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第三十二楽章 偽りの力

宿屋の熱気から遠ざかると、外は少し肌寒かった。 すっかり暗くなった空には、無数の星が瞬いている。


 謙虚であれ、あなたは土でできているから

 高貴であれ、あなたは星でできているから


どこかで読んだ詩の一片が頭に浮かんだ。

ならば父も、亡くなった犠牲者たちも、土くれでできた肉体を捨て、魂となってこの空のどこかで輝いているのだろうか。透き通るような闇の中、行き先もわからず、立ち尽くしていた。


「ラド!」


名を呼ばれたが、振り向く気力すらなかった。


「大丈夫か?」

「大丈夫? ああ、大丈夫だとも。ピンピンしている。私の腹にも頭にも穴は空いてないからな」


全く大丈夫ではなかった。肉親に死なれたのだ。

オグが正面に回り込んだ。屈みこみ、顔を覗き込む。彼の目にはどう映っただろう。自分が今どんな顔をしているか、皆目わからない。


「気分は?」

「最悪だ。今にも死にたい気分だ」


父は死ななくても良かった。自分が余計なことを頼んだせいで、死地に出向く羽目になった。この町の人々だって、自分が集会を開くなんて言ったせいで、帝国に撃たれる羽目になった。


「帝国の支配が気に入らないなら、一人で歯向かって死ねば良かった。なのに仲間を作って、家族を巻き込んで」


ラドは当に死ぬ覚悟はできていた。だが、誰かに死なれる覚悟はできていなかった。


「私たちは今まで、帝国の連中の気まぐれで生かされていたに過ぎない。その気になればいとも簡単に我々を屠殺できる。あいつらは我々を家畜くらいにしか思ってない。人間でないから、対等ではないから、平気で無抵抗の人間を殺せるんだ」


その時、宿屋でわっと歓声が沸いた。ラドはそれを冷めた目で一瞥した。


「英雄だと? 新たな犠牲者の間違いだろ。お前は彼らを語り継ぐつもりらしいが、後世の笑い者になるだけだ。何も為さずに命を散らした者としてな。

帝国は強大だ。死体が幾つか積み重なったところで、びくともしないだろう。

帝国から自国を取り戻す? 自由を手に入れる?

そんなの嘘だ、偽りだ! できるわけが、ないッ」


瞳から、涙が零れ落ちた。吠えるような声は込み上げる嗚咽にかすれる。


「私は、彼らを、無駄死にするだけの戦いに駆り立ててしまった。勝てる見込みなんかないのに」


冷たく、あまりにも痛い沈黙が、夜風と共に吹き抜ける。


「ラド、お前がここで終わるというなら、俺は強要しない」


子どもに言い聞かせるような優しい声だった。民衆を焚きつけたのがラドならば、ラドを焚きつけたのはオグだ。歩みを止めても仕方ないと、オグだけは許してくれる。


「だが、一つ訂正させてくれ」


問いかけたのは、思いもしない言葉だった。


「偽りの何が悪いんだ?」


瞬間、頭に血が上る。


「悪いに決まっている! 偽りは、現実から目をそらさせるだけで何の力もない。

最初から現実だけ見ていればよかった。希望なんか抱かずに、黙って、諦めて、従って……そうしていれば、誰も死なずに済んだんだッ!」


喉を割くように、絶望を吐き出す。他人に噛みつくのは、そうしなければ立っていられないからだ。言いようのない悲しみが、内から苛んで、責め立ててくる。


「違うな。人は現実だけでは生きてはいけないんだ」


絶望を真っすぐに受け止め、オグは毅然と反論した。


「お前に、とある孤児の話をしてやろう」


地べたに座り込むと、幾つもの物語を奏でてきた一本弦を構える。


「その子どもは、ある薄汚れた街の片隅で、今にも死を迎えようとしていた」


弦がゆあんとなる。この薄暗い街のどこかに、子どものか細い息遣いが聞こえるような錯覚を覚えた。


「彼は、動く気力すらなく、横たわっていた。何しろ、何日も食べていなかったし、水すら口にしていなかった。手足は棒のように細く、垢で澱のように黒く、着ている襤褸は元の色もわからない。

