Episode1:薔薇に溺れる君は、愛を知らない。
────その日は、『あの人』の機嫌が悪かった。
何が『あの人』の逆鱗に触れたかは分からないけれど、きっと何かが気に食わなかったのだろう。
「お前が、居なければ…!!お前さえ、居なければ…!!!」
「っ…!」
「全部、全部お前のせいよ!!!!」
そう言って、リビングにあったコップや皿を私に投げつけてきたり。部屋を暴れまわったかと思えば、台所に行き刃物を手にして『あの人』は戻ってきた。その光景に、恐怖からか身体が震え、頬に汗が伝う。
(ヤバい…!!ヤバいヤバい、ヤバい…!!包丁を持ち出されるとは思ってなかった…!!このままじゃ…!)
逃げなければいけないと分かっているのに、私の身体は思うように動かなかった。どうすれば良いか分からず、ただ刃物を振り上げる『あの人』を見つめていると、『あの人』は歯を食いしばり、私を睨みつけて叫んだ。
「アンタさえ、居なければ……私は、あの人に捨てられることなんて、無かったのにッ!!」
そう叫んで、『あの人』は私に向かって刃物を振り下ろす。咄嗟に頭を傾けて避けたからか、刃物が私に刺さることはなかったが刃先が頬を掠めたのか、頬から少量の血が流れる。
「……」
『あの人』に告げられた言葉と、今にも殺されそうなこの状況。それを理解した瞬間、どういう訳か私の頭がスーッと冷えていき、少しずつ冷静になっていく。
(私さえ、居なければ……)
それは、『あの人』から何度も言われた言葉。幼い頃からずっと、『あの人』を怒らせる度に『あの人』が、私に言い続けていた言葉。だから私は、私の存在を『貴女』に認めさせるために。『貴女』に私と言う存在が、この世界を生きる…その許しを得るために。
(……貴女の期待に、応え続けていたつもり……だったんだけど)
そう考えていたからか、いつの間にか私は『あの人』に押し倒されていた。『あの人』は私の身体に馬乗りになって刃物を両手で持つ。私はもう抵抗する気も起きず、今度こそ私を殺そうと両手に持った刃物を振り上げる『あの人』を、私はぼーっと見つめる。
こんな状況なのに、涙の一滴すら流れない私は…やっぱり『貴女』の言う通り、欠陥品なのだろう。
(……なんて、くだらない)
私は欠陥品だ。だから、『貴女』の苦しみも悲しみも理解出来ない。欠陥品には、望みを持つ事もきっと、許されない。……けれど、もしも許されるのならば。こんな欠陥品でも何かを望んでいいならば。
──────もう、いっそのこと。
「……楽に、なりたい…」
「もう、『誰か』の為に生きるのは疲れた」そう呟いた私の言葉に、『貴女』がどんな表情をしていたかは、よく分からない。『貴女』は両手で握り、上へ掲げていた刃物を思いっきり振り下ろす。鈍い音がしたその瞬間、腹に鋭い痛みが伝わった。
「っ、か、は…!」
(痛い。痛い。痛い、痛い痛い痛い、痛い…!!!)
私の声に『あの人』は、ハッとして驚いたような顔をすると、持っていた刃物を床に落とし、震え始めたかと思えば叫びながら家を出ていってしまった。足がもつれ、転びそうになりながらも何かに怯えて、家を飛び出す『あの人』を私は横になりながら、じっと見つめる。鋭い痛みに耐えるように、腹を抑えつけると猫のように丸くなる。
─────刺されてから、何分経ったのだろう。
どれだけ腹を抑えても、血液は止まることなく流れ続けていて、息をする度に刺された場所がジクジクと痛む。どんどん呼吸が浅くなって、上手く息が吸えなくなる。刺されてからかなりの時間が経っているのか、寒さで指が震え始めた。
「っ、は、ぁ……はぁ………お、か……ぁ…さん……」
すぐに来てくれると思っていた。いつものように謝って、「ごめんね」って。「愛してる」って。……そう、言ってくれると思っていた。けれど、いくら待っていても……
─────あの人は、帰ってこなかった。
(……何が、駄目だったんだろう…)
『貴女』に認めてもらいたくて、嫌な勉強も耐えた。『貴女』に褒めてもらいたくて、『貴女』の望む『子供』で在りたくて『貴女』の望むとおりに生きてきた。それでも、貴女は─────
(……私を、捨てるんだね…)
もう、疲れた。どの選択が正しかった?──眠い。苦しい。痛い。───どの選択が、間違いだった?……分からない。私は、ただ…『貴女』に認めて欲しかった、だけなのに。
頭がごっちゃになりながらどれほど考えても、この結末に至った理由が分からず、とうとう寒さは無くなり眠気が襲ってきた。
(眠い……うん、そうだね。眠い)
今きっと、凄く眠い。だから、今日は寝てしまおう。寝て起きたらきっと、『あの人』も家に戻っていて、いつものように「おはよう」って笑ってくれるはずだから。だから、大丈夫。今日くらい、きっと……
「……ぉ、かぁ、さん……も、ゆ……して、く……る……」
段々と遠のく意識の中で、誰かが私に囁いた。それは、とても機械じみていて…けれど、とても懐かしくて優しい声だった。
“────これより世界の意志により、『聖女』の召喚を開始します”
その声と同時に、腹を刺され血を流す少女は眩しい光に包まれ、やがて消えた。少女が横たわっていたはずの場所には少女の遺体も、少女が流した大量の血液も、跡形もなく全て消え去った。
「……やっと、会えた」
消えたはずの少女の遺体は、真っ白な空間で横たわっていた。誰も何もないその空間に、一人の女性が現れた。アイスブルーの髪に淡い紅色の瞳を持った女性は、少女の頬を優しく撫でると小さく呟いて、少女の手を取る。そして、少女の左手の甲に優しく口付けを落とした。
「────私の、愛しい『聖女様』」
「どうか、貴女がこの世界で…心から、笑ってくれますように」
やがて彼女は、少女の左手を元の場所に戻すと用は済んだとでも言うように、光の中から姿を消した。彼女が口付けたであろう、少女の左手の甲には、紅い薔薇が咲いていた。
─────今度こそ、私が貴女を守るから。
誰も何もない空間で、女性の声が響き渡った。




