第四十六楽章 革命の歌
聖なる月が明けて三日が経った。サリフはいつもより遅く目を覚ました。このひと月は反政府組織の活動もなく、祈りの祭典を無事終え、ぐっすり眠れている。
薄い絹の天幕越しに差し込む光は柔らかく、何かが遠くで聞こえる。
それは、歌だった。
耳を澄ませば澄ますほど、はっきりとした旋律を帯びていく。
強く、前へ進む力を持った音。若き総督は寝台から身を起こし、眉をひそめた。
「……何だ、この歌は」
総督は舌打ちし、枕元の鈴を鳴らした。
「おい、誰か!」
しかし、誰も来ない。もう一度、強く鈴を鳴らす。
沈黙。
「来いと言っている!」
実はこの時、異変が起きていた。宮殿は多くの人手が必要だ。帝国人だけでは足りず、現地の白の国出身の人間も下働きとして雇っている。
それが、今日は来ない。
親戚の葬儀だとか、急な病とかで言い訳を付けたり、無断欠勤で一斉に休んでいたのだった。
総督は苛立ちを抑えきれず、寝間着のまま廊下へ出た。
警備をしていた衛兵が声に応じて駆けてきた。彼らもまた、外の騒ぎに表情を強張らせている。
「殿下、これは……」
「歌を止めさせろ! 今すぐに!」
サリフは窓を開けた。眼下の家々から、波のように歌声が押し寄せてくる。
――ここは我らの国
市場の女たち、荷車を引く男たち、子どもたち、老人たち、誰もが同じ歌を口ずさんでいる。ラドが作った、反抗の歌。サリフはかき消すように叫ぶ。
「兵を出せ! 歌っている者を捕らえろ!」
朝の光が街の家々を照らす頃、街の静寂を切り裂くように一つの歌が響いた。
「踏みにじられし此の地 祖国の旗掲げよ」
若い男の声だった。鳥の羽ばたきのように力強く、どこまでも広がっていく。いつしかその声に多くの声が重なっていく。
「奪われし名も誇りも 胸に秘め進むのみ」
水瓶を抱えた女が、パンを運ぶ少年が、野菜売りの男が旋律をなぞる。石造りの建物が共鳴し、まるで街そのものが歌っているかのようだった。そこへ、帝国兵が駆けてくる。
「やめろ! 歌をやめろ!」
兵士たちは怒鳴り、歌っている者の腕をねじり上げ、縄で縛り、片っ端から馬車へ押し込む。だが、止まらない。拘束された人々が、次々と牢へと連れて行かれる。その背中を見送りながら、残った者たちが、さらに声を張り上げる。兵士たちが捕らえるたび、声が増すような気さえする。
「剣で脅されようと 我らの意志は折れず」
兵が近づくと、その場にいる者は沈黙しても、別の場所から声が上がる。
屋根の上から、洗濯物を干す女の歌声が聞こえた。梯子をかけて登ろうとすると、路地の奥から杖を突く音と共に老爺の声が聞こえる。
「夜が深まろうとも 我が魂は死なぬ」
市場の中央では、若者たちが輪になって歌っていた。兵士が突っ込んでいくが、彼らは逃げず、声を張り上げる。
「故郷を拓きし祖は 我らと共にある」
兵士たちは荒々しい軍靴で街中を走り回る。
「歌うな! 黙れ!」
しかしその叫びすら、歌声にかき消される。
「隷属の鎖砕け 命など惜しくない」
誰を捕らえても、別の場所から湧き上がる。歌はまるで炎のように広がり、一向に消える気配がない。牢はたちまちいっぱいになり、牢自体が歌っているようだ。
「侵略者よ出ていけ ここは我らの国!」
帝国の支配の下で、長く沈黙を強いられてきた人々が声を取り戻していた。
街を、国を、大地を覆い、帝国に真正面に喧嘩を売るそれは、歌う革命だった。
オグの作戦は、三日間、日中交代で歌いまくるというもので、実に吟遊詩人らしかった。期限を区切ったのは、それ以上かかると皆の喉も心配だが、同時にやっているボイコットで生計に障りがあるからだ。
音が止んでも、繰り返し聞いた旋律が頭の中に残っているようで、気づけば口ずさみそうになる。そんな自分に気付き、歌う者を牢に入れるという命を出したサリフは頭痛が止まらない。帝国が鎮圧したのではなく、反政府勢力が設定した期間が満了したから止まったというのも腹立たしい。
「ふざけるな! 宮内に裏切り者を飼う気か!?」
王宮が回らなくなるからと、詐病で休んだ者を雇い続けなければならないと告げられた。怒号を轟かせても、官僚たちは沈痛な面持ちでうなだれるばかりだった。
そこへ現れたのは軍の伝令だった。
「閣下、緊急事態です! 北の街を警備していた一個小隊が武器を置き、ストライキを開始しました!」
「何だと?!」
それは、今まで以上の衝撃を持って迎えられた。
兵たちにも言い分はある。税の支払いが滞り、給与が支払われない。彼らは人間だ。誇りや忠誠心だけで腹は膨れない。食っていかねばならない。
彼らは給与の即時支払いと、治安維持業務からの除外を求めているらしい。
近頃は街を巡回するとからかわれたり、家までついてきて自宅を特定されたり、帝国兵殿は踊る馬亭で鯉のスープを三杯食べたと触れ回られたり、不愉快な思いばかりするので兵たちの心理的負担になっていた。
サリフは、椅子に深く沈み込んだ。帝国の牙であるはずの軍が自分の手を離れようとしている。暴力装置が無ければ、民衆を押さえられない。
そこへ、追い打ちをかけるような知らせが届いた。謁見の間の扉が左右に開き、白髪の宮廷魔術師が現れた。官僚たちが道を譲る中、ゼキ自ら封書をサリフへと差し出す。
「皇帝陛下からの親書で御座います」
手に取る前から、嫌な知らせであることは予想がついた。
震える手で封を切る。中の一行が嫌でも目についた。
『若いそなたには総督の任は早すぎたようだ。サリフ、汝を総督の任から解く。直ちに帝都へ帰還せよ』
兄からの事実上の更迭宣告だった。
「お労しや、殿下」
ゼキは老いた目を潤ませ、項垂れる。
手の中で、親書がくしゃりと握りつぶされる。このまま、すべてを失って帰れというのか。ラドという学生に、武器を持たぬ民衆に敗北した無能な弟として歴史に名を刻まれて。
「……まだだ。このままでは終わらせん」
黒曜石の瞳に、絶望を超えた昏い炎が宿った。彼は書状を暖炉の炎に投げ込み、冷徹な声で官僚たちに命じた。
「交渉だ。総督として彼らと話をつける」