彼は、両親の顔を知らず、自分がどうやってここまで来たのか覚えてすらいなかった。

このまま死ぬのか、と思った。死んでも良い気がした。

名もない孤児が死んだところで、悲しむ人はいない。せいぜい近所の連中が、片付けが面倒だと嫌な顔をする程度だ。

死んだら、腹は空かないのだろうか。そんなことすら思った。

彼は死を受け入れ、瞳を閉じた」


幼い身には厳しすぎる現実だ。生きていたって辛いだけ、邪険にされるだけ。生きる気力がなくなるのも仕方ない、気の毒な子ども。


「そんな彼の耳に、物語が聞こえてきた。通りの向こうで語っていたのは、老いた吟遊詩人(グスラール)だった」


幼い子どもを取り残されてやもめになった、ある王の物語。

子どもがあまりにも泣くので、王は狩りに出た先で、十二の瓢箪に水を汲んでいた見目の良い女を奥方にする。女には連れ子の娘がいたが、王はその子も実子同然に扱った。王子と娘も仲が良く、贈り物を分け合った。

ところが女は、自分の子と他所の子が同等というのが面白くない。そこで、父親が息子に害意を抱くように仕向ける。後妻をもらった父は元の父ではない。世継ぎの皇子は追い出され、乞食のなりをして他国に出るしかなかった。よくある話だ。


「吟遊詩人の語り口は軽妙で、彼は自分が追放された王子になったような気がした」


旅に出て道を行くうち、とあるほら穴で野宿することになった。ところが真夜中に奇妙な声が聞こえる。王子はぎょっとしたものの、様子を見にほら穴の奥へと向かう。

そこには隠者が住んでいて、病んで寝ていたため身動きできず、のどの渇きに苦しんでいたのだった。王子は彼のために小川に行き、掌で水を汲んだ。途中転んで怪我をしながら、幾らかは隠者に水を届けてやることができた。

隠者は語った。自分がうめいていたのは、この世に曲がったことや惨めなことが多いのを知っているせいだ。でもこんなにも寂しい場所にも親身になってくれる人間がいるとわかり、嬉しい。

そして王子の身の上を聞くと、聞いたものが踊りだすという小さな笛をくれた。


その後も旅を続けるうちに、いろいろあって羊飼いとして主人に仕えることになったが、ある日主人が精霊(ヴィラ)に目玉を奪われてしまう。王子は精霊(ヴィラ)の元へ行き、ずっと笛を吹くのをやめず、精霊(ヴィラ)が踊りすぎて音を上げるまで笛の音を聞かせる。王子は目を取り戻し、主人に返した。主人は大変喜び、お礼に素晴らしい馬と、素晴らしい武器をくれた。王子は世間に出て、強きを挫き弱きを助ける者となり、評判を上げる。


「聞いているうちに彼は思った。自分は実は王子様で、何かの事情があって城の外に出されてしまったのではないだろうか」

「そんなわけないだろ」


ラドは一蹴した。その子どもだって本当は知っているだろう。そこら辺の孤児が高貴な血なんて引いているわけがない。


――でも


実の父の国に火竜がやってきて、娘と国を寄越せと言っていると耳にし、物語の王子は助けに行く。武器はかすり傷を負わせられず、素手で戦うも敵わず。しかし笛を吹くと、竜は小さな泡となって、王子はそれを左足で踏んずけた。喜ぶ王に王子は自分の身の上を明かし、娘を奥方にして、元の鞘に収まった。


