611.タラのレモンバターソースがけと冷たい茨
・書籍『魔導具師ダリヤ』15巻、通常版・特装版、10月23日発売です。
どうぞよろしくお願いします。
緑の塔の居間は、いつもいい香りがする――
ヴォルフはそう思いつつ、半分に切ったレモンを絞った。
隣では、ダリヤが魔導コンロに置いたフライパンを熱している。
そこにタラの切り身が滑ると、じゅわっと空腹を後押しする音が響いた。
歌劇が終わってから王城に戻り、セラフィノ達とは馬場で別れた。
その際、前後の馬車の近衛騎士達が、安堵の表情となっていたのに納得したのは内緒である。
「レモン、もう入れてもいいかな?」
「ええ、お願い」
ダリヤへ確認をとった後、小鍋で溶かしたバターにレモン汁を入れた。
何度かご馳走になったメニューだが、ソースを作るのは初めてだ。
ダリヤが皿に盛ったタラのソテーに、慎重にレモンバターソースをかけた後、テーブルへ運んでいく。
「今日はありあわせだけれど」
彼女は申し訳なさそうに言うが、テーブルにはチキンスープにサラダ、カットチーズとしっかり並んでいる。
「いや、どれもおいしそうだ。いつもありがとう」
そう答えると、ダリヤが表情をやわらげる。
とても気遣われているので、次は別邸で彼女をもてなそう、そう思った。
二人でテーブルにつくと、白ワインをグラスに注ぎ、乾杯する。
兄グイードから渡されていたその銘柄は、『ガラスの星』。
白に銀の星々をあしらったラベルに、恋人らしき二人が寄り添うシルエットが描かれている。
自分の気持ちは兄に知られているのだが、ラベルを見るほどに落ち着かなくなる。
平静を装って口にしたワインは、甘い香りに対し、きりりとした辛口だった。
タラのレモンバターソースがけにナイフを入れると、身がほろりと割れ、白い湯気が立つ。
ヴォルフはそれを慎重にフォークにのせ、口へ運ぶ。
まだ熱い身を舌の上に載せると、思いがけぬ柔らかさでほどけていった。
白身魚のさらりとしたうまみ、溶かしバターのコク、そこにレモンの酸味が重なって、おいしさが一気に深くなる。
一口ずつ、しっかり噛んで味わった。
タラを味わい終えると、向かいのダリヤがテーブル上の小型魔導コンロを点ける。
そして、網の上、薄く切ったバゲットを炙りだした。
そのまま食べるのかと思いきや、キツネ色よりも少しだけ濃くなったところで下ろし、指で小さく折りはじめる。
タラのソテーの皿には、焦がしバターとレモンのソースがまだ残っている。
そこへ小さくなったバゲットを投入、スプーンで絡めた。
「この食べ方は父に教わったの。行儀が悪いけれど、酒の肴にいいって」
ヴォルフは勧められたバゲットを受け取り、彼女の真似をし、小さくちぎり折る。
そして、皿のレモンバターソースに合わせていく。
バゲットがソースを吸ったところで、スプーンで口に運ぶ。
端はまだカリッとした食感だったが、残りはソースを吸ってしっとりしている。
バターの濃い味わい、爽やかなレモンの酸味がちぎったバゲットに絶妙に絡み、濃いうまさを告げてきた。
その後にワインを飲めば、その味がすっきりと際立つ。
なるほど、これは酒の肴にぴったりだ。
「すごくおいしい……これはダリヤの父上に感謝しないと!」
心からそう言うと、彼女は楽しげに笑った。
そこからは食事をしつつ、話を始める。
「アウグストから聞いたんだけど、クラーケンの養殖が予定より早くできるかもしれないって」
先日、スカルファロット本邸に来ていた彼と、グイードやヨナスと共に話をする機会があった。
そこで聞いて、ダリヤに伝える許可も得た話だ。
「よかったわ。でも、クラーケンの成長が予測より早かったの?」
「いや、小さいクラーケンを海を網で区切って育ててるんだけど、その区画に合わせた大きさのまま、成長が止まって、成人、いや、『成クラーケン』になるんだって」
「『成クラーケン』……そんな性質があったのね」
ダリヤが緑の目を丸くしている。
自分もアウグストに聞いたときには驚いた。
だが、それであれば養殖はしやすいだろう。
「クラーケンのお見合いもうまくいってて、かなり順調だと。ただ、次の世代につなげたわけじゃないから確定じゃないけど、うまくいけば絶滅の心配はなくなるって、アウグストが」
そう説明すると、ダリヤがグラスを置いてうなずいた。
