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第三十一楽章 永遠の命

宿屋の一室は、厚い木の梁と煤けた壁に囲まれていた。外では風が鉱山の谷を渡り、窓の隙間から冷気が忍び込んでくる。蝋燭の炎が揺れ、集まった者の影を壁に大きく映し出していた。


「なぜ来なかったんだ、ラド!」

「俺たちは命を賭けて集会をしていたんだぞ!」


ラドが到着したと知れるや否や、住民や仲間たちが一言言ってやろうと宿屋に押し掛けた。しかし本人は椅子に腰を下ろしたまま、うつむいて動かない。父の死を目の当たりにしたときから、言葉を失ったままだ。時折指輪に触れ、父の声が聞こえてこないか確かめている。


「言っただろ、遅れたのは帝国の妨害にあったからだ。ラドを責めるな。父親を亡くしているんだぞ」


ネナドが代わりに弁解するが、集まった者は頭に血が上り、平静には程遠い。


「次は俺たちが殺される番じゃないか……」


誰かの恐怖と怒りが入り混じった声が部屋を満たす。あの時広場にいた者もおり、帝国兵が構えた銃口を思い出し、背筋を震わせている。


「いい加減にしろ、お前ら!」


ネナドが指導教官のように声を荒げた。


「帝国に反旗を翻すんだぞ。まさか、無傷で済むと思っていたのか? 犠牲があることくらいわかっていたはずだ」


部屋の空気が一瞬で凍り付いた。


「俺たちは武器での抵抗を放棄している。無抵抗の人々が犠牲になることで、正義の無さを、支配の不当さを示すことになる。これは死を前提にした運動なんだ」

「そんな言い方……」


死ぬのが仕事だと言わんばかりの突き放した物言いに、その場にいた人々が言葉を失う。

ネナドは元軍人だ。彼は死を恐れていない。軍人が死を恐れていては戦いにならない。感傷的な群衆にうんざりしていたのであろう、ネナドは首を振った。


「そんなの、当たり前だろう? この運動をするのは兵士でなくただの一般人だ。敵を害す術も持たなければ、身を守ることもできない。決死隊より劣りだ。ろくな装備もないのだから。

むしろ武力を放棄したことで、数だけで言えば犠牲はずっと少ないくらいだ。だって、そうだろ。数年前、この町が帝国に武器で歯向かった時は、反乱に加担した者は全員処刑され、三〇〇人の少年と七〇〇人の妻や娘たちが帝国に連れていかれた。今回死んだのはたかが三十人くらいだ」


ネナドは死に慣れている。だから冷静に分析することができるし、数で比較することもできる。しかし一般人は感情で物事を見る。例え死者が一人でも、家族にとってその死は果てしなく大きな一人なのだ。


「お前に何がわかるっ!」


知人が死んだのであろう、住民の男が元将軍につかみかかる。


あわや一触触発かというところで、ゆわん、と耳障りな音がした。


「マルコ・ポチェコビッチ。隣村の若い羊飼い。

早くに親を亡くしたが、非常に勤勉で、父親が残した羊を百頭近くに増やした。しかし帝国兵が村を襲い、家族でも家財でもある羊を奪われ、潰して兵糧にされた。最近結婚して子が生まれたが、羊の数は戻らず、貧しい生活をしている。自分の子孫はそんな思いを、誰からも理不尽に奪われぬようにと、運動に身を投じようとしていた」


入り口近くの蝋燭の炎が大きく揺れ、外から風が吹きこんできた。一本弦(グスレ)の音とともに入ってきた吟遊詩人は入り口近くの椅子にかけ、弓をすべらせる。


「村からは友と共に荷車に乗ってきた。そうだよな、アツァ?」


ネナドに突っかかっていた男は手を放し、「なんで知って」と吟遊詩人を凝視する。


「帝国兵にいち早く気づき、友人たちに警告した。自らも逃げようとしたが、流れ弾に頭部を射抜かれた」


アツァと呼ばれた男はよろよろと後ずさり、顔を手で覆った。押し殺した嗚咽が微かに聞こえる。


「その隣で冷たくなっていたのは、マリア・オプセニツァ。

父親と婚約者は数年前の反乱に参加し、父親は処刑、婚約者は戦死した。

生き残ってしまった彼女は、戦利品として新丘の町で駐留する兵の現地妻にされた。

食うには困らぬ生活だったそうだが、物質が豊かであっても心は悲しみに満ちていた。彼女は唾棄すべき肩書を与えられ、望まぬ行為を強要される日々に塞ぎこんでいた。だが最近は自由の声の活動を聞き、精霊通信にかじりついていたそうだ。

