こうも至近距離にいることには、いまだにどきどきとしてしまう。
「……嵐の前には、静かな時間が必要だろう」
アズファルド様の声は穏やかで、少し低めの声が私に降り注ぐ。ぐいと肩を抱かれて密着したことで伝わった吐息が、私の中に響いているみたいだ。
「この間の、話の続きをしてもいいだろうか」
「エルセリア様のこと、ですか」
私の言葉に、アズファルド様は小さく頷いた。それから、言葉を探すように視線は空を彷徨う。ぐっと抱かれている手に力がこもったと思ったら、小さく息を吐く音が聞こえてきた。
「彼女の存在は、俺にとって特別だった。人と竜という種別の垣根を越え、共に過ごした時間は今でも色褪せない大切なものだ」
静かに語られる言葉には、わざと感情を削ぎ落したような平坦さがあった。それに気づいてしまってからは、むしろアズファルド様がどれだけの感情をエルセリア様に向けていたのかが、分かってしまう。
ただ、不思議とあの時感じた不安とか、そういった感情の気配はなかった。隣に立ちたいと決めたからだろうか。今はアズファルド様が語る、この人の過去を知りたいとだけ思える。そこにいるエルセリア様の存在は、今を生きる私にはどうやったって切り離せるものではないのだから。
「だが、ようやく気付いた。……遅すぎるとは思うが」
金の瞳が、まっすぐと私を見つめている。これは、あの日のガゼボでできなかった話の続き。
これから言われることは、あの日の私が期待した言葉と同じなのだろうか。
「リィナ。お前は、エルセリアとは違う。そんな当たり前のことに気付くのに、これだけの時間を費やしてしまった。
エルセリアとの時間は、俺の中にある。けれど、それは過去のものだ。忘れはしないだろうが、思い出に縛られているのは、今日で終わりにする」
アズファルド様は体に残った感情を全て出し切るように、細く長い息を吐く。これ以上、踏み入ることは許さないとばかりに作られていた高い壁。それを、アズファルド様自身が壊してくれた。
私に寄り添うため、そしてこの先を一緒に歩んでいくための、決意。それを聞いて私の視界はじわじわと滲んでいく。
「ありがとう、ございます。……すいません、止まらなくて」
止まれと思うたびに溢れているのではないかと思うくらい、私の目からは涙がぽろぽろと零れていく。アズファルド様がどうしていいのか分からないくらい動揺しているのが、触れた肩から伝わってくる。
そっと私の前に体を寄せて、ぎこちない手つきで私の目元を押さえてくれている。アズファルド様の触り心地のよい袖口に、私の涙が吸い取られていく。
「最初は、エルセリア様の名前を聞くたびに、ここがもやもやしていたんです」
袖がしっとりとするくらいの時間が経ってから、ようやく私が口にできたのはそんなこと。ここ、と示したのは私の胸。
そうだ。私は、今でもアズファルド様の中に生きているエルセリア様がうらやましかった。ずるいとさえ思った。花嫁として選ばれた私が、どう頑張ってもその中に入ることは出来ないのに、なんて思うくらい。
「でも、今は違います。アズファルド様がエルセリア様を大切にしてきたように、私も。
アズファルド様の大切なエルセリア様ごと、私も一緒に大事にしたいって思っています」
どう言ったら伝わるのだろう。ずるいともうらやましいとも思っていても、私はエルセリア様のことを嫌いにはなれない。
だから、エルセリア様を大切にしているアズファルド様を、大事に思いたいってそう伝えたいのに。
泣いた後でグズグズと鼻を鳴らしている私の言葉は途切れ途切れで、うまくアズファルド様に伝わったかどうか分からない。
そっと見上げたアズファルド様は、少しだけ目を見開いてそれからぽぽぽっと音が鳴るように顔を紅潮させた。
恥ずかしいのか、私の肩を抱いていないもう片方の手で、自分の顔を隠すように覆っている。
しばらくそうしていたら、中庭を抜ける風が少し冷たくなってきた。さっきとは違う理由ですんと鼻を鳴らした私を見て、アズファルド様の手がそっと触れてくる。
風が撫でてひやりとしていた頬に、温もりを移すような優しい触れ方をするアズファルド様の手。その温もりが心地よくてされるがままにしていたら、あごからくっと上に持ち上げられた。
「お前は、強いな。
ありがとう。リィナが花嫁でよかった」
今までで一番優しい笑み。金色の瞳は、とろりと溶けた蜜のように甘い感情を映していた。




