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第四十三楽章 帰る場所

朝の光が小さな窓から差し込むと、埃を含んだ空気が微かに揺れ、石壁に影を落とす。オグは冷たい床の上に座り、背中を壁に預けたまま目を半ば閉じている。

断食の影響は明らかで、顔は青ざめ、頬はこけていた。髪は乱れ、肋骨が浮き、唇は乾燥していて、時折、唇を湿らせる小さな動作だけが生きている証のようだった。


” 頼む、少し食べてくれ ”


パンを運んできた看守の声に薄目を開け、しかしゆっくりと首を振る。

お腹が減りすぎて減ったという感覚がない。動くのすら億劫だ。何日経っただろう。水は口にしているが、固形物は一切口にしていない。たまに来るシラが牛の乳や果実の汁を飲まさせてくれ、なんとか命運を繋いでいた。

まだもう少し耐えられそうだが、もう立ち上がるのもやっとで、日ごとに薄れていく体力は、時間が味方にならないことを告げる。


” 御覧の通り、まだ死んでいない ”


少し離れた所で、その様子を伺う人物がいた。


「オ……なんということだ……」


ネナドは金属でない方の手で顔を覆う。

ラドに扮したオグの衰弱が報じられるにつけ、流水の街では緊張感が高まっていった。

狭い街が殆どが顔見知りであること、マルジャンやその仲間は自分の行いを当初は誇り隠していなかったことなどがあり、犯行を知っている住民が何人かいた。ラドを救いたいと考えた何人かは彼らを帝国に突き出すことはしなかったが、マルジャンや仲間の自宅やねぐらにやって来て圧力をかけたり説得したりしはじめた。

このままでは帝国の目につくのも時間の問題だと考えたマルジャンは、自分一人の責任だと、仲間の罪も被って渋々ながら出頭することにした。ネナドは彼に付き添い、共に白壁の街へ向かった。多生の縁があるマルジャンの減刑を求めるためである。


その帰り道、彼を呼び止める者がいた。まだ若い彼は皇帝の弟のサリフの侍従で、手には恭しく小さなクッションと、その上に鎮座する銀細工で装飾された魔鉱石の欠片を掲げていた。それはラドとラドの父が持っていた指輪と同じように兄弟石で、片割れは宮殿の奥にいる若き総督の手元にあり、彼の声を届けている。侍従とその主人の声は、ネナドを牢の囚人の様子を見ることができるのぞき窓に案内した。


目にしたオグの姿は変わり果てていた。いつもふざけたり冗談をいっていた唇はひび割れ、不敵に笑う頬はこけ、眼窩は落ち窪み、骸骨のようだった。手足も棒のようで、節も浮き、骨に皮がついているだけだった。


この状態がまずいのは誰の目にも明らかだ。


” 彼と話をさせてくませんか。もう断食をする必要はないと、俺の口から伝えさせてください ”

” 断る。反政府組織に利する行為など容認できるか ”


絞り出すような懇願を、無慈悲な石は一蹴する。


” だが、今のままでは、死んでしまう! ”


声は悲痛に満ちていた。幾ら元軍人で慣れていると言っても、仲間が死んで気持ちの良いものではない。自分が発した声が思った以上に感情的になっているのに気づき、ゆっくり息を吐いて気持ちを静める。冷静に交渉をしなければならない。仲間を生かすために。


” ラドの名は国内外に知られています。彼の献身のおかげで、同朋たちの暴徒は沈静化しました。そんな彼が、帝国の拘束中に命を落とすようなことがあれば、あなた方にとっても都合がよくないのでは? ”


兄弟石は沈黙した。


このまま牢で死ねば、ラドは殉教者になってしまう。しかも、敵である帝国人を救おうとしたという美談付きだ。白の国の民衆はますます暴徒化し、国際的な非難は避けられない。サリフとしても看過できることではない。死ぬなら、帝国に拘束されていない状態で死んでもらわねばならない。


” 見たところ、彼はかなり弱っているようです。牢から出たとしても、暫くはろくな活動ができないでしょう ”

” ……取引したいというわけか ”


兄弟石はふむ、と考える。この男は自由の声の活動を停止してもいい、と提案している。ラドと名乗る男を牢で死なせないため、遅かれ早かれ、解放しなければならない。相手に条件をつけることができれば儲けものである。