あの夜は帝国人である夫の目を盗んで外出した。持ち物にラザルの紋章を刺繍した旗があったそうだ」


また弦が鳴る。元将軍は姿を消していた吟遊詩人が何をしていたのか悟った。

遺族たちに話を聞いていたのだ。


「ムシャン・ジャフェロビッチ。元石工。人物像を得意とする腕の良い職人だったが、偶像崇拝をきつく禁じる帝国が支配するようになって仕事は激減。

鉱夫として生活し、鬱々とした日々を過ごす中、酒に溺れ、女房からも愛想をつかされた。

しかし最近は酒を止め、昔の道具を手入れしていたらしい。

ポケットには一部が焦げちぎれていたが、目盛りが刻まれた紐があった。もしかしたらラドの身長を測って石像にしようとしていたのかもしれないな」


犠牲者を英雄叙事詩として語るために。


「ドラガン・カタニッチ。

窃盗を繰り返し酒場では喧嘩を売る、どうしよもない鼻つまみ者だった。親や親類にも絶縁されていた。広場に現れた帝国兵に、まず足を撃たれた。呻きながらも這って移動し、親とはぐれた子を見つけた。ドラガンは最後、英雄的な行いをした。血のつながりもない、赤の他人の幼児に覆いかぶさり、その命を守った。その子は軽傷で済んだそうだ」


オグは一本弦(グスレ)を膝に抱えたままゆっくりと弦を奏でた。音は低く、部屋の隅々に染み渡るようだった。誰もがその音に引き込まれ、言葉に耳を傾けていた。


「彼らにとって死は不本意だっただろう。そんなのは当然だ。しかし、我が身の危険を予感しつつも、現状を変えようとあの日、広場に集まった。

帝国兵はそんなことお構いなしに、無慈悲な銃弾を浴びせた。

彼らの多くは、腕を後ろに組んで亡くなっていたそうだ。自分の命を奪おうとする相手に、決して暴力で応じぬように。

自分を殺す武器を前に無抵抗でいるというのは、立ち向かう軍人たちより遥かに勇気がいっただろう。死を前にして、他人のために命を落とした者もいた。彼らは英雄だ」


吟遊詩人は弓を振り上げ、皆の前に突き出す。


「それで? お前は」


一人一人の顔を見るように視線を巡らせる。


「お前は、どんな物語を紡ぐんだ」


ある者は唇を噛み、別の者は目を伏せ、黙り込んだ。オグは嘲笑うように唇を歪める。


「へえ、そうか。白の国の自由のために立ち上がった者たちは、帝国兵の銃弾を恐れ、運動を止めました。あり触れた結末だ」


ネナドは勢いよく立ち上がった。椅子が音を立てて倒れる。


「吟遊詩人の言う通りだ。ここにいるのは腑抜けばかりか? そうだよな、気概のある奴らは、黒歌鳥の野に眠っているもんな!」


生き残ったのは、ラザルと共に死ななかった者たちだけだという、安い挑発だ。


「ここで運動が終わったら、帝国の連中は思うだろう。今後、白の国の奴らが文句を言ったら、弾を浴びせてやればいいんだ。あいつらは臆病者だから」


拳を振り上げ、近くにあるテーブルに落とす。


「ふざけんな! ここは白の国だ。俺たちの国だ! 俺も、俺の仲間も人間だ。尊厳を踏みにじられていいわけないし、虫けらのように死んでいっていい奴らじゃない。

あいつらに思い知らせてやる! 銃弾を幾ら浴びせようと無駄だと。俺らはこの国を取り戻すその日まで、決してあきらめることはない。

俺と同じ気持ちでいる奴はいるか!?」


そうだ、と賛同の声が上がる。アツァが袖で目を拭いながら拳を振り上げていた。


宿屋に異様な熱気が篭るのを見て、ネナドが「オグ」と名を呼ぶ。


「物語の続きを聞かせてやろう。俺が死んだら、先ほどの英雄たちと同じように語ってくれるか?」

「ああ。命ある限り、必ず」


深く頷くと、ネナドは「ははは」と肩を震わせて笑う。


「こいつはありがたい。俺は皇帝ラザルくらいの男でなければ、吟遊詩人に語ってもらえないと思っていた。

人が死んだら、その人を覚えている者はいなくなる。せいぜい、子どもか、孫くらいだ。だが俺たちは、どんな風に生きたのか、何を思い、何をしようとしていたか、吟遊詩人か語り継いでくれるそうだ」


オグはネックを押さえ、弦を爪弾く。


「俺はこの物語を他の吟遊詩人も広めよう。そうしたら次の吟遊詩人が語り継ぐだろう。何十年も、何百年も。白の国の誰もが英雄たちのことを知り、未来永劫覚えていることになれば、それは、永遠に生きていると言えるかもしれないな」


あまりに骨董無形な話に、しかし笑う者はいなかった。


「先ほどは悪かった。彼らはただの数字ではない」


ネナドは頭を下げてみせた。


「死んだ者たちは、名もない民衆ではない。今日から英雄だ。

彼らの思いを、死を忘れるな。忘却は加害者の最も望むことだ」


宿屋に火種のようなものが伝播する。怒りでも悲しみでもなく、確かな意志のようなものだ。


「もし我々が忘れるならば、あの夜に流れた血は風の中で消える。だが覚えているなら、その血は、次の朝を育てる種になる。彼らの名を呼べ!」


ネナド声に続いて、皆で犠牲者の名を詠唱する。哀悼と呼ぶには些か異様な熱狂に満ちていた。


決意に沸く宿屋から、ラドは一人、そっと戸口からを抜け出した。

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