18. 忘れえぬ面影
「この本も……違うなあ。そっちはどう?」
「あまり、有益ではなさそうですね。もう少し読んでみます」
「ありがとう、イザベラ」
国の安定がかかっている、と聞いてぞわりとしたのはつい先日。アズファルド様の記憶だけを頼るわけにはいかないので、こうしてイザベラと二人で書斎の蔵書を調べるのが日課になった。
国の安定よりも、アズファルド様の力が暴走しないため、という気持ちの方が強いけれど。それを誰に言ったつもりもないのに、ライラはもちろん、短い時間しか接していないはずのイザベラも分かっていた。
そんなに、私は顔に考えていることが出てしまうだろうか。村で私の考えていることをすぐに理解するのは、マリナだけだったのに。
「リィナ様は、思っている以上に分かりやすいですよ。ですが、アズファルド様はそこに惹かれているのでしょう」
「なっ、なんでここでアズファルド様の名前が出るかなあ?」
「……呼んだか」
「いいえ、じゃなくて違う……でもない! お名前は出しました!」
不思議な顔をして書斎を出て行くアズファルド様を見て、イザベラはくすくすと笑う。慌てて否定してしまったけれど、誤解されていないだろうか。あの様子だったらたぶん大丈夫だとは思うんだけど、あとできちんと説明をさせてもらわないといけないな。
隣に立つと決めてから、私は自分の感情に振り回されている。迎えに来てくれると知った時は安心した。隣で支えてくれる手は思っていたよりも大きくて、触れた場所からじわりと広がる温かさを知った。
そして笑顔を見せてくれるようになってから胸に広がる感情に、私はまだ名前を付けられていない。
ドキドキする、もっと見たい、笑ってくれて嬉しい。もう少し触れていけば、この感情がなんという名前なのか、分かる気はしているのに。名前を付けたらいけないような、そんな気もしている。
竜の花嫁、そして儀式について調べているから、いったんその辺りの感情について考える事を止めているだけだ。没頭できることがあってよかった。そうでなかったら、考えの渦に溺れてしまう。
「……ひと息、いれましょうか」
「そうだね。焦って見落としても困るし」
イザベラが私に紅茶を淹れてくれることにすっかり慣れてしまったが、本人はそこのところどう思っているのだろう。罪滅ぼし、帰る場所はないとは言っていた。でも、彼女は公爵家の令嬢なのだから帰るところはなくても行けるところ、だったらいくらでもあると思うんだけど。
ちらりと視線を向けて見ても、カートの上で紅茶を淹れているイザベラは気付かない。私が聞いてもきっと本心を話してはくれないだろうから、侍女たちの世間話として少しずつ切り出していってもらうしかないだろうな。あとでライラに相談してみよう。
そんなことを考えていたら、紅茶の準備を終えたイザベラと目が合った。
「ひと息入れましたら、中庭へ行かれますか? アズファルド様に、呼ばれていたでしょう」
「そうだった! ごめん、戻って来たら片付けます」
私が急いで飲み干すことを見越してか、ぬるめに淹れてくれた紅茶。カップを空にして、カートに戻す。出しっぱなしの本も、重ねておいた分も、もう少し読みたかったところはあるけれど、アズファルド様をこれ以上お待たせするわけにはいかない。
そっか、さっき書斎に顔を出してくれたのは、私が忘れていないかを確かめるという理由もあったのかもしれない。
顔を見ても思い出せずにいたことが、今更ながら申し訳ないと感じてしまう。
「呼び立ててすまないな」
「いえ。お待たせしてすみませんでした。
何か、大事なお話があるんですよね」
中庭にあるガゼボ、最近ではここにいる時間も増えていた。人のほとんど通らない、静かな場所。
ぼんやりと中庭に咲く花を見ながら考え事の整理をしたり、通りかかったアズファルド様と他愛のない会話をすることだってあった。
侍女たちも知っている、私のお気に入りの場所。
だから、この場所を指定して呼び出された時には、誰にも聞かれたくないようなことを話すのかもしれないとは思っていた。
向かい合って座れば、アズファルド様がわずかに口元を緩めていた。その顔がなぜか少しだけ寂しそうに見えたので、私は口を尖らせてみせた。
「何かついてます?」
「いや……そのように勘が働くところが、エルセリアと似ていると思っただけだ」
「エルセリア様と、ですか」
