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第四十七楽章 交渉のテーブル

「……総督が、交渉に応じる?」


知らせが届いたのは、日が傾き始めた頃だった。

ラドは信じれないという顔で聞き返す。ネナドがいつものいかつい顔を喜びに輝かせ、何度も頷いている。


「正式な返答だ。日時と条件を詰めたいと言ってきている」


一瞬、部屋が静まり返った。次の瞬間、歓声が弾ける。


「やった……!」

「ようやくここまで来たっ、ようやく!」


ミリャーナとラドは両手を広げ、抱き合った。


「……待て」


ネナドの声は低い。熱狂が、ぴたりと止まる。


「交渉の席に着くってことは」


彼は言いにくそうに、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「相手の手の内に、こちらが足を踏み入れるってことだ」

「……その場で捕まる」

「だけならまだいい」


冷静になったラドが、ミリャーナの肩から手を離す。


「最悪、交渉のテーブルが私たちの墓場になる」


さっきまでの高揚は嘘のように過ぎ去った。


「だとしても行くべきだ」


珍しく黙っていたオグが口を開く。


「相手はようやく、交渉のテーブルにつく気になった。この機会を逃しちゃダメだろ。危険を冒してでも」

「しかしまともな交渉ができるかどうか」

「何言ってんだよ。対等な交渉なんてできるわけないじゃん。相手は権力を持ってるし、黙らせるための手段も持っている」


絶望的な力差をけろりと示す。


「大事なのは、交渉した、交渉の相手になったって事実なんだよ。まずは一歩、一歩が無理なら半歩でも、前に進めばいいさ」


そうだな、と皆の顔に微かな笑顔が浮かぶ。通りで道を白く塗ってた時から、一年も経たない内に一国の交渉相手と見做されるようになったのだ。


「どこで交渉するって言うのは大事だな。向こうのテリトリーに行くわけにいかないし」

「かといって、あちらがこちらの本拠地に来るはずもない」


皆、押し黙り、頭を絞った。護衛の数、伏兵の可能性、魔弾の射程距離。あらゆる懸念を排除できる場所はどこか。

しばらく、誰も口を開かなかった。そんな中、オグがはっと息を呑む。


「……あそこは? 白の国には聖なる泉があるんだろ?」


白の国の面々が一斉に顔を上げる。

白壁の街の北にある村に、精霊が住んでいるとされる泉がある。精霊の姿を見た者はいないが、聖なる泉として崇められ、癒しの効果があるのだという。その精霊は争いや鉄を嫌い、半径一ヤードの範囲に鉄を持ち込むと泉の色は錆色に濁るのだという。


「平の町の聖地。白壁の街からやや離れているが、総督が行けない距離ではないはずだ」


ラドが地図で北側を確認する。


「昔は聖堂が立っていたが、今はモスクになっていると聞く。向こうも預言者教の施設ならば心強いだろう」


ネナドも付け加える。鉄を使えないとしても相手が殺す気ならば方法がないわけではないが、少なくとも魔弾や剣といった殺傷能力の高い武器は持ち込めなくなる。 


「人数は最低限。あまり多くても相手に警戒感を抱くし、意見がまとまらないだろう」

「ラドは決まりとして、俺も行こう。非金属の義手を作らねばな」


ネナドが苦笑いした。魔術師である彼がいてくれれば、身の安全をある程度保障できるだろう。


「俺もいい? 誰かその話し合いを見届けなくちゃならんだろ」


話はまとまり、場所は平の町の精霊の泉、人数はトップとその補佐、立ち合い人の三人で提案することにした。


         ‡   ‡   ‡


「こちらとしては白の国の人間による自治と、帝国兵の撤退を提案する。困難な道だ。しかし、これを交渉のとっかかりとして……」


ラドの言葉に、聞いている記者たちがペンを走らせる。

朝の空気は冷たく澄み、村の宿の前にはまだ薄い霧が漂っていた。交渉の場、精霊の泉へ向かうと聞きつけ、各国の使節や記者たちが早くから集まっている。若い青年が国家の未来を背負う――その異例さが、彼らの注目はさらに増していた。

少し離れた場所では、ネナドが木製の義手を締め直している。右腕の断面に合わせて丁寧に削られた義手は、有志の職人がこの日のために夜を徹して作り上げたものだ。オグは一本弦(グスレ)の弦に松脂を塗っていた。


「もうこの辺で解放してくれないか。仲間たちに挨拶したい」


話を打ち切って、共に活動してきた同朋へと向かうと、ラドはたちまち取り囲まれた。皆と握手や抱擁を交わす。出発前、仲間たちと最後の確認を行っていた。最低限妥協してよい条件、絶対に譲れない一線、帝国側が提示してくるであろう落としどころ。短い時間だったが、仲間たちと一緒に議論し準備していた。十分でなくとも、まずますだろう。


そんな中、人々が自主的に道を開け出した。近づいてきたのは、ベールをかぶったミリだった。本当は妹だが、現在は夫人として扱われている。彼女は不安を隠しきれず、ラドの袖をつまむ。


「……私も行く。心配」


ラドは一瞬だけ目を伏せ、柔らかく微笑んだ。


「ダメだ。帰って来られる保証がない」


自分たちは死地へ向かうのだ。大切な人にはついて来て欲しくない。


「ミリ。もし私たちに何かあったら、頼んだぞ」


自分によく似たモスグリーンの瞳が揺れる。


「何言ってる? 私にラドの代わりができるはずがない」

「ミリだから任せられるんだ」


ラドは妹の肩を抱いた。


「お前は正直だ。その誠実さは何より掛け替えのないものだ」


もしラドたちが消されれば、帝国は情報操作しようとするだろう。黒歌鳥の野で降伏すると見せかけて皇帝を傷つけたミロシュは、本来唾棄されるべき行為だ。交渉に赴く者をだまし討ちするなど、国の威信に関わる。

偽りと対抗しうるのは真実だけだ。


ミリャーナは唇を噛みしめ、落ちそうになる涙を堪える。これが、今生の別れになるかもしれないと、二人は気づいていた。

ラドは手を離すと、意を決したように背を向ける。その後を大きな背のネナドが続き、最後尾のオグはちょっと振り返って、笑顔で手を振った。


ミリャーナは、遠ざかっていく背中を、祈るように見つめ続けた。小さくなっていく三人の影を、最後まで見失わないように。

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