「このままうまくいくといいわね。クラーケンテープは地域毎に常備しておきたいし、食材としても大事だもの。ただ、クラーケンから見れば、大きくなれないのと餌がもらえるのと、どっちがいいかわからないけど……」
その言葉を聞きながら、ふと思い出したことがあった。
「そういえば、グレースライムも人間に便利な進化をしたよね。餌をもらって分裂はするけど、核がないって。もしかしたら、育ててる人のことを理解しているのかもしれない――」
「その場合、私とヴォルフは完全にスライムの敵認定よね?」
「もう、今さらのような気がする……」
しかし、彼女の言う通りではある。
むしろ、自分達は理解されないよう願っておくべきかもしれない。
いつものように会話を交わしつつ、ワインを空ける。
ふと、耳に今日の歌劇、『恋とはどんなものかしら?』の一節が思い出された。
ダリヤとの初めての歌劇が、仕事になってしまった。
そのことが、少しだけ、いや、白状すればかなり悔しい。
それほど飲んではいないのに、本音がこぼれてしまう。
「最初に君と歌劇に行くのが、俺でありたかった……」
「え? ヴォルフと一緒だったのに?」
困惑混じりの彼女に、あわてて言葉をつなぐ。
「いや、その、ちゃんとした形で歌劇に――ダリヤ・ロセッティ嬢、私が男爵になりましたら、歌劇にお誘いしてもよろしいでしょうか?」
言いかけた言葉を誤魔化すように、けれど本気も込めて、貴族的に尋ねる。
彼女も貴族の淑女らしい、整った笑みで答えた。
「喜んでお受けします。ヴォルフレード・スカルファロット様」
けれど、真面目な表情がもったのは、双方十秒に満たなかった。
笑いあった後、他愛のない話を続ける。
皿の料理をたいらげると、ダリヤが冷蔵庫から淡いピンク色の桃を持ってきてくれた。
皮を剥こうとする彼女に、ヴォルフは手を伸ばす。
「俺がやるよ。ナイフは慣れているから」
「ありがとう。お願いするわ」
桃を手に取り、刃を当てたが、伝わってくる感触がちょっと硬い。
収穫が少し早かったのかもしれない。
皮を剥きはじめると、横からの視線に気づいた。
ダリヤが、自分を見つめている――
わかっている、手元を見ているだけで他意はない。
それでも、彼女に見つめられると、どうにも落ち着かなくなる。
剥き終えぬうちに視線を返すと、ダリヤは我に返ったようにまばたきをした。
まるで、自分を見ながら、別の誰かを見ていたような気がして――つい尋ねてしまう。
「ダリヤ、どうかした?」
「いえ、ちょっと、その――父を思い出しただけ……」
表情を整えていても、いつもより小さな声だった。
「桃を剥くのが得意なお父さんだった?」
「ええ」
冗談めかして問えば、浅いうなずきが返ってきた。
切り分けた桃を小皿に載せ、少し硬い実をそれぞれ口にする。
一切れ目を飲み込んだダリヤは、切り換えるように言った。
「前に桃を剥いていて、指を切ったことがあったの。父が、『次から桃は俺が剥く、お前は剥くな』って。私は『父さんがいないときに桃が食べられないじゃない』って話して――父は、こんなに早くいなくなるつもりはなかったんでしょうけど」
笑っているのに、背中に泣いている少女がいるように感じた。
思わず伸ばしかけた手を、ヴォルフは膝の上できつく握る。
「ダリヤ、俺はいなくならないよ」
気がつけば、声が出ていた。
彼女は目を見開き、まばたきをし――ようやく柔らかに笑む。
「ええ、そうして、絶対」
「ああ。だから、君も俺のそばからいなくならないで、ずっと」
「――え、ええ! お互い、長く健康でいましょう」
ほんの少しあせった声、見返すまっすぐな緑に、もしやを期待してしまう自分がいる。
ここで想いを告げたなら、彼女はうなずいてくれるのではないか、そう思えるのに、冷たい茨を喉に巻かれたよう、言葉が続かない。
ずきり、こめかみが痛んだ。
手のひらに重い剣の感覚と、鼻先を漂う血の匂いを感じた気がする。
ここで戦いを思い出すのはなぜなのか。
きっと自分は、負け戦になるのを恐れているのだろう。
騎士のくせに、魔物討伐部隊のくせに、なんと臆病で意気地なしなのか。
けれど、これに関してだけは、勝利しか望まない。
想いを告げるまでに、少しでも彼女の力になれるよう、できることをかき集めなくては――
ヴォルフは口を閉じる口実のように、フォークで桃を刺し、口に運ぶ。
噛みしめたそれは、薄い甘さと共に、青い香りを残していった。
・・・・・・・
緑の塔から外へ出れば、涼しいというより肌寒い感じがした。