「全てを聞き終え、孤児は小さな拳を握った。再び目蓋を開けば、空は、どこまでも広かった。

こんなにも広いならば、温かい家が。抱きしめてくれる両親が。自分を待っていてくれる場所が。この世界のどこかにあるかもしれない」


辛い現実を直視してはとても生きていけない。幻想に縋る弱い子どもだと言われればそうなのだろう。

それでも、生きようと思えたのだ。偽り(ものがたり)のおかげで。


「偽りは凄いんだぜ。凄い力があるんだ。

人は居もしない神に気に入られようと、人のいないところでも善行を積む。

ありもしない死後の世界を知ることで、死を安らかに迎えられる。

誰も見たことがない、形も定かでない愛を信じ、永遠を誓う。

明日を生きるのをあきらめていたガキに、泥水啜ってでも生きようと思わせる力があるんだ」


その時ラドは不思議な心地がした。物語の方へ、小さな手を伸ばしている子どもの幻影と、今、目の前で弦を奏でる吟遊詩人が重なった気がして。


「世界は残酷で、人の心はどこまでも醜い。

いつまでも争いはなくならない。

強い者には何をしても勝てない。

弱い者はいつも搾取される。

そんな話、誰が聞きたいよ」


吟遊詩人は高らかに唄う。


「俺が語るのは、もっと心踊る物語だ。

努力が必ず報われるような。

悪が滅び、正義が勝つような。

聞くだけで勇気が湧いてくるような。

明日が来るのが楽しみになるような。

明るい、希望に満ちた物語だ」


青臭い決意表明を、あざ笑おうとして失敗し、ラドは顔を泣きそうに歪める。


「そんなの偽りだ。美しいだけの、空虚な嘘っぱちだ」

「ああ。だがいつか、俺はその物語(いつわり)真実(せかい)を覆ってやる」


這ってでも自分の後をついていこうとする孤児に、老いた吟遊詩人は「お前は何だ」と問いかけた。


――俺、王族の血を引いているんだ


そう言った幼い孤児を、老いた吟遊詩人は、笑ったりしなかった。それどころか「そうか。実は儂も亡国の大神官なのだ」と真顔で言ってのけた。


だから孤児は、彼を師に定めたのだ。 


実際、吟遊詩人は明日の宿も定まらず、安定した生活とは言えない。

師は流れ者の力量を越える遥かに高い水準を要求し、稽古も厳しかった。それでもオグは物語を、偽りの真実を語る仕事を天職に定めた。


「俺はどこぞの王子様で、お前は侵略者から国を救う英雄だ。

この世界は美しく、未来は素晴らしいものに満ちている。

俺はそんな世界で生きたいんだ。そんな世界を作りたいんだ。これが偽りだというのなら、俺は嘘つきで構わない」


一本弦(グスレ)をゆあんとかき鳴らし、吟遊詩人(グスラール)は笑う。


「お前にも俺にも、世界を変える力がある。誰かが嘘だと言っても信じてやろうぜ。自分だけは自分のことを」


ラドは震える息を吐き、怒りなのか悲しみなのか分からない声を返す。


「私は、父を含め、多くの人を死に追いやってしまった」

「自惚れんな。誰もが自分の物語の主人公だ。脇役のお前が幾ら喚こうが、決断するのは自分自身だ。お前は、お前の親父さんたちが、誰かに選択を委ねるような阿呆だと思うのか?

親の無いガキだって、自分の行き先くらい自分で決められる。彼らは自分の選択をしたまでだ」


お前のせいではないと、慰めよりも、敢えて厳しい言葉で伝える。責任を背負い込み過ぎるラドのために。


「それに、彼らの犠牲をどう扱うかは、これからの行動次第だろ。無意味なものとするのか、価値あるものとするのかは」


ぼんやりする革命家を、温かい体温が包みこむ。


「ラド」

「……ミリ」


妹がしがみつくように自分を抱きしめていた。

その背は嗚咽に震え、目蓋を埋めた喉元は、涙で冷たい。

少し離れたところでシラが、気まずそうに佇んでいる。旅慣れぬ彼女をここまで連れてきたのだろう。


オグは「ちょっと話があるんだけど」とシラと離れたところに移動し、今後のことや、必要な物資を打ち合わせを始めた。二人にしてくれたのだと気遣いを感じながら、たった一人っきりの兄弟と父を亡くした悲しみを分かち合う。


「引きこもりだったお前がこんなところまで来るなんてな」


ミリャーナは顔を上げた。自分によく似たモスグリーンの瞳は涙で濡れ、頬はやつれている。妹は自分の感情に正直だ。父が亡くなったから悲しい。だから泣く。他人の目とか、プライドとか、男としての振る舞いとか、がんじがらめに縛られ、素直になれない自分の代わりに。


「私は父の死を価値あるものにしたい」


自分以上に華奢な肩に手を置く。体温は温かい。今度はこの妹を失うかもしれない。そうでなくても妹を一人にしてしまうかもしれない。


それでも決めたのだ。自分は自分がついた嘘を現実にする。そのために何もかも犠牲にする覚悟を。


「協力してくれるか?」

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