” 貴殿らの組織を解散するというなら、あの男を開放してやってもいい ”


ネナドは奥歯が割れそうなほど噛み締め、無理やり痛々しい姿になった男から目を逸らす。ここで組織が無くなれば、これまで犠牲を払って積み上げてきた全てが無に帰す。牢に繋がれているオグも、本物のラドもそんな結末を望んでいない。


” 断る。我々はラドがいなくても運動を続けるつもりだ ”


例え、オグを死なせることになっても。


” 強情な。ならば、十年間の活動停止 ”

” 十年……?! ”


長すぎる。ネナドは必死で頭を回し、言い訳を絞り出す。


” 我々は民衆をコントロールできているわけではありません。彼らの不満は十年間も放置できません。別のはけ口、例えば過激な暴力へと流れていくでしょう。そうなれば、第二、第三の襲撃事件が起きるやもしれません。それは閣下にとっても望まぬ事態のはず ”

” では、どれくらいの期間なら保証できるのだ ”

” ひと月 ”

” 短すぎる ”


今度は兄弟石が不満げに喉を鳴らす。


” そうは言っても、民を宥めるのはこれが限界だ ”


サリフは考える。ラドは本物ではない。ならば、釈放しても彼らの活動に影響はない。しかし帝国が白の国に屈するようなことは……。


” どうかご慈悲を。それに、一度釈放したからと言って、もう一度逮捕できぬわけではありません ”


活動を再開すればまた逮捕すればよいという選択肢を示され、サリフの心は動いた。苦渋の決断であるが、牢の男をこのままにはしておけない。その後のことはその後考えれば良い。


” わかった。が、せめて聖なる月の間の行動を控えろ ”

” 感謝します、閣下 ”


ネナドは深く頭を下げ、交渉は成立した。


         ‡   ‡   ‡


” 立て ”


翌々日、オグは無理やり立たされ、何故かあらゆる枷を外され、地上へと続く長い階段を歩かされた。

両脇を捕まれ、連行されるような恰好だが、体力が落ちていてすぐに息が上がり、何度か途中で休憩しなければならなかった。


” どういうことだ? 俺は解放されるのか? ”


ネナドとサリフが交渉した内容を知らず、オグは困惑していた。


” 白の国の民は未だ囚われているようなものだ。俺ももう少し牢にいてもいいぞ? ”

” ……いいから ”


すっかり顔見知りとなった看守が、押し殺すような声で前へと促し、無理やり進まされる。

そうしている内に、階段を上がり切り、窓のある部屋にたどり着いた。地下にいたオグには、久方ぶりの地上は随分明るく、空の青が目を焼いた。


目が慣れる前に玄関にたどり着き、両脇を支えていた看守たちが手を放し、外に向かってそっと背を押す。


” ありがとう ”


不意に囁かれた言葉が不思議で、オグは二、三度瞬いた。

オグとしては、運動から暴力を廃したかっただけであるが、それが帝国人の目には自分を家族を守ろうとしたと映ったのではと、鈍くなった頭で考える。

ふらつく足で一歩、二歩と光の中に踏み出す。しかし、体に思うように力が入らず、膝が砕けるように力が抜けた。

白い手が視界を通り過ぎ、自分の体を柔らかく包み込む。


「くそっ、一発は殴ってやるつもりだったのに。これでは手を出せんではないか」


聞き覚えのある声だった。優しい言葉をかけてくれないあたりが本物っぽい。


「誰かと思えば、俺の妻か?」

「ああ。キサマのせいで既婚者になった」


そっちで勝手に結婚しといて、と反論したかったが、オグの痩せた背を撫でる手があまりに優しく、何も言えなくなってしまった。

目が慣れてくると、周りの様子が見えてきた。


釈放されたラドと思しき男を、人々が幾重にも取り囲んでいた。記者が紛れているのか、光板が使われ、何度も眩しさが走る。


「よく耐えてくれた!」

「死なないでくれ!」

「英雄の帰還だ!」


白い腕が、オグをしがみつくように抱きしめる。


「おかえり」


不思議と温かく、聞き覚えのない言葉だった。

オグには帰る家がない。でも今は、ここが、この腕の中が、帰る場所に思えた。


「……ただいま」

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