それほど遅い時間ではないが、ヴォルフは明日も朝から鍛錬である。
ダリヤは見送りのために門へと歩いた。
「ダリヤはそこまでで。夜は危ないから、門の内側にいて」
最近のヴォルフは、ちょっと過保護な気がする。
心配してくれているのはよくわかるのだが、その優しい目で見つめられると、ちょっと落ち着かない。
けれどそれを表情に出さぬよう、素直に従った。
「わかったわ。気をつけて」
「ああ。じゃ、また今度」
閉めた門の、こちらとあちらで、挨拶を交わす。
またすぐに会える。
王城かスカルファロット別邸の商会部屋で、数日もしないうちに。
それなのに、さみしいと思えてしまった。
門の内側に立ったまま、遠ざかる背を見送る。
と、不意にヴォルフが振り返った。
つい右手を上げてしまったら、彼も同じく右手を上げ――タイミングが完全にそろったことに、二人で笑ってしまう。
再び彼が歩き出すのに合わせ、ダリヤも塔に戻った。
階段をのろのろと上り、居間に入る。
先ほどまで二人でいたせいか、静かさがよりはっきりとわかった。
数歩進めば、きれいに拭かれたテーブルが目に入る。
以前は、あの席に父がいて、兄弟子が時々こちらの椅子に座り、ダリヤも腰掛け、皆で食事をした。
魔導具制作がうまくいったと笑いあったり、納期に青ざめたり、納品後の疲れにテーブルに突っ伏したり、忙しくにぎやかな毎日だった。
けれど、父は亡くなった。
兄弟子との婚約もつながりも途絶えた。
学生時代の友人は、急な引っ越しで会えなくなった。
後輩は、仕事のために突然遠い所へ行ってしまった。
人の命も、人との縁も、そういうもの。
終わりは必ずあり、人それぞれに道がある。
特別なことではない、そういうものだとわかっている。
けれど、一人きりで部屋にいると、逃げようのない闇を感じることがある。
「やっぱり、怖いわね……」
ぽつりとこぼしたつぶやきは、思いがけなく大きく響いた。
そう、とても怖い。
自分と親しくなった者は、皆いなくなってしまうのではないか、己の人生はずっとその繰り返しではないか、そう思えてしまうことがある。
自分は、転生者だ。
前世の記憶を持ったまま、この世界に生まれた。
そのことを、父カルロにすら死ぬまで言えなかった。
幼子の頃は、どう伝えていいかわからなかった。
大きくなって、うまく説明できるようになったら言おうと思った。
けれど、成長するにつれ、説明できないことや理解されない不安より、父を困らせたらどうしようという思いが勝った。
いいや、それは言い訳かもしれない。
父と自分は、互いにたった一人の家族だった。
それなのに、『前世があって、父母がいました』とは、伝えたくなかった。
そのことで、父と距離ができるかもしれない――それがとても怖かった。
自分はとことんずるくて、弱虫だ。
今、一番近くにいて、いろんなことを話しているヴォルフにも、前世のことが伝えられない。
「これ以上、好きになりたくないのに……」
かすれたつぶやきは、泣き声の響きに似ていた。
これでも、わかっているつもりだ。
ヴォルフは自分を大事に思ってくれている。
女性が苦手な彼だけれど、告白したら、もしかしたら了承してくれるかもしれない。
だが、その先を考えると、冷たい茨が胸に巻きつく。
ギリギリと心を締め付けるそれは、苦く痛い問いを繰り返す。
父を想って実家を出たという母、彼女が心変わりをしたように、己の心もうつろうものだろうか。
昔はそう怯えていたが、今はそれよりも痛い問いかけだ。
前世の記憶のある自分に、来世はあるのだろうか?
来世もまた、記憶をすべて受け継ぐのだろうか?
前世の記憶を今世に持ち越してきたように、今の記憶を持ったまま来世に行くとしたら、そこにはまた、誰も知っている人がいなくて――
何より、その世界にヴォルフがいないかもしれないことが、たまらなく怖い。
彼と過ごした楽しい日々、明るい笑い声、優しいささやき、支えてくれる温かな手。
この思い出を抱いたまま、彼がいない世界を生きる――それをどうしても考えたくない。
遠ざかる彼の背をさみしいと思う自分は、もう手遅れなのかもしれないが。
この迷いも、恐れも、弱さも、すべて越えられるくらいに強くなれたら――
ダリヤは考えを打ち切り、小型魔導ランタンに手を伸ばした。
スイッチをひねれば、部屋を照らしていたオレンジの光がすうと消えていく。
闇の中、目に残る光は暖かいのに、指先はとても冷たかった。