分かってはいたけれど、アズファルド様にとってエルセリア様は特別だ。どれだけ時間が経っていたとしても、心の中にずっとその存在はある。そしてアズファルド様の隣にいたいと願っている私にとっても、逃れられる名前ではない。
エルセリア様のようになりたいと思う気持ちはあるけれど、亡くなっている女性に近付くなんて、どうしたらいいのだろうか。書物の中にあるエルセリア様は、とても立派な方だと褒めたたえられているのに。
「すまない」
「いえ。謝らないでください。過去を、懐かしむことは……悪いことではありません」
ちくり、と棘が刺さったように訴える痛みは、胸の奥から。この痛みの理由にも、なんとなく見当はついている。まさかとも思えるような、自分にそんな感情があったということを、驚きと共に知った。
ふるりと小さく頭を振るアズファルド様の、銀の髪が風に揺れる。夕焼けの光にきらきらと輝く動きから目が離せない。
花嫁だからではない。ただのリィナとして私は、アズファルド様の事を好ましく思っている。
「だが、俺はおまえと歩みたいと思った。過去に、とらわれている場合ではないだろう」
私を見据える金の瞳が、夕日よりも何よりも輝いて見えた。なんて言ったら、アズファルド様は本の読みすぎだと笑うだろうか。それでも、あなたの笑顔が見れるならなんだっていいと思ってしまうくらい、どうやら私は重症のようだ。
アズファルド様には、エルセリア様という忘れられない女性がいるというのを先ほど思い知らされているのにも関わらず、私の感情は溢れ出してしまう。
私と歩みたい、そう思ってくれたこと、口に出してくれたことがどれだけ私を舞い踊らせるのか、きっとアズファルド様は知らないのだろう。
「儀式についてだが」
はっとして、考えを切り替える。こつこつと細い指がテーブルを叩く姿すら絵になる、なんて今は考えない。
きっとアズファルド様も儀式について、自分の記憶を辿ってくれている。もしかしたら、国王陛下に協力を頼んでいるのかもしれない。
最近、よく来客があるし、決まって質のいい服を着ている方ばかりだから。
アズファルド様の竜としての力の安定が国のためにもなるのだとしたら、この儀式を準備不足で失敗させるわけにはいかないのだ。
「竜の花嫁になることを、どう思う。形式ではない、本当の花嫁として俺と生きることになる」
「怖くないとは、言えません。でも、私は自分であなたの隣に立つことを選びたいと思いました。そのために必要なことは、どんなことでもやりますよ」
どんなことをするのかは、まだ分からない。最初の花嫁であったエルセリア様と同じように、もしかしたら私の名前も今後ずっと残るのかもしれない。今の私が想像もしない使い方を、される未来があるのかもしれない。
それでも、私が花嫁となってアズファルド様の記憶に残ることが出来るなら。寂しがりなのに長い時を生きなければいけない、この人の優しい記憶になれるのだったら、どんなことが待っているとしてもきっと、乗り越えられる。
「そうか。……ありがとう、リィナ」
小さな声で呟いたアズファルド様の輪郭が夕日の陰に隠れてしまって、表情は見えない。けれど、きっとふわりと笑っているのだろう。
私の胸にはまた、忘れたくない記憶が増えた。
「不思議だな。おまえのその、瞳を見ていると心が安らぐような、そんな気持ちになるんだ」
「私の、瞳ですか?」
「ああ。初めは、エルセリアと同じ色だと思った。
――だが、今は違う」
瞳、そう言われて舞い上がった私の心は、エルセリア様の名前を聞いて急降下する。けれど、アズファルド様が続けた言葉に、またどきりと激しく鼓動した。
そっと手を取られて、優しく包まれる。鼻と鼻が触れそうなくらいの至近距離、アズファルド様が私を見ている。金色の瞳に自分の赤く染まった顔が映っているのが見えて、否応なしに体温が上がっていく。
「リィナ、俺は――」
「こちらにいらっしゃいましたか。アズファルド様、国王陛下より使者がおいでになっております」
普段だったら音を立てないライラが、がさがさとわざとらしく足音を立てて近づいてくる。
その姿を捉えた瞬間、アズファルド様はパッと手を離した。離れた手の間に流れる風の冷たさが、そこにあった熱を自覚させる。
「案内せよ」
しゃんと背を伸ばして、使者の元へと向かうアズファルド様を見送って、私は体の中の熱を逃がすように長い長い息を吐いた。それから、夕日が沈み切るまで、私はその場から動けなかった。
「アズファルド様、何を言いかけたんだろう」
あんな言い方をされたら、期待してしまうのに。




